「六郷土手交差点」を後にして、国道15号の側道(旧東海道)を約6分歩くと、右手に「六郷神社」がありました。

社紀によれば、源頼義・義家父子が天喜5年(1057)この地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利を収めたので、その分霊を勧請したのが「六郷神社」の創建とされています。

 

鳥居の手前左手に「東海道跡」と刻まれた石柱が立っていてました。また「江戸名所図会」に描かれた「六郷八幡宮」によれば、この辺りに江戸から4番目の一里塚と高札場があったようですが、現在その名残は全くありません。

 

    

「六郷神社」から2、3分、右手の路地を入ったところに、「六郷用水物語」と書かれた柱が立っていました。

六郷用水とは、六郷領(現在の大田区の多摩川沿岸地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次大夫により開削された 農業用水路です。用水の工事は、慶長2年(1597)の測量に始まり、慶長14 年(1609)に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると終了までに14年という長い年月を費やす大工事で した。 

北多摩郡和泉村(現在の狛江市元和泉)で多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領を経て六郷領に至り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに二分されました。 この結果、六郷領と世田谷領の一部を合わせた約50ヶ村の村々 が恩恵を受けることになりました。

この標柱が立っている前の路地がかっての南堀に当たるところと思われます。

現在用水路後は散策路になっています。

 

    

「六郷陽水物語」の標柱から1km以上国道15号線の歩道を歩いていると、道路標識に日本橋の文字が見えるようになってきました。左手に見える斬新なデザインの建物は、「東京消防庁蒲田消防署」です。

 

蒲田消防署前から約5分で、環状8号線との交差点に着きました。前方には京浜急行羽田線の高架が見えてきました。

 

交差点を渡り約4分、左前方に京浜急行の蒲田駅が見えてきました。

 

    

京急羽田線の高架を過ぎ2分弱歩くと、呑川に架かる小さな橋がありましたが、信号を見ると「夫婦橋」と書いてありました。古くは、六郷用水に並んで架けられていた二つの橋を「女夫橋」と呼んでいたことによるそうです。

 

「夫婦橋」から約4分、国道上の距離ですが日本橋まで15kmの所まで来ました。

 

15kmの道標の前方に「聖跡蒲田梅屋敷公園」のこんもりとした緑が見えてきました。

 

それほど広くはない公園ですが、門構えは由緒ありそうな公園でした。入り口には「明治天皇行幸所鎌蒲田梅屋敷」と刻まれた大きな石碑もありました。

 

説明板によりますと、

元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に、「和中散」と呼ばれる食あたり、暑気あたり等に効く道中常備薬を売る店が3店開店しました。このうち南原にあった店が、後に北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転しました。

文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開きました。亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。

 

また「大田区体育館」と刻まれた古い門柱も残されており、かってここに大田区の体育館があったものと考えられます。

 

振り返って見ると、道路の反対側に現在の「大田区総合体育館」がありました。

 

15~16分ほど国道15号線の歩道を歩くと、右から来る国道131号線と合流する交差点に着きました。

 

    

国道131号線の横断歩道を渡り左折し20mほど歩き、右折しました。ここからカラータイルで舗装された「美原通り(三原通り)」になります。旧東海道は国道15号線の拡幅工事により姿を消しましたが、「美原通り」は当時の姿を残している通りです。

 

    

美原通りに入るとすぐ、左手に「旧東海道」と刻まれた石の道標が立っていましたが、道標の頭部には往時の風景を描いた浮世絵がありました。

 

    

道標の30m程先に丁字路がありますが、この辺りに江戸から3番目の一里塚がありました。かっては一里塚跡を示す標識も立っていたようですが、念入りに探しましたが見つかりませんでした。

 

一里塚跡から1、2分、前方に赤い欄干の橋が見えてきましたが、

 

    

橋の手前の右手の路地の入口に「するがや通り」の表示がありました。

 

路面には「するがや」の提灯を持った歌舞伎役者も描かれていました。

 

橋のたもとに建つ石柱にするが通りの由来が書いてありました。

東海道から内川橋際(ここ、かってはするがや橋と呼ばれていました)で分かれ、羽田方面に至る道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋」という旅籠があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。

歌舞伎演目「極付幡随長兵衛」は、侠客の元祖である幡随院長兵衛が男の意気地を貫く覚悟で死地に赴く世話物狂言ですが、その長兵衛が定宿にしていたのがこの「駿河屋」です。

 

  」です

「内川橋」から3、4分歩くと環状7号線との交差点「環七美原通交差点」に着きましたが、交差点左手前に道標があり、「太田区のうち、南、中、北原をまとめて三原通りという」と刻まれていました。現在の通りの名前は「美原通り」ですが、先ほどの「内川橋」の傍に「美原通り」の説明では、「かっては「三原通り」と呼ばれていた」としか書いてありませんでした。

美原(三原)通りはかつて、東海道の品川宿と川崎宿の中程に位置し、いわゆる「間の宿」として江戸時代から賑わっていた通りです。旧大森村の小字である南原、仲原、北原の「三原」をほぼ南北に縦貫する東海道の一部で、国道15号線の拡幅工事から外されたため、美原(三原)通りは今日でも旧東海道の面影を残しています。

 

    

街灯は明治時代をイメージしているのでしょうか。

 

環状七号線を越えてから約5分、左手に「美原不動尊」の小さな社がありました。

 

    

「美原不動尊」から1分弱、「大森スポーツセンター」の前に道標がありましたが、ここにも「美原通り」の由来が書いてありました。

 

この先で「美原通り」は国道15号線(第一京浜国道)に合流しました。

 

つづく