2月7日は阪神タイガース、

大洋ホエールズ(現DeNA ベイスターズ)の創設時に
参加し、プロ野球第1号の本塁打を打った

名選手 藤井 勇の命日です(1986年)。


大洋ホエールズ監督時代

 

藤井勇

1916年10月20日~1986年2月7日

鳥取県鳥取市出身 左投左打 外野手


1934(昭和9)年

ベーブ・ルースが来日した時の大リーグ選抜チームを迎え撃つために
「株式会社大日本東京野球倶楽部」が結成された。
それが、現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)になっています。

巨人軍の正力松太郎は
甲子園球場を持っている阪神電鉄に職業野球に参加を要請、、

阪神電鉄は
大阪タイガースを1935年に結成し、
阪神創設時に入団した選手に藤井勇がいた。

鳥取一中時代は4番打者として甲子園大会に3度出場し、
沢村栄治率いる京都商業を破っている。
プロの世界でも、沢村を打ち込んでいる。

左投げ左打ちで主に外野と一塁を守った。
打順は1番か2番、その上長打力もあったので、
俗に言う「いやらしいバッター」だったかもしれない。

1936(昭和11)年春、初の公式戦が始まった。
大阪タイガース、名古屋軍(現中日)、阪急(現オリックス)、
大東京、セネタース、金鯱軍の6球団が参加。
(巨人は2回目の渡米で不参加)

4月29日から5月5日甲子園球場で連盟主催の試合の
6日目、5月4日セネタース戦
藤井はこの日2番レフトで出場、
5回、野口明投手から打った打球は左中間を抜け、
一気にホームまで駆け抜けた。

プロ野球第1号本塁打はランニングホームランだった。

このシリーズで藤井は5試合で19打数10安打、打率 .553
二塁打3本、本塁打1本を記録し首位打者となった。
そしてシリーズ15試合で唯一の本塁打が藤井のものだった。

藤井の後は、3番松木、4番景浦、5番藤村と
クリーンナップ全員が野球殿堂入りしている迫力の打線!
その中で大当たりは藤井のセンスの良さもわかる。

タイトルには恵まれなかったが、出塁率が3割7分以上を5回、
1937年春の49得点は2シーズン制の最高記録だ。

徴兵されたことで戦前は4シーズンだが、
戦前のタイガース黄金時代を作った。

背番号は11番、戦前はいろは順で決めていたので「11」
その後、村山実投手が付けて永久欠番になった。

戦後は1946年パシフィックで復帰、しかし、名選手が故の
阪神との二重契約問題もあったが、1950年セ・リーグ分立時に
大洋ホエールズに移籍、チームの4番として
1950(昭和25)年は .327 34本塁打 122打点と大活躍し、
その後、1958年まで主軸として活躍、
実働17年だが戦争がなければ21年にも及ぶ。

1955年に選手兼任監督になったが、セ・リーグ記録の最低勝率、最多敗戦
31勝99敗 2割3分8厘を記録、1年で辞任したが、弱すぎた原因のひとつに
4番の藤井勇がレギュラーになれなかったことがあった。
(3番青田昇以外はかなり厳しい戦力だった)

その後は大毎、阪神コーチに就任し野球界に貢献した。

通算1487試合、5387打数 1482安打 146本塁打 764打点 打率.275
戦前は343試合 1029打数 284安打 .276


安定した打力と実績を考えたら
野球殿堂入りしていなくてはいけない野球人のひとりだろう。

 

 

 

 

 

 

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2月6日(1984)年は
巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督として
氾濫万丈の野球人生を送った三原脩氏の命日(享年72歳)。

 

三原 脩

1911年11月21日~1984年2月6日

香川県出身


三原脩の功績は数え切れないほどありますが、
日本の野球史の中で今も一番影響を与え続けている一人かもしれません。

旧制中学時代から野球にのめりこみ、大地主の末っ子として

父親の意向で丸亀中学から高松中学に転校。

その高松中で野球と勉強をすることで転入を認められ

第14回夏の甲子園に出場。

 

