ドン・ドライスデール

1936年7月23日~1993年7月3日

アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身

投手、右投右打

 

 

ドン・ドライスデールは豪快な投球スタイルと勝負強さでファンを魅了し、

サンディ・コーファックスとの「二本柱」として

ドジャース球団史にその名を刻んだレジェンドだ。

 

ブルックリンからロサンゼルスへ、輝かしいキャリアの幕開け
カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれたドライスデールは、

1954年にブルックリン・ドジャースと契約。

 

1956年にメジャーデビューを果たすと、チームのリーグ優勝に貢献した。

ドジャースがロサンゼルスに移転した1958年は苦戦するも、

1959年には自身初のオールスターに選出され、最多奪三振のタイトルを獲得。

チームはプレーオフを制して移転後初のリーグ優勝を飾り、

ワールドシリーズではシカゴ・ホワイトソックスを破ってチャンピオンに輝いた。

サイ・ヤング賞、そして「二本柱」の完成
1962年にはキャリアハイの25勝を挙げ、

最多勝と最多奪三振の二冠を獲得し、

自身初のサイ・ヤング賞に輝いた。

 

この頃から、技巧派左腕のサンディ・コーファックスと共に

ドジャースの強力な「左右の二本柱」を形成。

1963年にはヤンキースを4連勝で破りワールドチャンピオン、

1965年にはミネソタ・ツインズとの激闘を制し、再び世界の頂点に立った。

 

ドライスデールの打撃センスも際立っており、

1958年にはナショナルリーグタイ記録の7本塁打を放ち、

1965年には打率.300、7本塁打を記録するなど、

投打にわたってチームを牽引した。

不滅の「58.2イニング連続無失点」
ドライスデールのキャリアを語る上で欠かせないのが、

1968年に達成した58.2イニング連続無失点という金字塔だ。

これは1913年にウォルター・ジョンソンが記録した

55.2イニングを更新するもので、

当時の大リーグ記録として長く語り継がれた

(後にオーレル・ハーシュハイザーによって更新)。

 

この記録達成時、

ドライスデールは「記録は嬉しいが、正直なところ途切れてホッとした面はある。

記録が続いている間は精神的な重圧がかなりあった」と語り、

その重圧をうかがわせた。

早すぎる引退と殿堂入り
右肩痛に苦しんだドライスデールは、1969年シーズン途中で引退を表明。

ブルックリンでプレーした経験を持つ最後のドジャース選手となった。

通算209勝、2486奪三振はいずれも球団歴代2位の記録として輝いている。

引退後はABCなどでキャスターを務め、

その明瞭な語り口で野球ファンを楽しませた。

1984年には野球殿堂入りを果たし、

同年7月1日には、彼の背番号「53」がドジャースの永久欠番に指定された。

 



私生活では、1986年にバスケットボール殿堂入りもしている

女子バスケットボール選手のアン・マイヤーズと結婚。

史上初の殿堂入り選手同士の結婚として大きな話題となった。

しかし、1993年7月3日、ドジャースの試合放送のため滞在していた

モントリオールのホテルで、56歳という若さで心臓発作のため急逝。

その突然の訃報は、多くの野球ファンに衝撃を与えた。

ドン・ドライスデールは、豪快なピッチングと個性的なキャラクターで、

永遠にドジャースの歴史の一部、いやMLBの歴史でも

長く語られるレジェンド投手の一人だろう。

 

通算成績1956-1969年(14年)

518登板、465先発、197完投、49完封

209勝166敗 勝率.557 3432.0回

2486奪三振 1124自責点 防御率2.95

 

ドン・ドライスデール・スタッツ↓

 

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ベースボール(野球)は何度もヨーロッパへの啓蒙に何度も

チャレンジしている。特にアメリカはイギリスからの移民から

国が出来上がってきたので、昔から熱心だ。

 

しかし、貴族社会のイギリスと最初から民主国家のアメリカでは

文化も風習も時とともに開きが出てきたので、

ベースボール文化が浸透しない。

フランスやイタリアはマーケットはそれなりにあるのに、

イギリスは野球文化が根付かない・・・。

 

