1965年巨人のリリーフとしてマウンドにあがる
宮田征典投手は毎度夜8時半ごろに登場し、
見事に後続を断ち、優勝に導いた。
そんな、活躍から
「8時半の男」と呼ばれ、今も語り継がれている。
宮田征典投手は1965年のプロ野球シーズンで
MVPになってもおかしくない成績を残した。
(1965年のセ・リーグは王貞治一塁手がMVP)
69試合登、20勝5敗(22セーブ4ホールド)
現在のルールだったら22セーブに4ホールドも加わり
21世紀の投手陣にいたら、横浜の佐々木主浩投手同様な
大魔神ぶりを見せたことだろう。
先のMVP投票数でも王貞治650票。宮田征典605票と
あまり、救援投手が評価されていない時代にこの票数なので
現在だったら、票数が逆転していたかもしれない。
現在のリリーフ投手は完全な分担制なので
1イニング限定がほとんどだが、
昭和のリリーフ投手は2回以上は当たり前!
1980年代までは7回から投げる感じだった。
だから、宮田投手も1度の先発だけで規定投球回数に届いた。
宮田投手はコントロールが良く、
常勝チームを目指す巨人としては
川上監督も計算しやすい投手とみていた。
入団2年目の1963(昭和38)年に
リリーフ中心に6勝をあげたので、翌年に先発投手として
巨人としては育てようとしたが、一般より脈拍の高い体質で
無理がきかないとういう事で、川上監督はリリーフ投手として使った。
脈拍が高いので、マウンドではじっくり投げたので、
それが打者にとってリズムを崩したこともあったかもしえない。
体調のハンディキャップを個性に昇華し頭脳的な野球人だったのだろう。
1965年20勝をあげる大活躍をし
巨人9連覇の礎を作ったが、その後は酷使の影響、
体調を壊し、入院等もあり大きな活躍は出来なかったが
引退後は解説者、投手コーチとして球界に貢献した。
「8時半の男」というニックネームは
当時も今も強烈な印象を与え、リリーフ投手としての地位向上にも
大きな影響を与えたと思う。
2006年7月13日66歳の若さで亡くなったのが惜しまれる。
1965年宮田征典投手全成績
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