野球が日本娯楽の花形だった1970年代に

野球漫画の頂点になる漫画家水島新司が発表したのが

「野球狂の詩」だ。
 

 

1972(昭和47)年~1977(昭和52)年まで、

週刊少年マガジンで連載が始まった。

 

当初は不定期連載だったが、1976(昭和51)年から

連載になり、水原勇気という女性プロ野球投手が主人公になり

タイトルは同じでも、それまでの内容とは変わった。

 

ここでは、不定期時代の野球狂の詩を取り上げたい。

 

 

 

第2話に野球狂の詩のメインアクター岩田鉄五郎が登場した。

プロフィールでは大正12(1923)年生まれで、

プロ入りは昭和21(1946)年の東京倶楽部(現東京メッツ)入団。

昭和47(1972)年の連載時50歳で26年目の現役投手。

あと、1勝で150勝になる模様。

 

婿養子の岩田清投手が昭和47(1972)年当時、

7年で152勝、6年連続20勝を目指している大投手でいるが、

鉄五郎のトリッキーな救援で6年連続20勝達成、

東京メッツはセ・リーグで初優勝をした。

巨人の8連覇を阻止したようだ。

 

東京メッツは20勝投手や30勝投手を1970年代に所属していたが

その後、岩田鉄五郎が204勝404敗8セーブと

(『岩田鉄五郎204勝404敗8S 『野球狂の詩』超記録大全』で書かれている。)

エースと他の投手のバランスが悪かった。

 

岩田鉄五郎が今も健在なら96歳!

長い現役生活と話題を考えると、野球殿堂入りしているだろう。

 

岩田鉄五郎は野球狂の詩だけでなく、

水島新司の野球漫画に名脇役としても登場。

「あぶさん」では景浦安武を南海ホークスにスカウトした恩人で登場している。

 

1970年代のセ・リーグを活躍したプロ野球選手も出てくるので、

リアルな雰囲気も楽しめる、今の野球漫画では表現できない

面白さを今も堪能できる『野球狂の詩』です。

 

野球雲チャンネルで熱く野球狂の詩を語ります。

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野球が日本娯楽の花形だった1970年代に

野球漫画の頂点になる漫画家水島新司が発表したのが

「野球狂の詩」だ。


 

1972(昭和47)年~1977(昭和52)年まで、

週刊少年マガジンで連載が始まった。

 

当初は不定期連載だったが、1976(昭和51)年から

連載になり、水原勇気という女性プロ野球投手が主人公になり

タイトルは同じでも、それまでの内容とは変わった。

 

ここでは、不定期時代の野球狂の詩を取り上げたい。

 

水島新司の野球漫画は貧乏と金持ちとの戦いのような軸が多く。

どやがい、ルンペン、日雇いなどの生活に困窮しているキャラクターが多い。

親に捨てられたり、事故で亡くなったりと悲惨な環境の子供たちも描かれる。

 

関西的なノリと、勝手気ままな主人公など、

それぞれのキャラクターが野球を通じて、人生や運命の面白さを描いてくれた。

初めて読んだのは小学5年ごろで、

架空の球団東京メッツで個性豊かな選手が駆けずり回る。

 

 

記念すべき、第1回は「ふたり心太郎」

これも、水島新司節というべき複雑な親子関係と

出会った大人の素晴らしい出会いを、心太郎の半生を描く大作だ。

 

主人公の吉田心太郎は甲子園で活躍後、東京メッツに入団。

1年目に31勝で新人王、最多勝、沢村賞を受賞。

2年目に32勝で最多勝能防御率1位!

3年目にはなんと36勝をあげ、通算99勝をあげた

もう、稲尾和久、杉浦忠、権藤博のようです。

 

しかし、4年目の開幕試合で突然の故障で

その後、数年間二軍で打撃投手までになり、

通算100勝をめざす。そこで、通算100勝にこだわる

吉田心太郎投手の理由を知ると、泣けるのです。

 

物語は皆さんが詠んで頂くとして、

この中には岩田鉄五郎は出てこない。

第2話から永遠の水島キャラのひとり岩田鉄五郎が出るのです。

その話は次回に!