ところで、昔からMLBは英国をはじめ世界へ、

20世紀初頭から野球振興のイベントをやっています。

 

1913(大正2)年にニューヨーク・ジャイアンツ

(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)が

シカゴ・ホワイトソックス2チームの選手を中心に世界漫遊チームで

日本、中国、オーストラリア、エジプト、フランス、イギリスと6か国を

遊覧もかねて、31試合を開催して費用をかせぎながら漫遊した。

当時の野球雑誌「野球界」もほとんどが世界漫遊チーム特集だ。

 

 

 

三田綱町球場での世界漫遊チームベンチ

 

そこで12月6日午前7時に横浜港から来日。

その日の14時からホワイトソックスとジャイアンツが

三田綱町球場で試合をし、

9対4でホワイトソックスが勝利した。

当時の新聞では白靴下軍 対 巨人軍となっているのが

今となってはかなり新鮮だ。

メンバーはジャイアンツの名将 ジョン・マグロー監督を中心に

トリス・スピーカー(レッドソックス)、サム・クロフォード(タイガース)

フレッド・マークルなど、大正時代初期の日米野球としては

交通事情、日米文化事情などを考えると

1931年、1934年の日米野球以上の衝撃があったかもしれない。

 

ジョンマグローと踊るヨッパライ(笑)

 

当時の日本選手や関係者は

レベルの高さに「絶望に帰した」と発言するものもいた。

そして、12月7日には

ジャイアンツ、ホワイトソックス混合軍は

慶應義塾大学と試合をし、

慶應 3 対 16 混合軍 と大差で米国混合軍が勝利。

2試合目はホワイトソックスとジャイアンツと試合。

12対9でホワイトソックスが再び勝利。

 

そして、たった3日間の滞在で

中国に向かっていった。

 

1913年の世界漫遊は

最高級の野球を日本の野球ファンやプレーヤーたちが

ライブで見たことでその後の野球に大きな影響を与えた。

 

111年前の野球はどんな感じだったのか?

野球雲はもう少し突っ込んでいきたい出来事です。

 

近代野球の開拓者~ジョン・マグロー伝を読む~20世紀前半の名監督でアメリカ狂乱の時代のシンボル

 

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上田利治

1937年1月18日~2017年7月1日

徳島県海部郡(現 海部町)出身

右投右打

捕手、監督

 

文武両道の学生時代、そしてプロへの道
上田氏は徳島県で魚屋の長男として生まれ、

幼少期から学業に秀でていた。

海南高校時代は捕手として活躍しながら、生徒会活動もこなし、

睡眠時間を削って勉強に励むという文武両道の生活を送っていた。

担任からは「東大へ行って弁護士になれ」と勧められるほどで、

実際、高校卒業後は弁護士を志し、関西大学法学部へ進学。

野球推薦を断り筆記試験で合格点に達するなど、その知性は際立っていた。

大学では、後に阪神のエースとなる村山実氏とバッテリーを組み、

関西六大学野球リーグで4度の優勝、

全日本大学野球選手権大会でも優勝を経験。

しかし、プロ野球の世界には消極的で、

当初は「東洋工業(現マツダ)の出向社員」という

異色の条件で広島カープに入団した。

 

