野口正明

1925年3月7日~2004年3月24日

福岡県飯塚市出身

右投右打、一塁手、外野手、投手。

 

◎激動の戦前:28イニングの死闘と投手転向

野口正明は飯塚商業から1942年、名古屋軍に入団。当時は内野手だった。 

プロ入りの年に、今や伝説的な「プロ野球最長イニング・延長28回」で

1番・一塁手としてフル出場している。

 

翌1943年には投手に転向し、弱冠19歳で12勝をマーク。

晩年の沢村栄治から安打を放つなど、類まれな才能を見せた。

しかし、1944年の大会を最後に戦地へと赴くことになった。

◎生死の境を彷徨った戦時中とシベリア抑留

満州で憲兵として任務に就きますが、終戦を境に運命は一変。

過酷なシベリア抑留を余儀なくされた。 

 

極寒と栄養失調。生死の境を彷徨い、一度は倒れたが、

戦友の献身的な看護によって奇跡的に一命を取り留めた。

この「生かされた」経験が、後の彼の粘り強いマウンド捌きと、

礼儀に厳しい実直な人間性を形作ったのかもしれない。

◎放浪の時代と、伝説の「170m弾」の証人

1947年に復帰したものの、球界の政変(赤嶺旋風)に巻き込まれ、

名古屋、急映、大映とチームを渡り歩く流転の野球生活になる。 

大映時代の1949年、札幌で大下弘が放った伝説の特大本塁打。

野口氏は後に「170メートルは飛んでいた」と語り、

その驚異的な飛距離を裏付ける貴重な証言者となった。

◎ 黄金の西鉄時代:球団初の最多勝へ

1950年、新設された西鉄クリッパースへ移籍。

ここから全盛期が始まります。 

1952年には23勝を挙げ、球団史上初となるパ・リーグ最多勝のタイトルを獲得。

川崎徳次らと共に、後の黄金時代「西鉄ライオンズ」の礎を築く大黒柱として君臨した。

しかし、あまりに酷使したため、1954年に惜しまれつつ現役を引退。

◎ 後進の育成と、情に厚き晩年

引退後は病や貧困に苦しむ時期もあったが、

後輩・豊田泰光氏の尽力で炭鉱野球部の監督に就任。

その後は解説者として福岡の野球ファンに親しまれた。 

 

2004年3月24日、福岡市内の病院で死去。享年79歳。 

 

投手成績

打撃成績

 

 

 

 

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中島 治康

 

1909(明治42)年6月28日~1987(昭和62)年4月21日

長野県松本市出身

 

戦前最強打者のひとり

中島治康外野手をご紹介します。

 

旧制松本商業(現松商学園)ではエースで4番として

1928(昭和3)年第14回夏の甲子園大会で優勝。

長野県として現在も唯一の全国制覇。

 

早稲田大学へ進学。

1934(昭和9)年大日本東京野球倶楽部へ入団、そのまま巨人軍に参加した。

右翼の4番打者として活躍。巨人軍史上初の本塁打も打ち、

1937(昭和12)年春季には本塁打王(4本)、

秋季には37打点で打点王に輝いた。

 

中島の豪打伝説は

1938(昭和13)年のシーズンだ。

春季にシーズン最多安打(50本)を打ち、打率.345で首位打者を獲得、

その調子は秋季にもっと爆発した。

10月11日から11月5日までの11試合で5試合連続を含む8本塁打、

1試合4安打5回を含む28安打(打率.583)、20打点とすさまじい豪打で

打率.361、本塁打10、打点38で首位になり、

プロ野球史上初の三冠王に輝いた。

(それまでの18試合では打率.288、2本塁打だった)

しかし、三冠王という概念は当時には無く、

1965(昭和40)年野村克也の三冠王をめぐって

過去の記録を調査した際、中島が初代三冠王の名誉が認められた。
 

そして、巨人優勝に貢献、最高殊勲選手賞(MVP)にも選ばれた。

10本塁打は戦前最高本数として、

1940(昭和15)年鶴岡一人(南海)の記録と並ぶが、

鶴岡が92試合330打数だが、38試合155打数の記録で、

1937年春秋合計で11本塁打となる。

 

