野球雲ではスパースターだけでなく、
その時代に活躍したけれど、現在ではあまり語られない選手や記録を
取り上げていくことが、大事だと思っています。
2017年12月に刊行した、野球雲10号「松竹ロビンス」特集では
傍流球団のおもしろさ、悲しさを少しでも伝わればと思って制作しました。
松竹ロビンスは1936(昭和11)年に巨人、阪神と共に
プロ野球創立時の球団にもかかわらず、1950(昭和25)年の
セ・リーグ優勝以外では記録や記憶にも忘れらた存在にも思えます。
その松竹ロビンスが戦後のプロ野球を盛り上げている頃、
大エース真田重蔵や初代新人王大島信雄と比べると
目立たたない投手陣の中で、違った意味で記録を持つ投手がいました。
それは、小林恒夫投手です。
(小林常夫の時代もあり、現在は小林経旺氏)
(大洋時代)
1926(大正15)年1月1日生まれ
長野県出身。
左投左打の投手で
社会人野球を経て、1947(昭和22)年、
国民リーグの大塚アスレチックスに入団。
翌年、国民リーグが解体、金星スターズに買収されたたため
金星スターズに入団、1949年大陽ロビンスに移籍、
1950年の松竹ロビンス優勝時には活躍でできなかったが、
1951(昭和26)年に18勝15敗の活躍で準エースの位置に上がってきた。
翌年も活躍を期待され、50試合37先発をし321.2回を投げたが
この頃の松竹ロビンスは崩壊寸前の弱さで
34勝88敗 勝率.288という弱小球団になり、
小林投手の頑張りも12勝27敗勝率.308と大きな負け越しをした。
(それでも球団勝率より少し良い)
翌年、松竹は大洋ホエールズと吸収合併し
大洋松竹(洋松)ロビンスで再出発したが、
合併によるチーム内の派閥争いの中
故障もあったのか?活躍できず
1953年から1957年までに9勝しか勝てず
負け数は45にも達し、勝率.167!
1958年に近鉄に移籍したものの、2敗を喫し、未勝利に終わった。
通算46勝110敗は負越し数 64 は
NPB史上最大の負け越し数の投手として記録に残った。
ここまで負越しても投げる投手の時代だったかもしれないが、
今の時代にもどこか気になる投手のひとりとなったのが、
野球記録を探すおもしろさにもなります、
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