プロ1年目には六法全書をキャンプに持ち込み法律の勉強を続けるなど、

弁護士の夢も捨てていなかった。

しかし、肩の故障もあり、わずか3年で現役を引退することとなる。

日本球界最年少コーチから「熱血指導」
現役引退後、上田氏は25歳という

日本プロ野球史上最年少で広島の二軍コーチに就任。

これは、球団オーナーの松田恒次氏が

上田氏の指導者としての才覚を見抜いていたためだった。

その後、一軍バッテリーコーチ、打撃コーチを歴任し、

山本浩二氏、衣笠祥雄氏ら後のスター選手を育成。

「ウエさん」の愛称で選手からの信頼も厚く、

ハンドマイク片手に熱のこもった指導を行う

「上田方式」は他球団も参考にするほどだった。

広島退団後は中国放送の野球解説者を経て、

西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスのヘッドコーチに就任。

ここで「癖盗みの天才」ダリル・スペンサー氏と出会い

「スパイ野球」を習得するなど、新たな知見を得た。

デール・カーネギーの『人を動かす』や『孫子の兵法』を読み込むなど、

常に研鑽を怠らない姿勢は、後の名将としての礎となった。

阪急黄金時代を築いた「智将」
1974年、37歳で阪急ブレーブスの監督に就任。

就任2年目の1975年からは

日本シリーズ3連覇を含むリーグ4連覇を達成し、阪急の黄金時代を築き上げた。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。

1978年の日本シリーズ第7戦では、

ヤクルト・大杉勝男氏の本塁打判定を巡り、

1時間19分にわたる球史に残る猛抗議を展開。

この「上田の1時間19分」は、上田氏の情熱と執念を

象徴する出来事として語り継がれている。

 

この騒動の責任を取り一度は監督を退任するが、

再び監督として復帰。ブーマー・ウェルズ氏を三冠王に育てるなど、

若手育成にも手腕を発揮し、常にチームを優勝争いに導いた。

1988年、阪急ブレーブスのオリックスへの球団譲渡に際しては、

「信じられないことだ」と会見で語り、阪急への深い愛情を示した。

オリックス時代も門田博光氏を迎えて

「ブルーサンダー打線」を形成するなど、その手腕は健在だった。

日本ハムでの指揮、そして野球殿堂入り
1995年からは日本ハムファイターズの監督に就任。

低迷していたチームを立て直し、

岩本勉氏、田中幸雄氏、小笠原道大氏らを育て上げた。

特に、田中幸雄氏を外野手から遊撃手へ戻し4番に抜擢するなど、

型破りな起用法で選手を覚醒させた。

1996年には私的な問題(娘の統一教会入信)で一時休養するも、

辞任を撤回しチームを指揮し続けた。

1999年には審判への暴言で退場処分を受け、

後頭部への平手打ちで2試合出場停止となるなど、

その「熱血漢」ぶりは最晩年まで変わらなかった。

現役時代の実績は決して華々しいものではなかったが、

指導者としては「オールマイティー型監督」と評され、

異なる状況下で結果を出し続けた。

ドラフトの抽選にはめっぽう弱かったものの、

大型トレードを積極的に行い、チームの活性化を図った。

退団する選手にも親身に接し、

その人間的な魅力は多くの選手から慕われた。

日本ハム退任後もサンテレビ解説者、

デイリースポーツ評論家として活躍し、

2003年には野球殿堂入りを果たした。

 

生涯を野球に捧げ、その知性と情熱で

常に新たな野球の可能性を探求し続けた上田利治氏。

その功績は、日本プロ野球の歴史に深く刻まれている。

 

監督成績(20年、1974年~1999年)

2574試合、1322勝1136敗116分 勝率.538

 

 

 

 

 

 

 

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武智 文雄 (田中 文雄)

1926年11月4日~2013年7月1日

岐阜県出身。

右投右打、投手。

 

 

 

1926(大正15)年11月14日岐阜県生まれ

岐阜商業卒業後、関西大学在籍中に予科練に入隊。

その後、特別攻撃隊でゼロ戦などの特攻隊として

4度の出撃命令をすべて作戦変更で出撃せず終戦を迎えた。

 

戦後、ノンプロチームを経て

1950(昭和25)年近鉄パールスに入団。

アンダースロー投手でシュートを武器に弱い近鉄を支えた。

 

武智文雄投手

 

1954(昭和29)年に 26勝15敗で最多勝を獲得。

近鉄球団として初の最多勝のタイトルを獲得した投手になった。

武智にとってもキャリアハイの成績で

近鉄パールス創設以来初の5割(74勝63敗.540)以上の

勝率で、8球団中4位とAクラス入りを果たした。

 

1955(昭和30)年6月19日大映スターズ戦で完全試合を達成した。

 