早稲田大学に入学後も1年生から二塁手として活躍、

1931年春季の早慶戦で慶応の水原からホームスチールを敢行し勝利した。

それは今も野球史に輝くエピソードとして残っている。


現在のプロ野球契約1号選手として巨人に入団。

まだ、プロ野球の知名度が少ない時代に

早稲田で人気だった三原を1号選手として話題を集めたかったかもしれない。

巨人では選手としてより、藤本定義監督の補佐として活躍したが、

三度の召集などもあり、現役生活は3年ほどで終わった。

 


戦後は知将として強いチームはより強く、
弱いチームを強くする監督としての才能は
勝負師としての凄さも感じさせます。



三原脩はフレーズの面白さも魅力的です。
「超二流」「流線型打線」など
野球ファンの心を揺さぶる言葉に、知将の故たるものに感じます。

野球を見始めたころには、現場を退き
ニッポンハムファイターズの球団社長になっていて、
なんとなく意外に思ったりした。



亡くなる前の1983年に野球殿堂入りで
当時の規則がそうさせたかもしれないが、
「思っていたより遅い殿堂入りだな~」と感じたものだ。

 

三原監督は26年間の監督生活をし、

通算3247試合1687勝1453敗108分 勝率.537

1947年、1949年、1966年、1967年の4シーズンは

監督就任の時期、休養の試合を除いてあります。

 

表の訂正

☆1956年の日本シリーズは4勝2敗で西鉄が優勝。

 

戦後の巨人の基礎を作り、常勝チームにした後

巨人の政治的人事によって追われ、
パ・リーグ新興球団の西鉄ライオンズで黄金時代を築き

やり切ったのか!1960年に

新たなステージとして大洋を選んだことは、

大洋ホエールズだけでもなく、三原魔術といわれた

彼の実績にも大きな影響を与えたことでしょう。


実績を考えてみると、
日本の野球指導者の中で一番面白く、
一番劇的な監督だったかもしれない。

 

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1936年2月5日「日本職業野球連盟」が創設されました。

これが、現在につながる「日本野球機構(NPB)」組織です。

今回は簡単ですが、歩みをまとめてきました。

そして、2026年は90周年の節目です。

 


日本プロ野球の歩み(1936年〜1950年)

1. 連盟の設立と初期の展開(1936年〜1939年

  • 1936年2月5日日本職業野球連盟が設立。
    当初は7球団体制(東京巨人軍、大阪タイガース、
    名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍)。

  • 1936年4月:第1回リーグ戦を開催。
                       同年秋季大会で初めて優勝チーム決定戦を実施。

  • 1937年:後楽園イーグルスが加入し、8球団体制へ。

  • 1938年:南海軍が加入し、9球団体制へ。

  • 1939年日本野球連盟に改称。

2. 戦時下の苦難と変遷(1940年〜1944年)

  • 1940年:英語の禁止に伴い、球団名や野球用語の日本語化が開始。
                  満洲でのリーグ戦も開催。

  • 1941年:球団の合併により8球団体制へ。

  • 1943年:2球団が解散し、6球団体制へ縮小。

  • 1944年日本野球報国会へ改称。
                  戦局悪化により、夏季リーグを最後に公式戦を中止。
                  以降の大会は公式記録から除外される。

3. 戦後の再建と組織改革(1945年〜1948年)

  • 1945年末〜1946年初頭:新球団(セネタース、ゴールドスター)を加え、
                                        8球団で連盟を再結成。

  • 1947年:ニックネーム制を全面導入。「漢字+ニックネーム」の呼称に統一。

  • 1948年:社団法人へ改組。フランチャイズ(地域密着)制度を試験的に導入。

4. 2リーグ分立と現在の体制へ(1949年〜1950年)

  • 1949年:新規加盟を巡り連盟内部が分裂。1リーグ制が幕を閉じる。

  • 1950年:セントラル野球連盟(セ・リーグ)
                  太平洋野球連盟(パ・リーグ)がそれぞれ設立され、日本野球連盟は解散。
     

  • その後:両リーグ間の調整機関として、現在の日本野球機構(NPB)が発足。

     

    戦前・戦中の日本プロ野球が直面した「危機的状況」は、
    単なる経営不振に留まらず、存続そのものを否定される社会情勢にあった。
    その苦難の過程は、大きく3つに分けられる。

