◎阪急電鉄 プロ野球設立に奔走した小林一三

 


①大阪府、兵庫県、京都府 

②大阪梅田~三宮・宝塚・ 河原町ほか 

③146・6㎞


京浜急行に続いて野球史に登場する 私鉄は阪急電鉄。

 

 早稲田大学野球部のOB河 野安通志が1920(大正9) 年に

設立した日本運動協会(芝 浦協会)だったが、

関東大震災で崩壊状態になったのを、

阪急の創業者小林一三が関西 に呼び寄せ、再結成。

「宝塚運動協会」として野球ビジネス に参画した。

 

小林一三は鉄道を都市間を結ぶだけの交通手段としては考えず、

ビジネスとして沿線開発を行い、街を育てることで

小林一三は娯楽を大きな産業として考え

阪急の終点宝塚に「宝塚歌劇団」を創設したことでも有名。

 

昭和恐慌の影響で「宝塚運動協会」はまもな く解散したが、

昭和 10 年のプロ野球誕生には再度「阪急軍」 として参入、

その後阪急ブレーブスとして長く活躍した。

 

 球団創立時には慶応OBが多く、宮武三郎、山下実等、 

六大学野球黄金時代の選手が入団し派手にスタートしたが、 

成績はあまり目立つことなく終わった。

 

 阪急軍の大きな功績の一つに西宮球場を建設したこと が挙げられる。

これは阪神甲子園球場に対抗したものだが、 

ロサンゼルスのリグレー球場を参考にした当時の日本屈指スタジ アムだった。(注1)

 

 

戦後、甲子園球場がGHQに撤収されている 時期、

阪急西宮球場の存在があったからこそ

プロ野球、中等野球大会の復活ができたのだ。 

 

戦後はパ・リーグ加盟、当初は「弱くないけど、強くも ない」状態だったが、

西本幸雄監督の下、1968(昭和43 )年に初優勝。

南海、西鉄に代わるパ・リーグの覇者となっ た。

 

1975(昭和 50 )年上田利治監督の下、念願の日本シリーズ制覇。

その後1976(昭和51)年、1977(昭和52)年には

巨人を倒し、日本シリーズ3連覇の偉業をした。

米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、山田久志、 福本豊、加藤秀司等の名選手を出した。 

その後、1988(昭和63)年1月にオリエントリーズに譲渡、

オリックス・ブレーブスとなった。

そして、阪急電鉄は野球産業から身を引いた。

 

(注1)

Wikipedia等ではシカゴ・リグレー球場となっているが

阪急軍に入団したジミー堀尾が阪急軍から西宮球場を建設するための

青写真をロサンゼルスのリグレー球場のものを取り寄せた。という説もあるので

野球雲ではロサンゼルス・リグレーとします。

 

 

 

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