 

野球雲チャンネル

水島新司と里中満智子のコラボ漫画を知っているか 

 

 

 

 

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高橋龍太郎

1875年7月15日~1967年12月22日

愛媛県喜多郡内子村(現内子町)出身

実業家、政治家、球団オーナー 他

 

 

高橋龍太郎は、アサヒ・サッポロビールの前身である大日本麦酒の社長を務め、

日本のビール文化を築いた実業家である。

同時に、戦前には正力松太郎の依頼で

「イーグルス」のオーナーを務めるなど、プロ野球界とも深い縁を持っていた。

その彼が、戦後のプロ野球再編期に

私財を投じてまで関わったのが、「高橋ユニオンズ」だった。

 

 

1. 球団創設の背景(1954年)

1953年、当時のパ・リーグは7球団制であり、

日程編成上の都合から「偶数球団」への是正が急務となっていた。

この要請に応える形で、1953年12月24日のクリスマスイブ、

高橋をオーナーとする新球団の設立が突如発表された。

高橋がこの難局を引き受けた背景には、リーグ総裁であった

永田雅一(大映オーナー)からの強い働きかけがあったとされる。

しかし、他球団から供出された選手は、

戦力外に近いもので、

創設時から極めて厳しい戦いを強いられるのを予想された。

2. 「最弱」と言われた球団の苦闘(1954年 - 1956年)

1954年に「高橋ユニオンズ」として

 活動を開始した球団は、資金・戦力ともに脆弱であった。

  • 1955年(昭和30年): トンボ鉛筆と業務提携し
    1年間だけ「トンボユニオンズ」と改称。

  • 1956年(昭和31年): 再び「高橋ユニオンズ」へ。
    この年、佐々木信也が新人ながら全試合出場、180安打を記録する活躍を見せた。

記録面では、日本初のスタルヒン投手300勝達成や、
伊藤四郎投手の年間65試合・323イニングス登板といった、

過酷な奮闘が記録されている。

一方で、1試合10失策や、観客わずか150名といった、

経営の困窮と戦力の限界を示すエピソードも数多く残されている。

3. 「私は騙されたんだ」:経営の幕引き

高橋は独立採算経営に固執し、不足分は自らの資産を切り崩して補填した。

しかし、パ・リーグの思惑に翻弄される中で、1956年オフ、リーグから

「勝率規定に満たない場合は解散・合併」という条件を突きつけられる。
 

最終的に、高橋ユニオンズは大映スターズに吸収合併され、

わずか3年でその幕を閉じた。

後に高橋が孫に対して漏らした「私は騙されたんだ」という言葉は、

選手編成に関する約束の反故や、

自らの球団をリーグ維持の「使い捨て」のように扱った

当時の球界有力者たちに対する、静かな、しかし重い憤りであったと推測される。

4. 野球界に遺した精神的遺産

高橋ユニオンズは、後に大映ユニオンズ、大毎オリオンズへと合流し、

現在の千葉ロッテマリーンズへと繋がる傍系源流の一つとなった。

高橋本人は、チームが消滅した後も、

移籍していった選手たちの活躍を温かく見守り続けた。

没後も長年続いていた「ユニオンズOB会」の存在は、

弱小球団でありながら、オーナーである高橋が選手一人ひとりを深く愛し、

人間的な信頼関係を築いていた証左である。

 

「私はたとえ球団が変わっても、いつも君達の元気な姿を楽しみに見守っている」

 

この言葉に象徴されるように、高橋龍太郎が野球界に遺したのは、

ビジネスとしての成功以上に、

困難な状況下で共に戦った者たちへの深い敬意と情愛をもった

素晴らしいオーナーだった。

 

高橋龍太郎の孫 故秋山哲夫氏の力作

「高橋球団(ユニオンズ)3年間のあゆみ」

 

 

 

 

 

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1951(昭和26)年に発売された
新田恭一著の「野球の科学-バッティング』岩波書店刊の
書籍を紹介いたします。