    1. 権威と人気の欠如(設立当初)

    1936年の連盟設立時、日本における野球の主役は
    「大学野球(東京六大学など)」だった。
    プロは「職業として野球を切り売りする卑しいもの」という偏見に晒された。
     

  • 財政難: 選手の給与支払いが滞る球団もあり、
    大学球界のスター選手を勧誘するのも困難な状況だった。
     

  • 人気の格差: 早慶戦が超満員になる一方で、
    プロの試合は数えるほどの観客しかいないことも珍しくなかった。


    2. 国家統制と「敵性語」の排除(1940年〜)

    日中戦争の長期化により、野球は「アメリカ由来の娯楽」として弾圧の対象となった。

  • 英語禁止: 「ストライク→よし」「アウト→ひけ」といった日本語化が強制され、
    球団名も「タイガース→阪神」「ジャイアンツ→巨人」と改称された。
     

  • ユニフォームの変容: 華美なデザインは禁じられ、
    帽子には戦闘帽のような国民服に近いスタイルが求められた。


    3. 人材と物資の枯渇(1943年〜1944年)

    太平洋戦争の激化により、競技継続は物理的に不可能な段階へ突入する。

  • 選手の徴兵: 沢村栄治氏をはじめとするスター選手が次々と戦地へ送られ、
    多くの尊い命が失われた。これによりチーム編成すら困難になっていく。
     

  • 物資不足: ゴムの供給制限により、
    芯にコルクや木片を使った「飛ばないボール」が使用される。
    バットやグラブの質も著しく低下していった。
     

  • リーグ停止: 1944年には、
    平日は軍需工場での労働、週末のみ試合を行う「日本野球報国会」へと変質。
    同年8月、ついに公式戦の休止が決定した。

    戦前のプロ野球における最大の危機は、
    「野球をすること自体が非国民的行為とみなされかねない」という社会的情勢だった。
    1944年の休止は事実上の解散に近い状態だったが、
    この苦境を耐え抜いた関係者の執念とアメリカの管理体制が重なり
    1945年11月、驚異的な早さでのリーグ再開に繋がった。

    次の100周年に向けて、この10年は
    あらためて先人の苦労や実績などを知り、
    野球を楽しんでいきたいと思います。

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フェリックス・ベルナルド・ミヤーン・マルティネス

Félix Bernardo Millán Martínez )

1943年8月21日生まれ

プエルトリコ出身

右投右打、二塁手。

 

 

