野口正明
1925年3月7日~2004年3月24日
福岡県飯塚市出身
右投右打、一塁手、外野手、投手。
◎激動の戦前:28イニングの死闘と投手転向
野口正明は飯塚商業から1942年、名古屋軍に入団。当時は内野手だった。
プロ入りの年に、今や伝説的な「プロ野球最長イニング・延長28回」で
1番・一塁手としてフル出場している。
翌1943年には投手に転向し、弱冠19歳で12勝をマーク。
晩年の沢村栄治から安打を放つなど、類まれな才能を見せた。
しかし、1944年の大会を最後に戦地へと赴くことになった。
◎生死の境を彷徨った戦時中とシベリア抑留
満州で憲兵として任務に就きますが、終戦を境に運命は一変。
過酷なシベリア抑留を余儀なくされた。
極寒と栄養失調。生死の境を彷徨い、一度は倒れたが、
戦友の献身的な看護によって奇跡的に一命を取り留めた。
この「生かされた」経験が、後の彼の粘り強いマウンド捌きと、
礼儀に厳しい実直な人間性を形作ったのかもしれない。
◎放浪の時代と、伝説の「170m弾」の証人
1947年に復帰したものの、球界の政変(赤嶺旋風)に巻き込まれ、
名古屋、急映、大映とチームを渡り歩く流転の野球生活になる。
大映時代の1949年、札幌で大下弘が放った伝説の特大本塁打。
野口氏は後に「170メートルは飛んでいた」と語り、
その驚異的な飛距離を裏付ける貴重な証言者となった。
◎ 黄金の西鉄時代:球団初の最多勝へ
1950年、新設された西鉄クリッパースへ移籍。
ここから全盛期が始まります。
1952年には23勝を挙げ、球団史上初となるパ・リーグ最多勝のタイトルを獲得。
川崎徳次らと共に、後の黄金時代「西鉄ライオンズ」の礎を築く大黒柱として君臨した。
しかし、あまりに酷使したため、1954年に惜しまれつつ現役を引退。
◎ 後進の育成と、情に厚き晩年
引退後は病や貧困に苦しむ時期もあったが、
後輩・豊田泰光氏の尽力で炭鉱野球部の監督に就任。
その後は解説者として福岡の野球ファンに親しまれた。
2004年3月24日、福岡市内の病院で死去。享年79歳。
投手成績
打撃成績
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