 




新田恭一は、当時では珍しい理論派で
東京六大学野球で審判もやり、ゴルフの才能もあり
1931年のアマチュアゴルフ日本選手権で優勝もした。

野球とゴルフの経験とな研究から
下半身を使うバッティング理論を作った。
戦後、小鶴 誠を新田理論で強打者に育てあげ
松竹ロビンスのコーチとしても1950年の優勝に貢献した。

そして、今回の本はその直後に発売されたものです。

 


日本初の野球を科学的に解説された本と言われています。



小鶴 誠選手がモデルと豪快なバッティングフォーム



新田恭一氏自身もモデルで解説

巨人のコーチをしたのち、
派閥争いにも巻き込まれた感じで
新田恭一理論は闇に葬られたようになっています。
もっと、野球史の一部として評価しても良いのではないでしょうか?

 

 

 

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12月20日は東京駅が開業した日です。

1914年(大正3年)に中央停車場として、
旧新橋駅から東海道から西の玄関口になった。

東京駅はどんどん大きくなって、地下にも広がり
新幹線も通勤電車と同じように発着している。

自分も東京駅を利用するが、子供のころから
どこかで工事をしている。
生きているうちには、東京駅の完成は見られないかもしれない。

東京駅ができたのは大正時代。




大正時代は15年しかなかったが、
現代の文化の原点的な感じがする。

明治維新で活躍した人々がこの世を去り、

明治維新からの第二世代が活躍し、

西洋の文化が、日本流に昇華されてきた時代。

野球雲2号では
「大正野球狂時代」というタイトルで
大正時代の野球、選手、背景などを特集した。
その短い時代を調べていくうちに
野球だけでも大きな転換期だった。

野球文化が庶民の大きな娯楽となり、
現代の東京六大学野球が、大正の15年をかけて出来上がり、
関西では甲子園球場、関東には神宮球場が完成した。

そして、甲子園球場は中等野球の聖地となり、
神宮球場は大学野球の聖地となった。

子供のための野球ボール「軟式ボール」も大正時代にできた。
因縁を見ていけば、大正時代に生まれた野球人が
100年以上前、職業野球の創設に大いに関わった。

東京駅の完成によって、鉄道も大きく変わる時代となった。
大正時代の重要性を感じてしまう。

リアルに人の話しが聞ける年数と言うのは
「前後50年くらいじゃないか?」と
野球雲の執筆者でもある広尾晃さんとお話した時がある。
令和の時代になって大正時代のものが100年以上経過する。
とても気持ちが焦ってしまう。

今年は昭和100年ですもの。

子供のころは大正生まれの人がたくさんいたのに、
戦前生まれの方も年々少なくなっていく。
当たり前なのだが、時間は淡々と過ぎて、
貴重なお話を聞けるチャンスを逃した気分です。

 



野球雲2号の特集では
大正時代の野球を紹介しきれていないので、
いつか、別冊という形でも

大正時代の野球をもっと掘り下げていきます。

 

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唐突だが、野球史のなかで
1958年というのはプロ野球の最初の大きな分岐点だったような気がする。

日本も戦争が終わって干支で云うと一回りし、

13年目に入った年。

 

先に、1958(昭和33年)がどんな年だったかまとめてみた。

◎黎明編:復興から脱却した国民的実感

1958年(昭和33年)。

この年は、日本の歴史におけるまぎれもない「最初の分岐点」としての時代。

経済白書の有名な宣言「もはや戦後ではない」が、

ようやく国民一人ひとりの暮らしの中で、「実感」を伴い始めた年だ。

長期的な好景気である「岩戸景気」がこの年から始まり、設備投資が活発化。

日本の産業界は重厚長大路線で急成長を遂げ、勤労者の所得は戦前水準を超越。

日本は貧困の時代を抜け出し、

「大量生産・大量消費」という未知の領域へと足を踏み入れた。

 ◎暮らしを一変させた「夢の三種の神器」

この年の最大の変化は、家庭の中に現れる。

生活の近代化を担ったのが、

当時の人々が喉から手が出るほど欲しがった「三種の神器」だ。

洗濯機、冷蔵庫、そして何よりもテレビ

これら家電製品は、主婦たちを過酷な家事労働から解放し、

一家に一台のテレビは、都市と地方の文化的な格差を一気に埋め始めた。

家族全員が茶の間に集まり、四角い画面を囲んで笑い、泣く――

この新しい団らんの形こそ、新しい日本の家族像を形作ったと言える

 