1940(昭和15)年に川上哲治に1打点差の67打点で打点王

1942(昭和17)年に2位と14点の差をつけてた60打点で4度目の打点王に輝いた。

1937年から1942年までのシーズン(春、秋含み)で、

8シーズン連続で打撃(打率)ベスト10に入った確実性も持った打者だった。

 

 

1944,1945年に召集。

 

無事、戦後を迎え

1946(昭和21)年、藤本英雄の後を受けて

兼任監督として、グレートリング(南海)とペナントを争ったが2位で終わり、

翌年も6月まで監督兼任だったが、成績不振で三原修と交代し、

徐々に外野手としてレギュラーからも外れだし、控えになった。

 

1950(昭和25)年セ・リーグ新球団「大洋ホエールズ」に移籍

1951(昭和26)年に選手兼任監督として活躍を期待されたが、

成績不振に監督を解任。現役に戻るが、その年に引退した。

「人として許しがたいことがあった」ということだが詳細は分からない。

 

その後、プロ野球とはかからわず、アマチュア野球の記者として活躍したが、

巨人のOB会長も務めた。

 

悪球打ちとも知られ、ワンバウンドのボールをホームランした話もあるが、

一応、中島本人は「そんなことあるかい」と否定はしているが、

それだけ、自身の打つ範囲が広かった証かもしれない。

 

班長というあだ名がついたように、球団内で選手を引っ張る

リーダーシップが現役時代からあった。

27歳でプロ入りしたため通算安打が889本であるが、

あと数年若ければ楽に1000本安打は行っただろう。

 

1963(昭和38)年 野球殿堂入り

1987(昭和62)年4月21日 死去

 

 

 

 

 

 

 

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長崎 慶一 (長崎啓二)

1950年5月13日生まれ

大阪市阿倍野区出身

左投左打、外野手

 

1982年セ・リーグ首位打者

 

 

長崎氏は1966年、大阪の強豪・北陽高校1年生にして「

6番・中堅手」として夏の甲子園に出場した。

1968年にはドラフト8位で阪神タイガースから指名を受けるが、

堅実な職業に就くことを望んだ母親の反対により入団を拒否。法政大学へと進学。

 

東京六大学リーグでは、1年秋から4季連続優勝を経験。

4年次には史上初となる2季連続首位打者を獲得するなど、

アマチュア球界屈指の強打者としてその名を響かせた。

1972年、ドラフト1位で大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)へ入団。

 

即戦力として期待された長崎を待っていたのは、プロの厚い壁だった。

一軍と二軍を往復する中、コーチ陣からの指導が食い違い、打撃に迷いが生じる。

転機となったのは、同年オフの猛練習からだ。

沖山光利コーチ、高木由一選手と共に、1日1000回の素振りを敢行。

あまりの過酷さに指がバットから離れなくなるほどだったが、

長崎の打撃論が出来上がる。

  • グリップの位置を顔から胸へと下げる。

  • 肩の力を抜き、内角球にも対応できる自然体の構え。

この改良と、徹底した「配球ノート」による分析が、

後に「和製ミッキー・マントル」と称されるシュアな打撃の礎となった。

 

長崎の最も象徴的なのは1982年の首位打者獲得だろう

この年、中日ドラゴンズの田尾安志と激しいタイトル争いを繰り広げた。

 

10月18日、大洋の最終戦。

対中日戦で中日が勝利すればリーグ優勝という大事な1戦。

大洋ベンチは長崎のタイトルを確実にするため、

田尾を5打席連続で敬遠するという策に出ます。

これには「敗退行為」との厳しい批判も巻き起こりましたが、

結果として長崎氏は打率.351を記録し、わずか1厘差で首位打者の座を射止めた。

 

周囲が騒然とする中、巨人軍の王貞治助監督(当時)が

「最後の大洋戦の前に(田尾が長崎を)抜いておくべきだった。

             長崎君はタイトルを誇っていい」と語り、

その技術と積み上げた数字を正当に評価したエピソードは有名だ。

 

 