1955年の武智はあまり調子が良くなく、

この日まで2勝6敗と苦しんでいたが、この日は違った。

コントロールも良く、武智自身も途中から狙っていったような感じだった。

89球6奪三振で史上二人目の完全試合を達成。

 

(大映スターズのボックススコア)

 

現役は1962(昭和37)年まで続け

通算100勝137敗で引退。

無事、弱い近鉄で100勝投手を達成した。

 

引退後は近鉄バファローズで投手コーチに就任、

同じアンダースローの佐々木宏一郎投手を育てた。

 

2013年7月1日死去。享年86歳。

 

1954年までは田中文雄

1955年夫人の実家である武智家の婿養子となり改姓した。

 

武智文雄投手 通算成績

 

 

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大島康徳

1950年10月16日~2021年6月30日

大分県中津市出身

内野手、外野手

右投右打


異色の経歴と打者転向
福岡県生まれ、大分県中津市育ちで
今津中学時代はテニスやバレーボール、
相撲に打ち込むなど、野球経験はなかった。

しかし、相撲の腕を見込まれ、

中津工業高校の野球部監督の誘いで高校から

野球を始めるという異色の経歴を持つ。

高校ではエースで4番として活躍し、

「九州三羽ガラス」と称されるほどの実力を見せた。

1968年のドラフト3位で中日ドラゴンズに入団。

投手として期待されたが、

入団間もなくして当時の水原茂監督に見出され、打者へ転向。

この決断が、その後の球史に残る打撃成績へと繋がった。

輝かしい現役生活と記録達成
1971年に一軍デビューを飾ると、

1974年には中日のセ・リーグ優勝に貢献。

1976年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立するなど、

勝負強さを発揮した。

 

1977年には打率.333、27本塁打の好成績を残し、

1979年には全試合4番に座り、36本塁打、打率.317、103打点と

キャリアハイを記録した。



守備に難があり、打撃の波も激しいことから代打起用が多かったものの、

その一打は常にチームを救った。

 

1983年には36本塁打を放ち、山本浩二氏と共に本塁打王を獲得。

37歳で移籍した日本ハムでも主軸として活躍し、

1990年には当時最年長となる39歳10か月で2000安打を達成した。

1994年、43歳で代打の切り札として

打率.323を記録するなど健在ぶりを見せたが、

この年限りで現役引退。

26年間の現役生活は歴代6位の記録だ。

 

通算代打本塁打20本は歴代2位、

最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録も保持している。

輝かしい打撃成績を残しながらも

ベストナインには一度も選出されなかった。

 


日本ハム監督として、そしてWBC打撃コーチとして
引退後はNHK解説者、東京中日スポーツ評論家として活躍。

 

2000年からは日本ハムファイターズの監督に就任し、

小笠原道大氏らを育て「ビッグバン打線」を

形成するなど攻撃的な野球を展開した。

 

2006年には第1回WBC日本代表打撃コーチを務め、

王貞治監督に進言してイチロー氏を3番に起用するなど、

初代世界一に貢献した。

闘病生活とファンへの感謝
2017年2月、ステージ4の大腸がんを公表。

以来、病と闘いながらも

「がんでも人生フルスイング」と題した著書を出版するなど、

精力的に活動を続けた。

 

晩年までNHK解説者として明朗快活な解説でファンを魅了し、

自身のブログではSMAPファンであることを公言するなど、

気さくな一面も見せた。

最期まで野球への情熱を燃やし続け、

解説者としても愛された大島康徳氏。

その功績は、球史に深く刻まれるだろう。

 

大島さんの思い出。

2007年、千葉マリンスタジアムで千葉ロッテ―阪神戦が行われた。

野球ファンが球場正面入り口付近で試合開始前で

屋台の周りも賑わっていた。

野球評論家も続々と入場してくる。

ある人気球団のOBはファンの声などには一切振り向かず、

不愛想に入っていく。

しかし、大島さんは違った。

ファンから「大島さ~ん!」の声に笑顔で手を振り、

サインにも気軽に応え、時間が迫ってきた頃

「ごめんね、もう行かなくてはいけないので」と

申し訳なさそうに、球場を入っていく姿を見て、

裏表のない対応に感心したの思いだす。

 