そして、プロ野球だ・・。


⚾ 1958年、プロ野球「長嶋世代」誕生とテレビが生んだ大転換期

黎明期の終焉と新時代の幕開け

1936年にリーグ戦が始まって以来、

戦争という中断を経て復興を遂げてきた日本のプロ野球界は、

1958年(昭和33年)に決定的な転換期を迎えた。

黎明期を支えたスター選手たち、「球界の至宝」と呼ばれた

川上哲治藤村富美男西沢道夫といった名選手たちが次々と現役を退く時期と、

後に球界を社会現象にまで押し上げる一人の偉大なスターの誕生が重なる。

◎長嶋茂雄の出現

そのスターこそ、1958年に読売ジャイアンツに入団した長嶋茂雄だ!

彼が持つ社会的な影響力は、単なる野球選手の枠を超えていた。

テレビという新しいメディアの登場と、

翌1959年の皇太子(後の上皇)ご成婚という

国民的慶事が重なるという「運の良さ」も相まって、

プロ野球は一気に国民的娯楽の頂点へと駆け上がっていく。

もし今なら「長嶋世代」と称されるであろう、

彼の登場こそが、プロ野球をビジネスとして大きく成長していくきっかけとなった。

長嶋茂雄という存在を軸に、プロ野球界は爆発的な変化を遂げ、

それまで野球界の頂点と見なされていた東京六大学野球から、

完全にプロ野球へと主役の座が移った決定的な年が、この1958年ではないか。

◎衰退と発展が交錯した日本シリーズ

この年のプロ野球の象徴的な出来事として、

西鉄ライオンズ対読売ジャイアンツの日本シリーズが挙げられる。

  • 歴史的死闘: 巨人が先に3連勝し王手をかけたにもかかわらず、
    西鉄がそこから驚異の4連勝を飾り、
    日本一に輝くという、歴史に残る激闘が繰り広げられた。

しかし、この劇的な勝利を最後に、
強豪・西鉄は緩やかな凋落の道を辿り始める。
この事実は、「一人のスターの力は絶大だが、それを継続し、
    時代をリードしていくためには、組織とチーム全体の底上げが不可欠」という、
プロ野球のビジネスとしての課題を浮き彫りになったかもしれない。

この時代の熱狂と構造変化を分析するなら、

まさに「野球1958年学」という学問分野があってもおかしくないほど、

深く、豊かなテーマがあるように思えるのです。。




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シーズンオフなって、各プロ野球球団も
来シーズンに向かっての準備が始まっています。

野球雲スタッフはシーズンオフには
あらためて野球史や野球文化のネタを探しまくっています。

そんな中、背番号の話になってきたので、
永久欠番を考えてみました。


今より、野球場へ行くことが「お出かけ」だった時代は
(昭和40年代後半)
球場に行くことがなかなか出来ず、
もっと野球を知るには漫画(コミック)が教科書だった。

当時のスポーツ漫画といえば『野球』が王道だったので
必然的に読み出した。

リアルに読んでいたのは「侍ジャイアンツ」
主人公『番場 蛮』がつけていた背番号は「4」
巨人軍の永久欠番だ。




実際に背番号4をつけていたのは
戦中、戦後(昭和19年から昭和22年)巨人でクリーンナップを打っていた
黒澤俊夫外野手のものだ。


(名古屋金鯱時代 歴代名選手名鑑 恒文社刊 引用)

黒澤俊夫は1936年名古屋金鯱に入団、
1941年に金鯱軍と翼軍が合併しそのまま大洋軍に在籍。
1944年に東京巨人軍にトレード、
戦前最後のシーズンの1944年(昭和19年)に.
打撃成績2位の348を打ち、終戦。