1970年代後半のプロ野球界において、

巧みなバットコントロールでファンを魅了した助っ人がいた。

プエルトリコ出身の「キャット」こと、フェリックス・ミヤーンです。

メジャーでの実績と来日

1943年生まれのミヤーンは、

1966年にアトランタ・ブレーブスでメジャーデビュー。

1973年にはニューヨーク・メッツへ移籍し、

二塁手としてワールドシリーズ出場。

メジャー実働12年、通算1617安打という実績を携え、

1978年に大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)へ入団。

1978年:横浜移転初年度の苦悩

本拠地を川崎から横浜スタジアムへ移した1978年。

ミヤーンは、巨人に移籍したジョン・シピンに代わる二塁手として期待された。

しかし、メジャー時代に痛めた右肩の影響で本領を発揮できず、

守備面でも不安を残すシーズンとなった。

打率.287、本塁打2本という、消化不良の数字で1年目を終えた。

1979年:36歳、球団史上初の首位打者

真価を発揮したのは、来日2年目の1979年だった。 

右膝の負傷による欠場はありましたが、回復した右肩とともに打棒が発揮した。

  • 打率.346をマーク。

  • 大洋ホエールズ球団史上初となる首位打者を獲得。

  • ベストナイン(二塁手部門)選出。

この36歳での首位打者獲得は、

当時の川上哲治や長嶋茂雄が持っていた最高齢記録を塗り替える快挙であり、

現在も日本プロ野球における首位打者獲得の最高齢記録として残る。

独特の打撃スタイル

ミヤーンの代名詞といえば、その独特なフォームだ。

  • バットを極端に短く持ち、地面と水平に寝かせて構える。

  • 最短距離でボールを捉え、広角に安打を量産する。

  • 三振が極めて少なく(1979年は289打数でわずか16三振)、
    相手投手にとっては非常に打ち取りにくい打者だった。
     

1980年、打率.288を残しながらも、
若返りやチーム事情により退団。
翌1981年にメキシカンリーグでプレーした後、現役を引退した。
 

オフシーズンにプエルトリコの
ウィンターリーグ「クリオージョス・デ・カグアス」の
選手兼任監督を務める多忙な日々を送っていた。

1979年の秋には、天候不順によるリーグ戦の遅延を心配し、
日本の部屋に「てるてる坊主」を吊るして祈っていたという、
真面目でチャーミングな一面も残されている。
 

本塁打は無かったが、

職人芸とも言えるバッティングで横浜のファンに愛された、

記憶に残る二塁手だった。

 

 

 

 

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吉田 義男

1933年7月26日~2025年2月3日

京都府京都市中京区出身

右投右打、遊撃手、二塁手。

 

 

阪神タイガースの歴史を語る上で、

背番号「23」を抜きにすることは出来ないでしょう。

「今牛若丸」と称えられた遊撃守備、

そして球団史上初の日本一へと導いた采配。

 

プロ野球史上最高の遊撃手として語られても

異存ないかもしれません。

 

1. 入団から不動のレギュラーへ:俊足巧打の若き遊撃手

京都府立山城高等学校、立命館大学を経て、

1953年に阪神タイガースへ入団。

小柄な体格から当初は不安視する声もあったが、

1年目からその才能を開花した。

  • 1953年(1年目):
    全130試合に出場。新人遊撃手として100安打を達成し、打率.267を記録。

  • 1954年: 51盗塁を記録し、自身初の盗塁王を獲得。
    20歳での獲得は、現在も日本プロ野球最年少記録だ。

  • 1956年: 50盗塁で2度目の盗塁王。

  • 打撃の特性: 通算264犠打(当時のプロ野球記録)が示す通り、
    極めて確実性の高い進塁打を放つ打者だった。
    また、三振が非常に少なく、1964年には179打席連続無三振という驚異的な記録を持つ。

吉田義男と豊田泰光

2. 守備の達人「今牛若丸」の実像

吉田氏の真骨頂は、その守備力にあった。

三塁・三宅秀史、二塁・鎌田実と形成した内野陣は「史上最強」と語り継がれている。

◎守備に関する主な実績と記録

ベストナイン   9回(遊撃手として)
最多守備機会  15回(リーグ最多、17年間の現役生活でほぼ毎年)
シーズン記録  94併殺(日本記録・当時)
1試合記録  15守備機会(日本記録・当時)

◎卓越した技術の背景

吉田氏の守備は「捕るが早いか投げるが早いか」と言われるほど素早い。

  • 指先の感覚:食事中もボールの縫い目を瞬時に探す練習を繰り返し、
          捕球から送球への動作を最短化した。

  • フットワーク: 「両足とグラブが正三角形の頂点を作る」という基本を徹底し、
           常に体の正面で捕球することを重視した。

  • ライバル広岡達朗: 巨人の広岡氏とは常に比較される存在だったが、
                         広岡氏自身が「吉田は『見せてなんぼ』の選手だった」と、
                                                          その華麗さを認めている。

3. 現役後半と引退

1960年代に入っても主力として活躍し、
1962年、1964年のリーグ優勝に大きく貢献。

  • 1962年: 日本シリーズで34打数16安打、
                        打率.471を記録し、敢闘賞を受賞。
     

  • 1964年: 生涯唯一の3割超えとなる打率.318を記録。
     

  • 1969年: コーチ兼任を経て、この年限りで現役引退。
                 通算安打は1864本。阪神一筋のキャリアを通した。

4. 三度にわたる監督時代

引退後、吉田氏は計3回、阪神タイガースの監督を務めた。

第1期(1975年 - 1977年)

