5月23日は
日本の野球界にとってとても大切な日です。
明治29年(1896年) 5月23日
日本チーム 対 アメリカチームの国際試合が行われました。
明治30(1897)年ごろの一高野球部員
日本チームというのは一高
アメリカチームは横浜アマチュアクラブ
場所は横浜アマチュアクラブのグラウンド。
当時の日本野球の最高点にいた一高は「日本にて敵なし」という強さで
あとは本場アメリカの野球チームと戦う!という目標に
血と汗の特訓を行いこの日を迎えた。
今でもそれに近いものがあるかもしれないけど、
王者アメリカは「国技であるベースボールを
新興国日本の学生がやっているらしいが、
所詮、学生のスポーツの一部だろう」くらいに思ってたらしく、
一高がいくら試合を申し込んでも、相手にしてもらえなかったらしい。
当日は一高の後攻で始まった。
ホームチームである横浜アマチュアクラブあも余裕をもって
ひとひねりのつもりで、先攻を選んだかも知れないが真相はわからない。
初回、横浜アマチュアクラブはいきなりレフトオーバーの長打を打ち
いきなり4点を奪い、一高応援団は「いったいどうなるのか?」と
思ったに違いない。
試合前の横浜アマチュア倶楽部の関係者は
かなり、一高チームを上から目線で舐めていたようだ。
1回裏、一高は先頭打者が四球で出塁。
しかし、その瞬間なんと「隠し球」でいきなりアウト!!
その上、次打者も四球で出塁したものの、
またもや「隠し球」でアウト!!
その時、日本人が我がベースボールで試合を行うなんて
早いと思ったに違いない。
初の交際試合での初のアウトは「隠し球」その上、連続で・・・・。
当時の日本野球に「隠し球」などのトリックプレーは
まだ浸透していなかったかも知れないが、なんともお粗末だった。
しかし、ここから一高チームは、愚直に試合に腐らず臨んだ!!
一高の先発は
青井鉞男(あおいえつお)投手。
一高の第2期黄金時代を支えた投手で、
球も早く、一高伝統のカーブも伝授された名投手。
本場アメリカ人を相手にどのような投球を見せるか
注目された。
青井投手(ピッチャーボックスの時代)
終わってみれば、
29対4という大差で勝ってしまったのです。
つまり、アメリカチームを初回の4点で抑え、
コールドゲームのような大勝利を収めた。
その試合を見ていた、アメリカ人たちの中には
一高チームのがむしゃらに野球をやっていく姿の感動して、
帰り際の選手にお金をあげたり、
「アメリカに行けば、いい金になるんだが」といって
暗にプロ野球の実力があると
認めた人もいたそうだ。
その後、両チームはもう一度戦い、またもやアメリカチームに勝利し、
日本中に一高野球部の強さが伝わった。
外国に負けてたまるかという、反骨精神と武士道と結びついた一高野球は
明治、大正、昭和の日本野球に多大な影響を残しながら
学生野球を中心とした野球文化を創っていったのでした。
翌年、青井投手卒業後は一高も弱体化していき、
慶応義塾大学、早稲田大学が徐々に力をつけて行く時代に突入した。
青井鉞男は横浜商業高校(Y校)野球部の創立に関わり、
故郷の栃木県宇都宮中学で野球指導、野球用語の翻訳も行い、
1959(昭和34)年野球殿堂特別表彰された。
日本野球草創期の重要な野球人だ。
参考文献:日本野球はなぜベースボールを超えたのか(佐山和夫著)
日本野球創世記(君島一郎)
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