1985年、交換トレードで少年時代に憧れた阪神タイガースへ移籍。

この年、阪神は21年ぶりのリーグ制覇を果たすが、

長崎もまた重要な場面で貢献した。

 

特に語り草となっているのが、西武ライオンズとの日本シリーズ第6戦。

1回表、長崎氏は高橋直樹投手から先制の満塁本塁打を放ち、

チームを球団史上初の日本一へと一気に加速させた。

大洋の看板打者から阪神の貴重なバイプレーヤーへ。

役割を変えながらも、その勝負強さは健在だった。

 



1987年に現役を引退した後は、解説者や阪神の打撃コーチを歴任。
さらには政治の世界(荒川区議会議員)や、

教員免許を取得して高校の教壇に立つなど、

野球人の枠に捉われない多彩な活動をしていった。

 

 

 

 

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アメリカからベースボールが渡来したのは明治5年(1872年)ごろ

現在の東大の前身のさらに前身開成学校で

はじめて行われたといわれています。

 

今では老若男女ベースボールというより当たり前のように

 

野 球

 

というと思われますが、

いつごろから「野球」という訳語が現れたのか?

 

それは中馬 庚(ちゅうまん かなえ)とい方が

1894年(明治27年)にベースボールの教則本を

執筆中にBall in the fieldというフレーズをもとに訳したものです。

 

 

もちろん、日本の野球殿堂入りしています。↓

 

 

 

 

その後時間はかかりましたが、

今では「野球」というのは当たり前のように使われています。

では、その前はどのような訳語を使っていたのでしょうか?

 

1885年(明治18年)3月に発売された

『西洋戸外遊戯法』には

 

 打球鬼ごっこ

 

と、なんとも微妙な訳名で登場しています。

それ以前にはベースを直訳して「塁球」というのもありました。

他にも「基球」「玉遊び」なども現れましたがすぐ消えたみたいです。

 

「打球鬼ごっこ」は確かにニュアンス的はわかるけど、

明治の硬派な時代に「可愛すぎる!」という理由で浸透はせず、

ベースボール略して地方では「ボール」と呼ばれていたそうです。

東海から関西にかけては「ベース」といっていました。

 

マクドナルドをマックというかマクドと言うかの違いみたいな物でしょうか?

 

その後、明治27年ごろの新聞には「庭球」という訳語での記事もあります。

ちなみにテニスを「基球」と呼んでいる。

また、当時のエリート学校「三高」(現京都大学の前身)では

三角形の底辺(BASE)からとって

「底球」と呼んでいたらしいが、全国的な広がりにはならなかったらしい。

そこで、「野球」なんですが、その訳語を命名したときのエピソードがあります。

これは、明治の名投手

 

青井鉞男  (あおい よきお)の回想です

 

 

 

 

それは明治27年の秋、

練習の鬼であった青井投手が一校宿舎の片隅で

得意の「千本振り」をやっていると中馬が息を弾ませやってきて

「青井!よい訳を見つけたぞ!! 

     -Ball In the Field-野球でどうだ!!!」

これはまさにイメージぴったり!とうことで回りにいた選手も賛成で

これで、ベースボールの訳語「野球」が決まった。と言うことを

青井投手が生前言っていた話しだそうです。

 

ということで『野球』と言うタイトルで教則本が発表され、

ファーストベースも1塁、セカンドベースも2塁・・と発表されました。

一方で、野球と言う言葉の名付け親は

俳人であり、近代文学に多大な影響を与え続けている

正岡子規がつけた!という説もありましたが、

今では否定されています。

 

正岡 子規 も野球殿堂入りしています。↓

 

 

 

 

とにかく、中馬 

「この訳語は俺の中でもストライクだ!絶対いける!」と思ったのでしょう。

無事出版され、今では野球以外の訳語を考えられない感じがします。
そして、ショートストップを「遊撃手」の名付け親とも言われている。

 

 

中馬 庚は鹿児島出身です。

1870年3月10日生まれ。

 