亡くなったことを聞いたときには、「本当に早すぎる・・」と

心より思ったものだ。そして、いつか野球殿堂入りを望みます。

 

通算成績(24年)

2638試合、8105打数1042得点2204安打

330二塁打、18三塁打、382本塁打。1234打点

1064四死球、打率.272

本塁打王(1983年)獲得。

 

 

 

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近鉄パールスが誕生してから

10年目の1959(昭和34)年、

あまりにも弱すぎる最悪な成績に

さすがの近鉄球団も大いに補強をすることになり、

巨人から名選手千葉茂を監督に迎え、

チーム名も千葉のニックネーム「猛牛」を英語にした

「バファロー」に変え心機一転、新しい流れを作ろうとした。

 

千葉茂は

1959年のキャンプを宮崎から愛媛県今治に移し、

それまでのゆるいキャンプから

管理野球のごとく、禁酒、門限を作り

キャンプではレギュラーも移籍組も含めて

徹底的に鍛えっていった。

 

千葉茂は巨人での権力争いに敗れて近鉄に来たともいわれるが、

人望は巨人のなかでは大きく、千葉を慕って一緒に

移籍した選手やコーチもいた。

 

しかし、常勝巨人軍の野球を教えようにも

負け犬根性が染み付いた近鉄ナインには響かない。

逆に元々いた近鉄組と巨人から来た移籍組で

大きな溝が入っていった。

 

キャンプ中から千葉監督はじめ

平井コーチは「巨人では・・・」と口にすることで

小玉や鈴木武選手などは逆に

コンプレックスを増幅する結果になったかもしれない。

 

 

そして、千葉監督は悩み、焦る日が続いた。

1954年は39勝91敗3分.300で最下位だが、

4月に4勝、5月に5勝、6月18日で3勝したところで休養、

(当時の記事にはノイローゼになったと書かれている)

そこまでの成績は51試合で.235の酷さで前年並の勝率だった。

その後林義一代理監督なり.342まで持ち直したが、残念な結果になった。

 

しかし前年と比べて5位との差がだいぶ縮まった。

翌1960年は千葉監督も1年指揮を執り最下位ながら

勝率は上がり43勝87敗1分.331で終え、3年目に突入した。

 

前年にミケンズ投手、ブルーム内野手を獲得し、

巨人からも千葉 茂監督を慕ってやってきた選手など、

いよいよ勝負の1961年のシーズンが始まった。

 

しかし、この年もスタートダッシュが酷く、

4月は4勝14敗.222、5月は6勝16敗.273のどん底状態。

打線も4番小玉を1番にし、

ブルームを4番に固定して戦っても一向に上向かず、

6月は4勝15敗.211と底なし沼のように落ちていく。

7月は5勝16敗1分.231、

8月も8勝22敗.267と上がる気配なしで、

おまけに7月9日から8月6日は10連敗のあと、

白星をはさんで10連敗を記録、

危うく21連敗しそうな弱さだった。

 

そんな最悪の状況でも待遇面も含めて

プロの選手のプライドを育てていこうと努力したが、

監督の思う「巨人主義」に選手の反発が最後まであったのだろう。

戦力はアップしていっているのに結果が全く付いて行かなかった。

そしてプロ野球史上唯一の100敗越えの36勝103敗1分.261に終わり、

千葉 茂は近鉄バファローを去っていった。

 

1961年パ・リーグチーム成績

(NPBから引用)

 

1958年から1961年の4年間の暗黒時代は一体どこに原因があったのだろう?

どうしてここまで弱かったのだろう?何が欠けていたのだろう?

1958年までの弱さと、イメージチェンジをして新しい球団を作ろうとしたのに、

それまでの弱さとどのように質が違うのか? 