  • 背番号1: ビリー・マーチンに倣い「1」を着用。

  • 強力打線: 田淵幸一、掛布雅之、ラインバック、
    ブリーデンらによる「193本塁打(1976年)」のチーム記録を樹立。

  • 江夏豊の放出: チーム改革のため、エース江夏をトレードで放出。

第2期(1985年 - 1987年

  • 1985年の日本一: ランディ・バース、掛布、岡田彰布の
    「クリーンアップ3連発」に象徴される猛打で、球団史上初の日本一を達成。
     

  • 緻密な采配:
     猛打の陰で、犠打数もリーグ記録を更新する 堅実な野球を併用した。
     

  • 1987年: 主力の不祥事や怪我が重なり、
                  球団ワーストの勝率.331で最下位。
                  この年、背番号「23」が永久欠番になった。
     

  • 1992年野球殿堂入り

第3期(1997年 - 1998年)

  • 育成と補強: 今岡誠、井川慶、坪井智哉らを起用し、
    トレードで矢野輝弘を獲得。後の2003年優勝メンバーの土台を築いた。

5. フランス野球への貢献と晩年

1989年から渡仏し、フランス代表監督を務めた。
野球未開の地で「チームプレー」や「犠牲バント」の精神を説き、

同国の野球レベル向上に尽力した。

  • フランス野球ソフトボール連盟名誉会員: 日本人として初めて選出。

  • 吉田チャレンジ: 自身の名を冠した国際大会がフランスで開催された。


    2025年 2月3日、脳梗塞のため91歳で亡くなった。

    同年4月の巨人戦は追悼試合として行われ、
    全選手が背番号「23」を着用した。

吉田義男氏は、選手として「守備の概念」を変え、
監督として「歓喜と苦悩」を経験し、

晩年は「野球の国際普及」に捧げた生涯だった。

 


金田正一投手と吉田義男

 

 

 

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山内 一弘(山内 和弘)

1932年5月1日~2009年2月2日

愛知県一宮市出身

右投右打、外野手
 

■無名から這い上がった若き日々

1932年、愛知県一宮市に生まれた。

小学校2年生の頃に野球と出会い、

起工業学校(現:一宮起工科高校)では当初投手として活躍。

当時から130m級の特大本塁打を放つなど、

その非凡な打撃センスは片鱗を見せていた。

しかし、プロへの道は決して平坦ではなかった。

 

憧れの中日ドラゴンズの入団テストを

1949年と1950年の二度にわたり受験するが、

投手としての評価は芳しくなく、不合格となった。

 

その後、恩師の紹介で社会人野球の川島紡績へ入社。

ここで監督の森弘太郎氏(元阪急)に打撃の才能を見出され、

外野手へ転向したことが、後の大打者誕生の契機となっていった。

■毎日・大毎オリオンズ:パ・リーグの顔へ

1951年、テスト生として毎日オリオンズに入団。

1年目から打率.336を記録して期待を集めると、

3年目の1954年には打点王を獲得し、リーグを代表する4番打者へと成長。

 

山内の代名詞となったのが「シュート打ち」だ。

内角球に対して肘を巧みに折り畳んで打つ技術は、

ライバルの中西太氏(西鉄)と並び称され、当時の右打者の双璧だった。 

1960年には、田宮、榎本、葛城らと共に形成した

ミサイル打線」の中核としてチームを優勝へ導き、MVPを受賞した。

 

■世紀の大トレードと阪神・広島時代

1963年オフ、阪神タイガースのエース、小山正明投手との

「世紀の大トレード」により阪神へ移籍。

阪神では1964年に全試合出場を果たし、リーグ優勝に大きく貢献した。

この時期、日本プロ野球(NPB)史上初の通算300本塁打、

史上2人目の2000安打を達成し、球史にその名を刻んだ。

 

