2008年のメジャー・リーグは

フィラルデルフィア・フィリーズが1980年以来28年ぶりのワールド・シリーズ制覇に終わりました。

監督はヤクルト、近鉄で大活躍した赤鬼チャリー・マニエル氏で

彼の温厚になった笑顔が印象的でした。


フィラルデルフィア・フィリーズはナショナル・リーグの中でも歴史あるチームのひとつで

1883年から参加、アトランタ・ブレーブス、シカゴ・カブスに次ぐ古参チームです。

(同期にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ))


フィラルデルフィア・フィリーズは125年の歴史の中で6度のリーグ優勝、

2回の世界一を記録していますが、決して強いチームではありません。

むしろ、通算成績が

8945勝10098敗 勝率.470の数字を見るとかなり弱いチームです。

世界唯一の10,000敗したプロチームとしても弱いことで有名です。


最後まで白人優位主義を唱えていたチームだったため強くなれなかったという説もあります。


同じナショナル・リーグでもドジャースに比べ日本ではなじみが薄かったチームですが

実は遠い昔に日本野球に影響を与えたイベントがありました。

それは100年目の不思議な縁を感じるのです。


1908年 明治41年

ちょうど100年前のことです。


日本ではじめて対戦したアメリカのプロチームが来日したのが

1908年 11月22日なのですが

その、チームを作ったのが当時フィリーズのオーナーだった

アル・リーチという人だったのです。


その選抜チーム名は『リーチ・オール・アメリカン』

プロ野球選手のチームですが、3Aの選手が中心です。


しかし、中にはメジャーの選手も参加していて、

最も成功した兄弟選手達といわれているデラハンティ5兄弟の4番目の

ワシントンセネターズの二塁手、ジム・デラハンティ

ちなみに一番成功したのは長男のエド・デラハンティで

4割を3回記録し、通算2596安打、通算打率.346を残し、1945年に野球殿堂入りした。

しかし、本人は1903年になぞの失踪をし、ナイアガラの滝下流から遺体で発見された。


ボストン・ブレーブスの投手で1904年には20勝11敗を記録した

パスティ・フラハティ


クリーブランド・インディアンズの投手で2年後外野手に転向し、活躍した

ジャック・グレニーなどが参加していた。


しかし、上の選手3人は当時の中堅かそれ以下の実力の選手なので

決してスーパーチームではなかった。


それでも、当時の日本でトップクラスの早稲田大学、慶応大学などの野球チームと

17戦行い、非公式も含めると18戦を全勝で勝ち抜いた。


そんなチームを率いたアル・リーチは

1863年に週休25ドルで契約し、アメリカ発のプロ野球選手になったといわれている。

その後もフィラルデルフィア・アスレチックス《今のアスレチックスとは違うチーム》で在籍し

1874年からはプレーイング・マネージャーとして活躍した。


企業家としても才能を発揮し、スポーツ・バー、スポーツ用品店を開店し

どれも成功を収め、そしてフィラルデルフィア・フィリーズを買収、

オーナーに納まった。


当時は今でも有名な「スポルディング社」がナショナル・リーグの公式球を提供し、

ヨーロッパをはじめ世界に野球文化、野球グッズの販路開拓に力を注いでいた。


一方のアル・リーチはアメリカン・リーグの公式球を提供していたが、

スポルディング社の経営方針に影響されたのか?

まだ、誰も手を入れていない日本市場を開拓する目論見で

チーム結成をしたと思われる。


『リーチ・オール・アメリカン』は11月20日来日の予定が暴風雨に阻まれ、

2日遅れの11月22日に上陸、午後には東京で試合を行っている。


初戦の早稲田大学との試合前に大隈重信が日本発の始球式を行ったことでも

野球史に残るイベントでもあった。


日本初の日米野球はその後の野球界に影響を与えた。


打撃力の凄さ、(特に大打者であった弟ジム・デラハンティの猛打にはお手上げ状態だったらしい。)

守備の上手さ、プロであるゆえのエンターティメント性、

スタミナの強さ、投球モーション、ファール・チップが捕球されてストライクになった時に

進塁できること・・・など、強さだけでない本場の野球の凄さを見せ付けた。


結果的にアル・リーチ自身の商売にはあまり影響が無かったような訪日だったらしく、

日本の野球熱を高めただけの結果だけでしたが、

当時の野球のレベル・アップにはかなりの影響を与えたようです。


その後、フィリーズは同じフィラルデルフィアのアスレチックスに大量の選手の引き抜きにあい

チームは長い長い低迷時代に入ります。

アル・リーチは草創の野球界の英雄であり、成功者でしたが

晩年の様子はあまり語られていません。


スポーツ店は結局、スポルディング社の吸収され、フィリーズも手放しました。


日本でも、1908年の日米野球はあまり語られませんが

当時の日米の野球選手のことや背景をもっと検証することは、

野球文化の裾野を広げる意味でも、一番ではないけど大切なことだと思います。




参考文献 

日米野球裏面史―美少女投手から大ベーブ・ルースまで/佐山 和夫
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大リーグ・フィリーズ10、000敗―“友愛の町”球団が負けても負けても愛されるわけ/佐山 和夫
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