 

 千葉監督は球団に強くするためには

もっと選手や設備に投資しなくては効果が出ないことを

訴えていたようだが、球団はそこまで投資するつもりはなかった。

当時、千葉が思っていた最先端の野球を

最弱球団近鉄に導入するには早すぎたのかもしれない。

 

長く染み込んだ「負け犬根性」は選手も球団にも

千葉茂の3年間でも払拭できなかった。

 

翌年(1962年)は別当監督の下

57勝73敗1分 勝率.439 で盛り返したのを見ると

千葉監督と近鉄ナインとの相性が悪かったのだろうか?

 

その後、三原脩監督で肥やし、

西本幸雄監督で花開くまで、もう少し時間が必要だった。

 

↓近鉄球団年度別成績表

 

 

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日本ではじめて野球をしたのは誰だろう?

 

どこでやったのだろう?

 

そんなことを、子供の頃から考えてきて、本を読んだり、調べたりで

場所は20年くらい前から知っていましたが、何しろ古いことなので、

具体的にどこにあるのか?なんてことを考えて行動まではいたりませんでした。

 

数年前、野球史の書籍を呼んでいて、

神田神保町に記念碑が出来たことを知って、

「いつか行きたい!」と心に決め、時間だけが過ぎていきました。

 

そして、そこに行ってきた。

 

日本野球発祥の地に!!



 

 

神保町の学士会館の隅に、ひっそりってほどではなく

堂々と巨人の星のオープニングのごとくそびえ立っていました。

 

高さは2メートル近くありますが、手首に硬球をかざしているので

夜は少し怖いかもしれません。


 

日本政府のお雇い教師の誘いに応じて、明治4年8月に来日した

ホーレス・ウイルソンはその時28歳、妻と、息子を連れ立ってやってきた。

東京大学の前身、開成学校に赴任し、数学や英語などを教えていた。

 

ホーレス・ウイルソンは最初簡単なノックを打って学生達に

「外で運動しろ!」という気持ちで、自分も楽しんでいた様子だそう。

残っている文献などによると、

明治5年ごろ、第一大学一番中学(その後開成学校)という洋式の学校で

初めてホーレス・ウイルソンがやり始め、その後この学校で

大きく広まり、明治20年代に一高野球(東京大学の前身)の全盛になっていった。

 

明治5年頃(野球という言葉無かった)は

文明開化の日本においていかに先進国に追いつくか!ということが基本だったので

学生は勉強ばかりやっていて、課外の遊びとして導入し、

ゲームとしても、単に体力づくりを超えた面白さが

当時の日本の若者には新鮮なものとして、受け入れたようです。

 

 

とにかく、この地で147年前にひとりのアメリカ人教師が

貧弱な体の日本人にノックをした場所が学士会館のあるところなのだ!

 

 

 

そばに立ってみたらあっさりした解説がありますが、

お昼帰りのサラリーマンも信号待ちの間に

「ここが野球発祥なんだ?!」と言いながら見ていました。


 


 
 

ひとり、昼下がり野球のロマンに浸ったひと時です。

 

周りには美味しい食事もあるし、

野球の古書では日本一の古本屋さんビブリオさんもあります。

野球の歴史に興味のあり方は

一度、野球発祥の地詣はいかかでしょうか?

 

学士会館は2024年12月末をもって休館となりました。

2030年にリニューアルオープンの予定です。

 

1928年竣工の歴史的建造物(国登録有形文化財)は、

そのままの姿で保存・免震化され、

集会場や店舗、会議室として引き続き活用されます。

 

 
 

 

 

 

1951(昭和26)年6月27日

大阪球場の松竹ロビンス戦、2回走者1.3塁で

阪神の駒田桂二投手が、

松竹の林茂投手の初球をレフトスタンドに本塁打を放った。

 

阪神駒田桂二投手

 

スリーラン本塁打にベンチは大騒ぎだったが、

林投手のセット時間が早すぎたため、

駒田投手が本塁打を打つ前に「ボーク」の宣告。

そのため「無効打ち直し」の判定となった。

 

スタンドもしくは場外に打った本塁打を打ちながら

取り消しの悲劇にあった選手の第2号となった。

先発は千場投手だったが、1回の2点を取られ

ツーアウトで降板、駒田投手は1回途中から

ロングリリーフをし、最初の打席だった。

 