1968年には広島東洋カープへ移籍。

ベテランとなった山内氏の野球に対するストイックな姿勢は、

若き日の山本浩二氏や衣笠祥雄氏に多大な影響を与え、

後の広島黄金時代の礎を築いた。

1970年、通算396本塁打という記録を残し、現役を引退した。

■「かっぱえびせん」と慕われた指導者として

引退後はロッテ、中日での監督歴に加え、

巨人や阪神、オリックスなどで打撃コーチを歴任。

一度教え始めると止まらない熱心な指導から

「かっぱえびせん」の異名を持ち、ど多くの名打者を育て上げた。

工業高校出身らしく、機械いじりのように納得するまで打撃理論を追求し、

当時まだ珍しかった打撃フォームの録画分析を導入するなど、

科学的なアプローチもしていった。

■記録と記憶に残るスーパープレーヤー

2002年に野球殿堂入りを果たし、
2007年には千葉ロッテの開幕戦で始球式に参加。
その後、2009年2月2日に76歳で惜しくも亡くなったが、

その洗練された打撃理論と技術は、現代の野球界にも脈々と受け継がれている。

戦後の日本プロ野球を力強く牽引した山内一弘。

その「打撃の探求者」としての生き様は、今なお色褪せることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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佐々木 恭介

1949年12月28日生まれ

兵庫県氷上郡(丹波市)出身

右投右打、内野手、外野手。

 

■社会人野球のスターから近鉄の1位指名へ

兵庫県立柏原高校から社会人野球の新日本製鐵広畑へ進んだ。

当初捕手としてプレーしていた。

1970年の都市対抗野球で頭角を現すと、

東映フライヤーズからのドラフト9位指名を拒否して残留。

翌1971年、一塁手に転向し、都市対抗野球でチームを優勝に導き、

橋戸賞(最優秀選手賞)を受賞した。

1971年のドラフトで近鉄バファローズから1位指名で入団。

■プロでの台頭と1978年の戴冠

入団当初は故障にも泣かされたが、1974年に1番打者に定着。

1975年には右翼手として初めて規定打席に到達し、

打率.305(リーグ4位)をマークしてベストナインに選出された。

 

そしてプロ入りから7年目、1978年にキャリアの頂点を迎える。

この年、376打数133安打 打率.354という高打率を記録し、

パ・リーグ首位打者のタイトルを獲得した。

巧みなバットコントロールを武器に、近鉄打線の核として不動の地位を築いた。

 

■「江夏の21球」と野球人生最大の後悔

1979年、チームはリーグ初優勝を果たしたが、

日本シリーズ(対広島東洋カープ)で佐々木は過酷な場面に直面する。

運命の第7戦、9回裏。いわゆる「江夏の21球」の場面で、

佐々木は代打として打席に立ちました。カウント1-1からの2球目、

ど真ん中のシュートを見逃してストライク。

その後、三振に倒れたこの打席を、佐々木は後にこう振り返っている。

 

「もしもう一度、やり直せるとするなら、

  迷うことなくあの場面に戻り、あの球を振る。なぜ振らなかったのか!

     今も夢に出ることがある。野球人生最大の後悔だね」

 

この悔しい気持ちは、翌1980年のリーグ連覇に向けた原動力となり、

同年も打率.318の好成績を残した。

■現役引退と指導者への道

1981年には「試合開始わずか4球での退場処分」という珍記録を残すなど、

闘志溢れるプレーを見せていましたが、

1982年に肝炎による内臓疾患を患い、32歳の若さで現役を引退。

 

引退後は近鉄のスカウトやコーチとして、

村上隆行、金村義明、中村紀洋といった後の主軸を育成。

1996年からは近鉄の監督に就任し、

ドラフト会議での福留孝介強行指名と、

抽選を引き当てた際の「ヨッシャー!」という絶叫は、語り草となっている。

 

現在は社会人野球の指導を経てアドバイザーを務めるなど、

球界に貢献している。

 

 

 

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髙橋 里志

1948年5月17日~2021年1月31日

福井県敦賀市出身

右投右打、投手。

 

