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県道に合流してから約500mで芦田川にかかる芦田橋に着きました。なんの変哲もない小さな川です。

いよいよ芦田宿が近づいてきました。

 

さらに数分歩くと「中居交差点」に着きました。

 

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この交差点の左手前に案内板がありました。ここが芦田宿の入り口のようです。

芦田宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅館6軒ほどの小さな宿場でしたが、この先の「笠取峠」を越える旅人や越えてきた旅人の休憩で賑わっていたそうです。あの「皇女和宮」もここで昼食を取ったそうです。

 

新しく作られたと思われる常夜灯もありました。

 

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道端の小さな道祖神やデザインされた街路灯が旧街道の雰囲気を出しています。

 

ひときわきれいに花が咲き誇っているお宅がありました。

 

「立科町役場入口交差点」を過ぎると、旧中仙道は緩い上り坂を左にカーブしていきます。

まもなく右手に白いRC建ての建物「ふるさと交流館芦田宿」が見えてきました。

 

隣の白い建物は、「コミュニティセンター」です。

 

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そのまた隣にあるのが「本陣」です。右の写真は「土屋家本陣門」です。

芦田宿は慶長2年(1597年)に設立され、北佐久地方では一番早くできました。この本陣土屋家は問屋を兼ね芦田宿の開祖でもありました。

本陣御殿(客室)は寛政12年(1800年)に再建されたものでイチイの木を使った上段の間

があり、大名の宿泊を伝える「宿札」も残されています。往時をそのまま伝える建物は、中仙道唯一と言われています。(案内板より)

 

本陣の向かい少し奥まった所に「脇本陣山浦家」がありました。山浦家の始祖が芦田宿開祖者の一人岩間忠助でした。

昭和52年隣家からの出火で主家は焼失し、現在は土蔵1棟のみが残されています。

 

本陣横の「芦田中央交差点」の斜め左前方にもう1件の脇本陣がありますが、こちらの脇本陣も「山浦家」が努めていたようです。

 

脇本陣の向かいに味噌・醤油の蔵元「酢屋茂(すやも)」がありました。江戸時代は酢だけの製造販売だったものが、明治に入り味噌も製造するようになったとこことです。

 

「酢屋茂」も向かいに「庄屋山浦家」の跡がありました。問屋としての役割を担っていましたが建物の老朽化のため取り壊し、今は奥に土蔵のみ残されています。

 

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その横に「金丸土屋旅館」がありました。江戸時代から続く旅館で、木鼻彫刻の施された出梁造りの建物は、200年前に建てられたそうです。

 

いままで見て来た主だった建物は、「芦田中央交差点」を挟んで200m程度の範囲にコンパクトにまとまっていました。小さいながらも当時の趣をよく残した宿場町だったと思います。