 

 

今では、このルールは打者側に立ったルール改正が行われ、

「ボークが宣告されたケースでも、打者の打撃内容が優先する」ということになり、

その後はこの様に無効になることはない。

そのためボークの球を打った無効になるケースは

駒田投手が最初で最後となった。

 

そして、駒田投手のすごいところは、打ちなおしてヒットを打ち、走者をかえした。

そして、この試合は4対4の同点で9回表阪神が7点の猛攻で勝利し、

空前絶後の本塁打取り消し試合を駒田投手の勝利投手で終わった。

ある意味、駒田投手のための試合でもあった。

 

しかし、駒田桂二投手の幻の本塁打の物語はここで終わらない。

 

1954(昭和29)年7月25日大阪球場での阪神 対 中日13回戦

9回が終わって3対3の同点で延長10回表、

中日の4番打者杉山悟外野手は3人目の駒田投手から

ツーラン本塁打を放ち、合計3点を入れ5対2でリードした。

 

10回裏阪神は駒田投手に代打に真田重男を送った。

真田は1951年まで松竹ロビンスに所属していた鉄腕投手で

打撃も投手とは思えないセンスであったので、代打は当然だが、

ここで、駒田が幻の本塁打打った相手球団のエースが

自分と同じチームに入り、代打に送り出される因縁が面白い。

 

 

中日の投手は魔球「フォークボール」を武器にこの年は絶好調。

杉下を擁した中日はこの年初優勝するほどの強さだ。

そこで、敗戦濃厚の阪神としても何とかしたい。

しかし、jカウントは2ストライク2ボール

そして、真田は食らいつくが、杉下のフォークに空振りか?!と思われた瞬間。

かすかに真田はかすったように見えた。

ここで中日の捕手が直接取ればアウト、ワンバウンドだったらファール。

しかし、杉村球審は見落としていたが、中日河村捕手のアピールで

「アウト」の宣告。ここで、阪神ベンチは松木謙治郎監督と

藤村冨美男内野手が猛抗議・・・・。

そして、結果は

阪神の放棄試合で0対9で中日の勝利となった。

 

放棄試合は9回までの記録は公式に残るが、

延長戦は公式記録として認めないルールがあるので、

10回表の中日杉山外野手の本塁打は

幻となってしまったのだ。

 

結局、駒田投手は

幻の本塁打を打ち、打たれた唯一の選手として名をとどめたのだった。

 

しかし、この珍の記憶を消し去るような

1954(昭和29)年7月25日阪神放棄試合は

球史に残る事件として「7.25事件」として

阪神球団に暗い影を落とすこととなった。

こちらの話はまた別の機会に・・・・。

 

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ロイ・キャンパネラ (Roy Campanella)

1921年11月19日~1993年6月26日

アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア出身

捕手、右投右打

 

 

 

イタリア人の父とアフリカ系アメリカ人の母を持つロイ・キャンパネラは、

1937年に15歳でニグロリーグのワシントン・エリート・ジャイアンツに入団。

その後、メキシカンリーグでもプレーし、実力を磨いた。

 

1946年にはブルックリン・ドジャースとマイナー契約を結び、

クラスBリーグのナシュアでアフリカ系アメリカ人初の監督を務めるなど、

早くからそのリーダーシップを発揮した。

 

ジャッキー・ロビンソンに続き、

1948年に26歳でドジャースに昇格したキャンパネラは、

MLBでもその高い総合力でチームを牽引。

 

1951年には打率.325、108打点で初のリーグMVPを獲得。

1953年には142打点、41本塁打で2度目のMVP、

1955年には打率.318、32本塁打で3度目のMVPに輝いた。

 

特に1955年のワールドシリーズでは、

宿敵ヤンキースを相手に重要な局面で本塁打を放ち、

ドジャースを初のワールドシリーズ制覇へと導いた。

 

しかし、1957年シーズン最終戦が彼の現役最後の試合となってしまった。

そのオフに交通事故に遭い、

下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされたのだ。

 