■南海での挫折と「空白の1年」

福井県立敦賀工業高校から社会人・電電北陸を経て、

1967年のドラフト4位で南海ホークスへ入団。

将来のエース候補と期待されたが、

なかなか一軍に定着できず、野村監督との確執も表面化。

二軍戦での振る舞いを巡り、野村監督から

鉄拳制裁を受けたというエピソードは、

後年の野村克也の著書でも「数少ない暴力の記憶」としてある。

1972年に自由契約になり、翌1973年は故郷・敦賀へ戻った。

プロ野球から離れ、定職にも就かない「空白の1年」を過ごした。

■広島での再起と、1977年 最多勝投手

転機は1974年。南海時代のコーチだった古葉竹識氏に誘われ、

広島東洋カープに打撃投手として契約。

しかし、その球威が首脳陣の目に留まり、シーズン中に現役選手として復帰。

1976年には8勝を挙げ、先発ローテーションの一角に食い込んだ。

そして迎えた1977年、高橋氏は野球人生の絶頂期を迎える。 

抜群の制球力を武器に白星を重ね、20勝14敗をマーク。

巨人の小林繁ら並み居る好投手を抑え、最多勝利のタイトルを獲得した。

広島の黄金時代を支える大黒柱として、

かつての打撃投手が最多勝投手となったニュースは大きな話題となった。

翌1978年も10勝を記録し、ローテーション投手として確立した。

■「鏡割り事件」と江夏豊との因縁

高橋氏を語る上で欠かせないのが、その激しい気性です。

1979年、不調に喘いでいた、そこで試合途中の交代を命じられたことに激昂、

ベンチ裏の鏡を素手で叩き割るという暴挙に出る。

これが当時の古葉監督の逆鱗に触れ、後のトレードの一因になったと言われている。

また、同学年でありながら、抑えのエースとして君臨した

江夏豊氏とは強烈なライバル意識で知られていた。

1980年オフ、日本ハムファイターズへの移籍が決まり、

「これで江夏と離れられる」と喜んだ直後、江夏もトレードで日本ハムへ移籍。

再び同僚となった二人の関係を、

大沢啓二監督が「マウンドに二人同時に上がるわけじゃねぇ」と

一喝したエピソードがある。

■日本ハムでの最優秀防御率、そして引退

日本ハムでも、高橋氏はその実力を証明する。

1981年には中継ぎとしてリーグ優勝に貢献。

1982年には先発・救援を兼ねて8勝を挙げ、

最優秀防御率(2.39)のタイトルを獲得した。

 

 

その後、1985年に近鉄バファローズへ移籍し、1986年に現役を引退。

61勝61敗の5割の勝率だった。

 

引退後は、広島市内でスナック「メンバーズ高橋」を経営。

解説者としても活動し、歯に衣着せぬ語り口で親しまれた。

店にはかつての戦友やファンが集い、

グラウンドで見せた険しさを時折緩めながら、野球談義に花を咲かせていた。

 

2021年1月31日、肺がんのため72歳で亡くなった。

 打撃投手から這い上がり、20勝を挙げた実力。

そして、誰に媚びることなく己を貫いた野球人生だった。

 

 

 

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2026年度の野球殿堂入りが1月15日発表されました。

北海道日本ハムファイターズの監督として大谷翔平選手や

ダルビッシュ有投手を導き、2023年のWBCで

日本を世界一に押し上げた栗山英樹氏の選出。

これ自体は、野球界への多大な貢献を考えれば素晴らしいニュースです。

 

しかし、その一方で今年も浮き彫りになったのは

「プレーヤー表彰での該当者なし」というのが、どこか寒々しい感じがします。

 

■栗山英樹という「異能」の評価

メディアや評論家の多くは、栗山氏の選出を単なる勝敗だけでなく、

二刀流の育成やWBCでの「信じる力」による優勝など、

野球の可能性を広げた功績は、数字以上の価値があると評価いている。

しかし、祝賀ムードの一方で、

多くの野球ファンやメディアが抱いているのは

「なぜ彼一人なのか?」という強い違和感だ。

 

今回の選考で最も議論を呼んでいるのは、プレーヤー表彰で落選した主な候補者。

  • 川相昌弘氏
     世界記録のバントを武器に「守備と小技」で球史を支えた名手が、
    資格最終年にあと2票足りずに殿堂入りを逃した。
     

  • 松井稼頭央氏・上原浩治氏
    日米で圧倒的な実績を残したスターたちが、75%の壁に阻まれ続けている。

メディアからは「記録よりも印象を重視しすぎるのではないか」
「記者の好みが反映されすぎている」といった批判が噴出している。

■「選ぶ人がいない」は選考委員の敗北である

一部の選考委員による「該当者なし」という判断や、

白票に近い投票行動は、

「野球の歴史を後世に伝える」という

殿堂の本来の目的からすれば、怠慢なのではないだろうか。
 

殿堂入りとは単なる「ご褒美」ではなく、

「その時代の野球、野球人を公的に記録する作業」だと思う。

毎年、数千人のプロ野球選手がしのぎを削り、

その中から傑出した数字を残す者が必ず現れるはずなのに、

「誰も選ばない」というのは、その時代の野球を否定しているようだ。

 

