5月23日は
日本の野球を変えた名選手『大下 弘』氏の命日です。
大下 弘という選手は、野球だけでなく、
太平洋戦争のあとの日本の少年たちに川上哲治氏とならぶ
アイドルでもありスーパースターの一人でありました。
赤バットの川上、青バットの大下。
このフレーズは、少しでも野球の歴史を知るならば
必ずでてくる、フレーズです。
選手引退後も栄光の野球人生を過ごした川上哲治のようなものではありませんでしたが、
天才打者としての大下弘の魅力は川上哲治以上の凄さを持っていると思います。
大下 弘は
1945年、プロ野球再開時に彗星のごとく出現し、
戦後最初のプロ野球試合「東西対抗戦」で東軍の5番を打ち
神宮球場で三塁打を含む6打席3安打鮮烈なデビューを飾った。
翌年の1946年に当時の日本新記録の20本の本塁打を打ち
一躍、スーパースターの座をつかみました。
当時の20本という数字はどんな衝撃があったのでしょうか?
大下弘の生涯は辺見じゅん著作「虹の生涯」(新潮文庫)に詳しいですが、
終戦後すぐのプロ野球チームは巨人、阪神、近畿(その後の南海)、阪急以外は
プロ野球チームというより、クラブチームのような脆弱さで
明日もわからない綱渡り状態なのがわかります。
飛ばないボールの時代にリーグ全体で211本のホームランしかでなかったのに
1割近い20本を打った大下 弘選手の登場は、ヒーロー誕生のようだったのでしょう。
日本のベーブ・ルースになったのが大下 弘だったのです。
その後、.383で1951年に首位打者(1970年の張本勲に破られるまで日本記録)
1952年に西鉄ライオンズに移籍、その後の栄光の活躍は色々な書籍で紹介されています。
引退後、監督、評論家として活躍されましたが
終の棲家は千葉市園生町のファミールハイツで
昭和54年5月23日、56歳の生涯を終えました。
今年で丸30年経ってしまいました。
大下 弘という名選手が、千葉市に住んでいるというのを知ったのは
亡くなる1年位前で、同じマンションに住んでいる友人に
「一緒のマンションで羨ましいなぁ。サインもらってきてよ!!」なんてほざいていました。
そのころ大下氏は脳血栓で倒れ、闘病生活をしていた時期と重なります。
少年野球チームに終生係わっていて、
NTV系の子供番組「おはよう子供ショー」の少年野球チーム
「モーニングス」の監督をやっていた記憶があります・・・。
昨年、西武ライオンズが西鉄ライオンズ復刻メモリアルディを行いました。
今だったらもっと評価されていて、球場で元気な姿が見れていたかも・・・・と思うと
早過ぎた死が残念でなりません。
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