土井垣武

鳥取県米子市出身

1921年7月21日~1999年1月25日

右投右打 捕手

 

旧制米子中学時代、1939年夏の甲子園では主将として出場。

ベスト8まで行ったが、嶋精一投手、真田重蔵投手のいる海草中学に敗れた。

その後、大学に進学を希望していたが、家庭の経済状況を鑑み

1940年阪神タイガースに入団。

強肩強打の捕手として入団するものの、当時、阪神は田中義男捕手がいた。

そのため、控えとしての捕手、三塁を守ることも多かった。

 

1942年に召集され、終戦を迎え

1946(昭和21)年に阪神に復帰。

そして、戦前のうっ憤を晴らすように打ちまくり

打率.325で打撃ベストテン3位の成績を残し、

タイガース・ダイナマイト打線の5番打者として活躍した。

1947年、48年、49年と安定した打撃でチームに貢献。

本塁打は多くはないが、右打ちを多用し器用なバッティングを披露した。

 

強肩強打捕手の名に恥じない活躍で

捕手としても元気いっぱい、強気のリードで

弱気なピッチングをした投手には𠮟りつけ、

マウンド上で投手と口喧嘩をするほどだったが、

それは、チームを鼓舞するような行動だったといわれている。

 

野球に対する姿勢はまじめで研究熱心。

ミットを独自にファーストミットのように改造し捕球をしやすくした。

肩が強いだけでなく、スローイングも正確で

ベースの50センチ上を狙って送球した。

 

 

 

1950(昭和25)年、セ・パ分立の際、

パ・リーグ毎日オリオンズに移籍。

そのため、大阪タイガースを裏切った選手として、ヤジに苦しんだが

毎日オリオンズでも強肩強打の捕手の名声は変わらず

打率.322は打撃5位、15本塁打、72打点で毎日優勝に貢献した。

そして、1947年から1952年まで6年連続でベストナインに選ばれ

昭和20年代最高の捕手として君臨した。

 

1953年に打撃不振で助監督要請をされたが、現役にこだわり

東映フライヤーズに移籍、正捕手として活躍した。

1956年阪急に移籍し、1958年引退。

 

通算成績は

打率.282、1351安打、79本塁打、654打点と打てる捕手として

今の時代にも引けを取らないスラッガーだ。

戦前、戦中、戦後と混乱した時代に、アクティブな捕手として

もっと評価されていい選手の一人だ。

 

 

 

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