「厳格な審査」と言えば仕事しているようだが、

実際には「自分の知っている選手に比べて……」といった主観的物差し、

投票権利の重みを理解していない無関心があるのでは?と
このような不信感が、野球雲読者からの声がいつもより多いのです。

■殿堂は「誰」のものか

米国のメジャーリーグ(MLB)では、

選考基準の透明化や、ベテランズ委員会による再評価など、

歴史を救い出す努力が常に行われている。

 

日本の「記者投票頼み」のシステムが限界ではないか?

野球を愛し、その歴史を尊ぶ人々が納得できるような、

多角的な選考基準への刷新が求められているのだ。

 

 

 

野球殿堂という素晴らしい制度の価値を

もっと大事にしてくれる、選考者を求める。

また、これまでに殿堂入りしていない、野球人たちに光を当てて欲しい。

 

そのためにも球団別の野球殿堂をプロ野球創設90年の今年は

次の10年(創設100年)までに作るべきではないでしょうか?

 

広尾晃氏のブログ~野球殿堂していない投手ランキング

 

 

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水谷 実雄

宮崎県串間市

1947年11月19日~2025年8月10日

右投右打、、一塁手、外野手

 

■闘病から始まったプロ生活

宮崎商では投手として 2年連続で夏の甲子園に出場。 

1964年には4強入りを果たし 1965年、

ドラフト4位で 広島カープへ入団。

しかし、1年目に腎臓病を患い 長期入院を余儀なくされる。 

復帰後は藤村隆男2軍監督の下、

 ボールを握らせてもらえない 徹底した基礎練習を積んだ。 

これが後の強靭な下半身と、 指導者としての原点となった。

■赤ヘル黄金時代の主軸へ

1967年に野手へ転向。 

当初は守備に苦戦したが、

 関根潤三コーチらの指導で 打撃が開花した。 

1971年に1番打者に定着し、 初のベストナインを受賞。

 

1975年の球団初優勝時には、

 優勝決定試合の 左翼手として出場し、ウイニングボールを捕球する。 

1978年には打率.348を記録し、 球団初、自身唯一の 首位打者に輝いた。 

山本浩二、衣笠祥雄らと共に 赤ヘル黄金時代を築き上げ、 

勝負強い5番打者として 君臨した。

■阪急への移籍と悲劇の死球

1982年オフ、加藤英司との 大型トレードで阪急へ移籍。 

指名打者として打撃に専念し、 

1983年は36本塁打、 114打点で打点王を獲得。

 巨漢ブーマーにあやかり、 「ミズマー」の愛称でファンを沸かした。

しかし1984年の開幕戦。 頭部に受けた死球が 彼の運命を暗転させた。 

左側頭部骨折、三半規管損傷。

 激しい後遺症に悩まされながらも 翌年まで現役を続行したが、

 1985年に惜しまれつつ ユニフォームを脱いだ。

 

■情熱の指導者として

引退後は広島、阪急、近鉄、 中日、

ダイエー、阪神の 計6球団でコーチを歴任。 

「妥協を許さない熱血指導」で

 前田智徳、江藤智、金本知憲、 中村紀洋といった 強打者を育て上げた。

晩年は西宮市で飲食店を営み、 評論家としても活動。 

2025年8月10日、 家族に看取られながら 77歳の生涯を閉じた。 

最後まで死球の不運を嘆かず、 野球を愛し抜いた人生だった。

 

主なタイトル・表彰

首位打者(1978年)、打点王(1983年)
ベストナイン(1971年)、日本シリーズ優秀選手賞(1979年)

1711試合、1522安打、244本塁打、807打点

通算打率 .285

 

 

 

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