明治の野球振興に活躍し、

その後1906年(明治39年)故郷の鹿児島第二中学校の教頭に就任、

1909年(明治42年)新潟県糸魚川中学校校長に就任、

次いで新潟、大館、徳島の校長を歴任、

1917年(大正6年)教職を離れ、

1932年(昭和7年)3月21日に62歳で死去。

 

校長時代は生徒にかなり尊敬されていた人物で、

数多く逸話が残っているそうです。

しかし、世渡りはあまり上手でなく、鹿児島人が言うところの

「ぼっけもん」というキャラクターだったそうです。

 




 

 

参考文献:日本野球創世記 君島一郎著 ベースボールマガジン社刊

 

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開幕はプロ野球のお正月といわれています。
選手達は開幕戦のスタメンに名を連ねられるように
キャンプからコンディションを合わせていくと思われます。

その中で一番目立つのは『開幕投手』でしょう。
シーズン最初のスタートは投手の1球目から始まるのですから。

 

その中で野球雲的に見て気になる投手がいます。
大映スターズで5年連続開幕投手をしていた
林義一投手です。


林投手を紹介する前に、プロ野球の歴代開幕投手のなかで
5年連続以上勤めた投手を調べてみました。

 


山田久志の12年連続をトップに
鈴木啓示、村田兆冶、斉藤雅樹の8年連続と続きます。
メンバーを見ると名選手ばかりです。

 

表にはありませんが、巨人の菅野智之投手は

2014年-2016年3年連続で開幕投手を務めましたが、

2017年のワールドベースボールクラシックの疲れに考慮して

連続記録は途絶えましたが、2018.2019年と開幕投手を務め、

5回の開幕投手の栄冠を持っています。



野球雲でも健筆を振るっている
広尾晃さんのブログ「野球の記録で話したい」の中で
これまた野球雲でも連載していただいているたばともさんが
独自の観点で発表したデーター
「既になくなった球団の開幕投手」一覧に
林 義一投手を見てから気になったのです。

 




林義一投手は1920年2月1日徳島生まれ
徳島商業学校時代から活躍1935年には選抜甲子園大会に出場。
1937年にはエースとして春夏出場した。
明治大学、大王製紙を経て1949年に大映スターズに入団。

当時の大映スターズには戦前から大活躍した
名投手ヴィクトル・スタルヒンがいたが、
1950年からエースとして活躍、1951年の第一回オールスター戦に選出
第3戦にはMVPにも輝いた。
1952年にはパ・リーグは初のノーヒット・ノーランを達成。
四球ひとつの準完全試合の内容だった。

そして、1952年から1956年の5年間開幕投手の責をになった。
その成績は3勝2敗 34.1回 失点14  完投3 そのうち完封が1を記録。
開幕投手としては中々の成績と思える。

開幕投手を5年以上勤めた投手の中では
唯一の100勝未満、投手タイトルは獲得していない。

通算記録10年間
281試合、98勝98敗.500 1785回 528自責点 防御率2.66
失点は666、奪三振667。
1952年20完投、1953年26完投でリーグ1位を記録している。


とにかく安定感のある投手のようで、
シーズン防御率も初年度と最後の年を除き全て2点台だった。

引退後は指導者としてより開花し、ブランクはあったものの
球界には1983年までユニフォームを着ていた。

阪神のコーチ時代には個性的な江夏豊投手を
球界のエースにまで育て、西武のコーチ時代にも
工藤公康、森繁和等を育てた。

戦前は澤村栄治(巨人)、亀田忠(イーグルス)、野口明(セネターズ)の3人が
春秋の2シーズン製を含めて、4回連続開幕投手をしているのが最高なので、
林義一は戦前の開幕連続記録を破った投手ということになる。


18人の5年連続以上開幕投手の記録は2000年以降が8人いる。
平成時代のほうが開幕投手の価値が高まったのだろうか?
絶対的エースがと2番手投手の差が広がってしまったのか?
監督や球団の考え方なのか?
どちらにせよ、開幕投手の重みは変わらない。

 

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小野正一

福島県いわき市出身

1933年9月30日~2003年3月19日

左投左打

 

 