1944年から1947年のたった3シーズンだったが
主軸のいない巨人で活躍したものの
昭和22年6月23日に腸チフスで急死。
プロ野球成績8シーズンで459安打、.259を打った。

現役選手での病死という衝撃に、チームメイト(千葉茂)が
永久欠番を球団に要望し、それを認めたものだ。

侍ジャイアンツでは、番場 蛮が
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という武士道精神を元に
背番号4をつける展開で、その番号が永久欠番で
黒澤俊夫という選手を知り、亡くなっていることも知った。
ただ、風貌からすると番場 蛮の先輩
八幡太郎平に似ている・・・。

野球の歴史を知ることはとても良いことだったが、
子供ながらに4という数字と『死』がリンクする瞬間だった。
同時に澤村栄治の背番号14も末尾の4がそれを連想させたりもした。

今ではそうでもないが、背番号4の不吉なイメージは
黒澤俊夫もそうだが、やはり背番号4をつけていた
ヤンキースのルー・ゲーリックの死も含めて
繋がってしまったのは否めなかった。

しかし、言葉の音感を考えると
背番号4の静かさは日本独特のものだと思う。
番場 蛮の背番号が4ではなく澤村栄治の14だったら、
川上哲治の16だたっら
また違ったイメージを持ったと思う。

しかし、巨人の星の「星 飛雄馬」が16、
ちかいの魔球の「二宮 光」が14をつけていたから
番場 蛮に「4」を付けさせるには、
破天荒で死の雰囲気を持たせるしかないのかもしれない。

本当はどうだかわからないけど、
黒澤俊夫外野手と永久欠番という選手の顕彰の制度を知ったので
イメージはともかく侍ジャイアンツには思い出がたっぷりだ。


野球漫画の主人公がどの背番号をつけていたのか?
調べて、考えてみると面白いかもしれません。

ちなみに永久欠番の選手で、野球殿堂入りしていないのは
黒澤 俊夫選手と中日の背番号「10」服部 受弘選手のふたりです。

 

 

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ある冬、新橋方面に行く用事があったので
ついでながら、汐留の旧新橋停車場に行ってきた。
現在の新橋駅から昭和通りを銀座よりに歩いて5分くらいのところにある。
歩いていけば、高層ビルの中に2回建ての趣のある建物なのですぐわかる。


新橋停車場

旧新橋停車場は1872(明治5)年に鉄道が開通した時の
東京の玄関口となった駅だ。
日本で初めての鉄道区間は新橋ー横浜(現桜木町)の間を53分で結んだ。
鉄道開通の式典を行った10月14日は現在「鉄道の日」となっている。
鉄道の起点「0マイルポスト」と当時の線路もある。



明治時代の線路0マイルポスト


1914(大正3)年に現在の東京駅ができるまでは
新橋駅が明治時代の東京の玄関口だった。
「新橋ステンション」とも言われ、文明開花の象徴ともなった。

野球雲的に鉄道史を考えると、
野球も1872年にホーレス・ウイルソンが旧制一高(現東京大学)の
生徒にノックなどをして教えた、と言われている。
つまり、鉄道と野球は同期生なのだ。

そして、日本に初めて野球のクラブチームを作った
平岡 凞(ひろし)が、1876(明治9)年にアメリカに自費留学して
鉄道技師の技術を勉強して、横浜からこの新橋停車場に降り、
野球以外にも日本で初めてローラースケートをしたらしく、
伝記によると、新橋停車場のホームで滑ったとも言われている。


新橋停車場ホーム

新橋停車場は東京駅開業の後は旅客扱いを停止して、
貨物駅に使われるようになったが、

1923(大正12)年の関東大震災で焼失してしまった。
しばらくして建て直し開始が、
1934(昭和9)年、ベーブ・ルースをキャプテンに

大リーグ選抜チームが来日した年であり、
完成が日本のプロ野球リーグ戦が始まった1936(昭和11)年というのも、
鉄道と野球のめぐり合わせを感じてしまうのだ。

平岡が工部省鉄道局に入り、クラブチームを作って「保健場」で
野球をやったグランドも新橋停車場近くにあったらしく、
大きなビルの谷間に明治初期の不思議な空間を勝手に感じてしまった。




