山内一弘
(愛知県出身 1932-2009)
右投右打
愛知県立起工業高校を卒業し、中日ドラゴンズの入団テストを受けたが不合格。
岐阜の川島紡績へ進む。その当時は名もなき野球人の一人だった。
しかし、川島紡績の監督が戦前阪急で活躍した森弘太郎(投手)であった。
森監督はすぐに山内の打撃の才能を見出し、
1951(昭和26)年夏、都市対抗野球大会終了後に、
毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)にテスト入団した。
1年目に44試合ながら、打率.336を打ち、一気に期待される存在となった。
3年目からレギュラーとして4番を打ち、打率.308、28本塁打を打ち、
西鉄の中西太のライバルとして、パ・リーグの打者タイトルを狙えるようになる。
とにかく、まじめに野球に取り組み、工業高校時代から
「機械をいじらしたらとことん納得するまでやめなかった」という性格で
打撃に対しても、アメリカから打撃の書籍、自分の打撃フォームを
録画してまで研究していった。
その成果が出て「シュート打ちの山内」と言われるまでになり
打撃三冠部門は山内、中西、そして南海の野村克也と争った。
毎日、大毎オリオンズ時代は本塁打王2回、打点王4回、
首位打者1回を獲得し、1960(昭和35)年の大毎オリオンズ優勝時には
田宮、榎本、山内、葛城のミサイル打線の中核として大いに貢献した。
1963(昭和38)年、阪神タイガースの小山正明投手とトレードで
阪神タイガースに移籍、「世紀の大トレード」として大きな話題となった。
阪神ではタイトルは取れなかったが、長打の足りない阪神打線の4番として
大いに貢献し、その野球に対する姿勢が阪神の選手たちに影響を与えた。
伝説のシーズン30勝投手列伝 ⑪ 小山正明~精密機械と言われた30勝300勝投手。
1968(昭和43)年に広島東洋カープに移籍、1968年に久しぶりに3割を打ち
本塁打も2年連続20本台で、広島でもその後の主力となる選手たちに
大きな影響与えた。
オールスター男とのあだ名も、どの試合も真剣に取り組み
手を抜かない姿勢が結果となって出た。
人望も厚く、山内打撃理論を聞きに来る選手たちが多く、
ざっくばらんな性格で後輩たちに慕われ、現役引退後も
長く指導者として活躍した。
あと、4本に迫った400号本塁打を達成できなかったのは残念だったが、
戦前選手の特に川上哲治の打撃記録を塗り替えていく凄さを
当時のファンは山内一弘の打撃の素晴らしさを体現したことだろう。
外野手の最多捕殺175の記録を持つほどのうまさも兼ね備えた
スーパープレーヤーが山内一弘だ。
山内一弘氏 逝去~ 50年代の強打者逝く 2009年2月6日のブログ
1962年に山内和弘から一弘に改名した。
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