1960(昭和35)年、大毎オリオンズ優勝時のエース

小野正一投手投手は

高校卒業後

社会人野球の常磐炭鉱に入社。

 

長身で筋肉質で左腕の小野正一は、見かけの良さで

投手として見出されたが、その見かけより

運動神経はそんなに良くなかったらしい。

俊敏というより、力仕事が得意そうな感じだったそうだ。

 

入社早々は、あまり肩も強くなく、

投手より長身を生かした一塁手として野球をしたが、

プロで通用する選手とは思われなかったらしい。

 

そこで、連日100メートルの遠投を続け、

センターからホームまで、3バウンドで届く肩から、

3年目にはホームからセンターバックスクリーンまで

120メートルまでの強肩になった。

 

そこで、当時、常磐炭鉱の監督だった

戦前、早稲田大学野球部のエースで、

後に巨人の投手コーチになった谷口五郎が

試しに投手をやらせたところ、オリオンズにスカウトされた。


 

1956(昭和31)年の1年目は4勝だったが、

2年目の1957(昭和32)年には26勝9敗で

当時のエース、荒巻淳を超える活躍で

オリオンズの大黒柱になった。

 

そして、小野正一のハイライトは

大毎オリオンズになった3年目の

1960(昭和35)年のシーズンだ。

 

小野正一投手 1960年全登板

 

この年の小野正一は

68試合登板、33勝11敗9セーブ1ホールドを記録。

33勝のうち21勝はリリーフで上げた勝星。

特に6月は負けなしの10勝4セーブと圧巻だ!

 

小野正一なしでは大毎オリオンズの優勝はなかったかもしれない。

 

(左から小野投手、榎本喜八、山内一弘)
 

その後、緩やかな衰えっていき、

1965(昭和40)年に大洋ホエールズ、

1963(昭和43)年に中日ドラゴンズに移籍したが、

現役晩年には黒い霧事件の噂に巻き込まれ、

嫌気がさして現役引退したと言われている。

 

小野正一投手も

プロ野球の歴史の中で

もっと評価されて良い野球人のひとりです。

 

2003年3月19日死去。

 

小野正一 通算投手成績

 

 

驚愕!30勝投手列伝!~前説~30人の全リスト

球団別最後の30勝投手はだれ!!

 

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全登板表の読み方・・・左から

・シズ登・・・シーズンでの登板目
・通算登・・・初登板からの登板目
・チム試・・・シーズンでのチーム試合目
・登間・・・・登板日から次の登板日までの間日数(中○日の表現)
  連投は登板日の次の日が登板日
  D連はダブルヘッダーにおいて第一、第二試合での連投
・月日・・・・登板した月日
・相手・・・・対戦したチーム
・ダブル・・・複数試合の順番
  ①、②は第一・第二試合、表裏・チームとも両方全く同じ試合。
  △1、△2は、第一・第二試合、表裏が違ったり、チームが違ったりと変則的な試合。
・球場・・・・登板した球場
・対戦先投・・先発時の相手チーム先発投手
・登結果・・・左側の”先”は先発登板、数字は○番手での登板
       右側の”完”は完投、”降”は途中降板、”封”は完投して失点なく0点に      

      抑えた試合(0点完投引分けでも使用)、”了”はリリーフして、試合最後まで投げた登板
・勝敗・・・・○は勝ち投手、●は敗戦投手、Sはセーブ(セーブが未規定年の場合は、

       独自に印付け、Hはホールド(ホールドが未規定年の場合は、独自に印付け)       

       背景がベージュはチームが勝利、深緑はチームが敗戦
・回・・・・・投球イニング数、背景が黄色はQS(クオリティスタート、回が6以上かつ       

      自責点が3以下の場合に色付け)桃色はHQS(ハイクオリティスタート、       

      回が7以上かつ自責点が2以下の場合に色付け)
・投数・・・・試合での投球数
・打者・・・・試合での対戦打者数
・被安・・・・試合での被安打数
・奪三・・・・試合での奪三振数
・四死・・・・試合での四球数と死球数を合わせた数
・失点・・・・試合での失点
・自責点・・・試合での自責点
・被本選手・・試合で本塁打を打たれた選手、複数の場合選手名の右に数字