一方、保健場は品川の八ツ山付近とも言われているので、
品川駅に行ってからその付近を眺めてみた。



後方に八ツ山橋(品川駅)

リニアモーターカーの発着駅になる品川駅の近くに
明治の初めに周りが袴姿で野球をしているのに、
平岡率いるクラブチームがユニフォームを着て
ゲームに興じていたの様子を想像しながら、
21世紀に日本の近代化の柱となった鉄道の影に野球文化が花開いたのも
何ともいえないロマンを感じた昼下がりだった。



最終的に汐留駅は1986(昭和61)年10月31日に114年の歴史に幕を下ろした。

 

平岡は野球殿堂の最初の表彰者の1人となった。

 

 

 

 



日本で初めてカーブを投げた男―道楽大尽 平岡〓の伝記物語/小学館

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木塚 忠助

1924(大正13)年4月23日~1987(昭和62)年12月16日

佐賀県唐津市出身 右投右打

遊撃手。

 

 

佐賀の唐津中学で野球をはじめ、

鉄道省門司鉄道局に就職し、三塁手として俊足、強打、強肩の

三拍子そろった選手として「門鉄の赤鬼」として

グランドで暴れまくった!!

 

 

1948(昭和23)年、南海ホークスに入団。

その才能は、すぐに発揮した。

それまでの日本の遊撃手の概念を変えた肩の強さ、

三塁手の股間を抜かれた打球に追いつき、

逆シングルで捕れば、そこから矢のような送球で

打者を仕留める守備に野球ファンは驚いた。

 

三遊間を組んだ、鶴岡一人(当時は山本一人)は

木塚の守備範囲の広さと華麗な動作に驚嘆し、

「私が知る銭のとれる選手第1号」と言わせた。

 

打撃は長打はないが、2年目の1949年に3割を打ち、

堅実な打撃を見せた。そして、それ以上に盗塁の多さが特筆もので

1949年から1952年まで4年連続盗塁王で55個以上を記録した。

そして、盗塁成功率も85.5%の高さを誇った。

1950年の78盗塁は史上5位の数字だ。

 

戦後、南海ホークスの大躍進、常勝チームを作った選手のひとりで

主に遊撃手として2番を打ち、

一塁飯田徳治、二塁 山本一人、三塁蔭山和夫等と共に

百万ドルの内野陣と呼ばれた。

 

木塚の「バカ肩」のエピソードとして

三塁守備位置から一塁送球をスタンドに直接投げ込んだ!という

エラーも観客は木塚の強肩に対して喜んだという。

 

通算盗塁479個は歴代4位の数字だが、

盗塁成功率は.808の高率で、

南海の後輩、広瀬叔功が596盗塁で.829に続く2位の成績。

400盗塁上で8割越えは木塚と広瀬の二人だけの記録だ。

 

 

日本の遊撃手のすばしっこくて、1.2番を打ち

塁上を駆け巡る好打者というイメージは木塚と阪神の吉田義男の

成功によるかもしれない。

 

1956(昭和31)年近鉄パールスに移籍。

これは南海ホークスの財政事情でピークを過ぎた高額年棒の選手を

保てない結果だったが、当時の雑誌では

木塚の移籍は大きな話題になって、

弱小球団近鉄を変えるコーチ兼任選手として期待されたが、

思うような成績を残せなかった。

 

1959年引退。

 

1987年12月16日、63歳で死去。

 

通算1216本、通算打率.262と数字では評価されないように思えるが

門鉄時代の人気ぶりに、ベストナインに7回も選出され、

戦後プロ野球人気に大いに貢献し、南海黄金時代の

代表的な選手としてもっと評価されてもいい選手のひとりで

野球殿堂入りしていないのは、残念でならない。

 

 