絶望的な状況の中でも懸命なリハビリに取り組み、

両手を動かせるまでに回復。

1959年にはヤンキースとの引退試合が挙行され、

9万人を超える大観衆が彼に惜しみない拍手を送った。

 

1969年にはアメリカ野球殿堂入りを果たし、

アフリカ系アメリカ人選手としては

ジャッキー・ロビンソンに次ぐ快挙。

 

そして1972年、背番号「39」はドジャース初の永久欠番に指定された。

 

引退後もドジャースのアドバイザーとして

チームを支え続けたキャンパネラは、

1993年6月26日に心臓発作のため66歳でその生涯を閉じた。

 

彼の不屈の精神と野球への情熱は、

今も多くの人々に感動を与え続けている。

 

通算成績(MLB10年)

1215試合、4205打数 627得点 1161安打 242本塁打 856打点

501三振、通算打率.276

通算盗塁阻止率.574は500試合以上出場の選手としては

今も歴代最高記録。

 

ロイ・キャンパネラのリファレンス↓

 

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衆樹資宏(もろきすけひろ)

1934年4月19日~1999年6月25日

神奈川県藤沢市出身

外野手、右投右打

 

 

衆樹資宏は、プロ野球史にその名を刻むとともに、

波乱に満ちた野球人生を送った人物として記憶されている。

湘南高校時代、彼はエースとしてマウンドに君臨した。

 

1951年春の選抜高校野球に出場するも、惜しくも初戦で敗退。

しかし、翌1952年春季関東大会ではチームを優勝に導き、

夏の甲子園県予選でもエース兼4番打者として決勝に進出するなど、

投打にわたる才能を見せた。

 

高校卒業後、慶應義塾大学に進学した衆樹は、大きな転機を迎える。

投手から野手への転向したのだ。

この決断が、彼の野球人生を大きく変えることになる。

東京六大学野球リーグでは、1955年春季リーグで戦後初の三冠王に輝き、

同年のアジア野球選手権大会では日本代表に選出された。

 

1956年には主将としてチームを4年ぶりの優勝に導き、

シーズン最多タイとなる5本の三塁打を放つなど、

大学球界のスーパースターとして名を馳せた。

 

リーグ通算では打率.262、3本塁打、44打点を記録し、

ベストナインにも2度選出されている。

 

1957年、衆樹は毎日オリオンズに入団し、

ルーキーイヤーから「6番・中堅手」の定位置を獲得し、規定打席にも到達。

しかし、プロでの打撃は伸び悩み、

1959年には田宮謙次郎の加入でレギュラーの座を失った。

この大毎時代には、深夜の泥酔による暴行事件や飲酒運転事故など、

私生活での問題行動も報じられ、その奔放な一面が垣間見える。

 

1960年、阪急ブレーブスへ移籍。

この移籍が、衆樹のプロ野球人生に再び輝きをもたらした。

移籍初年度からクリーンアップを任され、

8月末からは4番打者に定着。打率.288(リーグ8位)の好成績を残し、

打線の主軸として1964年まで活躍した。

 

彼のキャリアの中で特筆すべきは、

1962年の南海との開幕戦で放った、「プレーボール本塁打」だ。

ジョー・スタンカから放ったこの一打は、

開幕戦の初球先頭打者本塁打としては、

2007年に巨人の高橋由伸が記録するまで

45年間も日本プロ野球唯一の記録として輝き続けた。

 

高橋由伸とは、神奈川県の高校から慶應義塾大学に進学し、

大学で主将を務め、六大学野球で三冠王を獲得、

外野手としてプロ入りするなど、数多くの共通点を持つ。

 

その後は死球の影響や膝の故障に苦しみ、

1967年に南海ホークスに移籍し、同年限りで現役を引退。

オールスターゲームには2度出場した。

 

引退後は横浜市で喫茶店を経営し、第二の人生を歩んだ。

 

1999年6月25日肝硬変のため65歳で死去。

 

 

 

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写真協力 古書ビブリオ