プロ野球トラブル史でもう二度とないのではないか?と

思われる「放棄試合」

それは戦後のドタバタ時に起こった笑うに笑えない物でした。

 

プロ野球は終戦後、すぐにプロ野球再開に動き、
1946年にはリーグ戦を再開した。

しかし、戦後初のペナントレースは物資不足、交通インフラの整備不足等
戦争の傷跡が深い時代だったので、通信インフラは郵便がメインだった。
プロ野球初の放棄試合はそんな時代だったからこそ起きた事故だったかもしれない。

1946(昭和21)年9月27日
西宮球場ではゴールドスター対セネターズ12回戦が行われる予定だった。
球場は2,000人のファンが東京から来たセネターズの突如現れた
ホームランバッター大下弘、慶大選手時代から人気のあった飯島滋弥の
バッティング練習を見ようと駆けつけていた。

試合は1時開始予定、なかなかセネターズの選手が来ない・・・。
セネターズの宿舎は西宮から電車で15分の宝塚にとった。
前夜から降り続いていた雨は、西宮球場にも翌日朝10時過ぎまで降っていた。


雨が上がったのは午前11時すぎ、ゴールドスターの打撃練習が11時30分頃から
始まったものの「セネターズの選手がいない」と関係者たちが心配になり、
宝塚の宿舎に電話した。なかなか繋がらない電話をかけ続け
やっとつながり聞けば
「宿舎のまわりはずっと雨が降り続いていたので、選手は中止と思い込み
 遊びに行ってしまった」という。

試合をやるとわかったセネターズ側は宿舎に残っている選手が
急いで西宮球場にかけつけてもベンチにいるの4、5人しかいない。
遊びに行っている選手に招集しようにも、当時の通信事情では不可能、
時間は刻々と過ぎていく・・・・。


金政球審はどうにもならない状態を連盟幹部と相談、
「午後1時30分試合開始」と決め、選手は集まる気がしない。
午後1時すぎ、ゴールドスターの選手は守備につき
1時27分、とうとう球審はしびれを切らし、
「放棄試合」を宣告した。

 



その後、
「グラウンドに駆け込んできたセネターズの横沢三郎監督は
メンバー表を片手にヒラヒラさせながら青くなって立っていた。」
(ゴールドスター監督 坪内道則監督談)

 

 

 

大下選手は遊びに行ってしまったのだろうな~(笑)

 

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