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山本栄一郎
1902年3月8日~1979年12月15日

島根県松江市出身

右投右打、投手、内野手、外野手。

 

 

山本栄一郎は、島根県松江市出身で、

日本の野球史において重要な役割を果たした人物です。

彼は日本最初のプロ野球チームで主将を務め、

後に読売ジャイアンツの前身球団にも在籍した。

右投右打で、投手を中心に捕手以外の

ほぼ全ての守備位置を守り、サイドスローを特徴としていた。

◎日本初のプロ野球団での活躍(大正時代)

島根商業(現・島根県立松江商業高等学校)を卒業し

神戸での勤務を経て、1920年(大正9年)、

早稲田大学野球部OBの紹介で日本運動協会の入団テストに合格。

その技量が認められ、入団志願者の中から主将に選ばれた。

 

協会ではエース投手として活躍し、

1922年(大正11年)9月9日に行われた

早稲田大学野球部との試合では、

9回まで早稲田を無失点に抑える快投を見せた。

また、打者としてもチームの中心であり、

身長162cmと小柄ながら

「遠心打法」と自称した打法で長打を放ち、主に3番打者を務めた。

協会が宝塚へ本拠地を移し「宝塚運動協会」となった後の

1924年(大正13年)9月、肩の故障により満足な投球ができなくなり協会を退団。

退団後は、協会の大ファンであった6代目尾上菊五郎邸に身を寄せ、

尾上の野球チームで活動を続けた。

◎都市対抗野球での優勝と満州での活動

1925年(大正14年)、満州へ渡り大連実業団に加入。

大連実業団では三塁・一塁を主に守り、

不動の4番打者としてチームを牽引した。

その結果、1928年(昭和3年)の第2回都市対抗野球大会ではチームを優勝に導いた。

しかし、この優勝直後に山本は大連実業団を退団し、

京城(現・ソウル特別市)の鉄道チームへと移った。

この行動は、山本が残したスクラップブック内の

「かつてプロであった選手がアマチュアの都市対抗に出場するのはおかしい」という

趣旨の記事の切り抜きから、チームの優勝に疑義が生じるのを避けたと思われる。

その後は京城にも長く留まらず、日本各地の実業団チームを臨時で転々とした。

◎全日本チーム参加とプロ野球創成期

1932年(昭和7年)、埼玉県熊谷市に現れ、

熊谷スター倶楽部に助っ人として入団。

熊谷で結婚し家庭を持った後、

1934年(昭和9年)、来日する全米代表チームの相手として

社会人による全日本代表チームが編成される話を聞き、

山本はこれに自ら志願し、二塁手としてメンバーに選ばれた。

この時、他のメンバーは市岡忠男監督に口説かれての参加であり、

自ら志願したのは山本ただ一人だった。

 

その後、全日本メンバーを中心に創設された

大日本東京野球倶楽部(のちに東京巨人軍へ改称)へそのまま入団。

背番号は10(翌年9番に変更)になった。

巨人軍では選手としてのピークを過ぎていたため、

代打や代走での出場が主だったが、

チームの最年長として若い選手たちへの指導や助言を熱心に行なった。

特に、沢村栄治が日本プロ野球史上初の

ノーヒットノーランを達成した試合では、

代打で登場し決勝点となるタイムリーヒットを放った。
 

1942年(昭和17年)に現役を引退。

引退後は巨人軍でスカウトを務めたほか、

小泉吾郎に招かれ女子プロ野球のロマンス・ブルーバードや

京浜ジャイアンツの監督も歴任した。

1979年(昭和54年)12月15日に77歳で死去。

 

山本栄一郎は、日本でプロ野球が確立される以前の、

まさに日本のプロ野球の黎明期において、

最初期のプロ球団の主将を務め、さらにアマチュアの頂点である都市対抗で優勝、

そして日米野球の全日本チームへの参加、

最終的に大日本東京野球倶楽部(巨人)創設メンバーとなるなど、

野球の歴史が動く重要な節目全てに関わった、野球史にとって欠かせない人物だ。

 

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