10月20日は阪神タイガース、

大洋ホエールズ(現DeNA ベイスターズ)の創設時に
参加し、プロ野球第1号の本塁打を打った

名選手 藤井 勇の生誕日です(1916年)。


大洋ホエールズ監督時代

 

藤井勇

1916年10月20日~1986年2月7日

鳥取県鳥取市出身 左投左打 外野手


1934(昭和9)年

ベーブ・ルースが来日した時の大リーグ選抜チームを迎え撃つために
「株式会社大日本東京野球倶楽部」が結成された。
それが、現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)になっています。

巨人軍の正力松太郎は
甲子園球場を持っている阪神電鉄に職業野球に参加を要請、、

阪神電鉄は
大阪タイガースを1935年に結成し、
阪神創設時に入団した選手に藤井勇がいた。

鳥取一中時代は4番打者として甲子園大会に3度出場し、
沢村栄治率いる京都商業を破っている。
プロの世界でも、沢村を打ち込んでいる。

左投げ左打ちで主に外野と一塁を守った。
打順は1番か2番、その上長打力もあったので、
俗に言う「いやらしいバッター」だったかもしれない。

1936(昭和11)年春、初の公式戦が始まった。
大阪タイガース、名古屋軍(現中日)、阪急(現オリックス)、
大東京、セネタース、金鯱軍の6球団が参加。
(巨人は2回目の渡米で不参加)

4月29日から5月5日甲子園球場で連盟主催の試合の
6日目、5月4日セネタース戦
藤井はこの日2番レフトで出場、
5回、野口明投手から打った打球は左中間を抜け、
一気にホームまで駆け抜けた。

プロ野球第1号本塁打はランニングホームランだった。

このシリーズで藤井は5試合で19打数10安打、打率 .553
二塁打3本、本塁打1本を記録し首位打者となった。
そしてシリーズ15試合で唯一の本塁打が藤井のものだった。

藤井の後は、3番松木、4番景浦、5番藤村と
クリーンナップ全員が野球殿堂入りしている迫力の打線!
その中で大当たりは藤井のセンスの良さもわかる。

タイトルには恵まれなかったが、出塁率が3割7分以上を5回、
1937年春の49得点は2シーズン制の最高記録だ。

徴兵されたことで戦前は4シーズンだが、
戦前のタイガース黄金時代を作った。

背番号は11番、戦前はいろは順で決めていたので「11」
その後、村山実投手が付けて永久欠番になった。

戦後は1946年パシフィックで復帰、しかし、名選手が故の
阪神との二重契約問題もあったが、1950年セ・リーグ分立時に
大洋ホエールズに移籍、チームの4番として
1950(昭和25)年は .327 34本塁打 122打点と大活躍し、
その後、1958年まで主軸として活躍、
実働17年だが戦争がなければ21年にも及ぶ。

1955年に選手兼任監督になったが、セ・リーグ記録の最低勝率、最多敗戦
31勝99敗 2割3分8厘を記録、1年で辞任したが、弱すぎた原因のひとつに
4番の藤井勇がレギュラーになれなかったことがあった。
(3番青田昇以外はかなり厳しい戦力だった)

その後は大毎、阪神コーチに就任し野球界に貢献した。

通算1487試合、5387打数 1482安打 146本塁打 764打点 打率.275
戦前は343試合 1029打数 284安打 .276


安定した打力と実績を考えたら
野球殿堂入りしていなくてはいけない野球人のひとりだろう。

 

 

 

 

*********************************

野球雲チャンネルやっています!(Youtube)

 

野球雲はいつも古い野球とその周辺文化について書いています。
取材の裏話、泣く泣くカットした話、貴重な資料……
さらにディープな野球劇場はこちら↓
野球雲無料オンラインマガジン

 

 

データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力篠浦 孝氏