宅和本司

1935年7月18日生まれ、

福岡県北九州市門司出身

右投右打 投手

 

1954(昭和29)年、野村克也やのちの30勝投手皆川睦夫投手と同期で

入団したのが宅和本司投手だ。

 

門司東高校時代から剛腕投手として知られていたが、

甲子園出場はならず、南海ホークスへ入団した。

当初、鶴岡監督は中日に入団した空谷投手や巨人へ入団した広岡達郎を狙っていたが

思うような新人補強が出来なかったと思っていたところ、

柚木進投手から「親分、宅和は行けますぜ!」と見込まれ、

鶴岡監督も改めてブルペンの宅和を見ると、

速球もさることながら、ドロップ、今でいう落ちるカーブのコントロールが抜群だった。

 

「これは行ける」と思ったようで、開幕から8試合目の4月4日第二試合に先発、

6回を2点に抑える好投をした。しかし、4月の登板は無く

5月1日2試合目の登板、毎日オリオンズ戦で2安打勝利してから

60試合を投げて31先発21完了5完封での26勝9敗、防御率1.58の活躍。

 

大車輪のように投げ、この年の西鉄とのデッドヒートの南海のエースとして

西鉄に7勝をあげた。0.5ゲーム差で優勝できなかったが、

宅和投手がいなかったら、3位にもなれなかったかもしれない。

最多勝と防御率1位を獲得、もちろん新人王も獲得した。

奪三振数は275と驚異的な数字だった。

 

この年は同じ高卒投手に阪急の梶本投手が20勝を挙げたが報われなかった。

 

1955(昭和30)年も24勝をあげ、2年連続最多勝をあげた。

南海ホークス優勝を牽引していったが、MVPは飯田徳治だった。

しかし、本人も驚くような活躍と酷使がたたり、

翌年から、坂が転がるように成績が落ちていった。

新人から2年で50勝は、「俺はびくびくしているんだ。

この腕がいつまで持つのか・・・。」と同期の野村に語るような

強気と弱気が同居していた、精神的に綱渡りような2年間だったようだ。

 

1956(昭和31)年に6勝5敗の成績を残し、翌年からは

勝敗なく、1960年近鉄に移籍したが、

最弱と言われた時代の近鉄でも仕事が出来ず引退した。

 

その後はテレビ解説者として活躍、

1994年に台湾プロ野球「三商タイガース」でコーチ、96年に監督に就任した。

 

戦後、別所昭投手のあと、柚木進投手から杉浦忠投手登場までの

約10年間を支えたキラ星のごとくのショートエースの中で

南海のマウンドを守った名投手のひとりが宅和本司だった。

 

宅和本司投手 全成績 (日本プロ野球記録)

 

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