 

1946年から1948年の3年間存在した

金星スターズ(ゴールドスター)の主な打撃成績を
通算3年間とシーズン記録をベスト10でご紹介します。
(記録提供:篠浦孝氏)

 
通算出場 通算安打 シーズン安打
346 坪内道典 391 坪内道典 143 坪内道典 (1948)
326 酒沢政夫 288 西沢道夫 132 西沢道夫 (1948)
282 西沢道夫 254 酒沢政夫 125 玉腰忠義 (1948)
279 清原初男 252 清原初男 124 坪内道典 (1946)
277 大友一明 185 大友一明 124 坪内道典 (1947)
218 辻功 168 玉腰忠義 122 清原初男 (1948)
164 玉腰忠義 110 辻功 121 西沢道夫 (1947)
160 内藤幸三 108 小前博文 101 清原初男 (1947)
155 坂本勲 102 内藤幸三 100 小前博文 (1947)
139 小前博文 95 武智修 95 武智修 (1948)
 
通算強打率(500打数以上) シーズン強打率
強打率 打者 打数 塁打 強打率 打者 年度 打数 塁打
.389 玉腰忠義 601 234 .433 坪内道典 (1946) 393 170
.385 西沢道夫 1100 423 .409 西沢道夫 (1948) 508 208
.381 坪内道典 1355 516 .392 玉腰忠義 (1948) 446 175
.305 清原初男 1036 316 .374 坪内道典 (1948) 505 189
.279 大友一明 856 239 .370 西沢道夫 (1947) 457 169
.246 酒沢政夫 1214 299 .344 坪内道典 (1947) 457 157
.181 辻功 684 124 .316 清原初男 (1948) 507 160
        .306 小前博文 (1947) 448 137
        .287 武智修 (1948) 443 127
        .286 大友一明 (1947) 406 116
 
通算打率(500打数以上)      シーズン打率
打率 打者 打数 安打 打率  打者 年度 打数 安打
.289 坪内道典 1355 391  .316 坪内道典 (1946) 393 124
.280 玉腰忠義 601 168 .283 坪内道典 (1948) 505 143
.262 西沢道夫 1100 288 .280 玉腰忠義 (1948) 446 125
.243 清原初男 1036 252 .271 坪内道典 (1947) 457 124
.216 大友一明 856 185 .265 西沢道夫 (1947) 457 121
.209 酒沢政夫 1214 254 .260 西沢道夫 (1948) 508 132
.161 辻功 684 110 .241 清原初男 (1948) 507 122
        .232 清原初男 (1947) 436 101
        .223 小前博文 (1947) 448 100
        .219 大友一明 (1946) 356 78
 
通算本塁打 シーズン本塁打
25 西沢道夫 16 西沢道夫 (1948)
9 玉腰忠義 8 西沢道夫 (1947)
5 坪内道典 7 玉腰忠義 (1948)
5 大友一明 4 大友一明 (1947)
4 清原初男 3 菊矢吉男 (1946)
3 菊矢吉男 3 門前真佐人 (1948)
3 門前真佐人 2 多数  
2 多数      
         
         
通算打点 シーズン打点
133 西沢道夫 60 西沢道夫 (1948)
129 坪内道典 57 西沢道夫 (1947)
94 清原初男 55 玉腰忠義 (1948)
67 玉腰忠義 47 清原初男 (1948)
60 酒沢政夫 45 坪内道典 (1946)
48 大友一明 43 坪内道典 (1947)
43 辻功 41 坪内道典 (1948)
35 内藤幸三 35 伊勢川真澄 (1948)
35 伊勢川真澄 34 清原初男 (1947)
32 下社邦男 32 下社邦男 (1948)

傍流球団ですが打者の名前を見ると
西沢道夫、坪内道則の殿堂入り打者は目立っていますが、
渋い選手名が見えます。
じっくり選手の記録を楽しんでみてください!
 

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引く続き、 消えたゴールドスター(金星)の

1946年投手成績を確認しましょう。

 

 

 

1946年のゴールドスターは7人がマウンドに上がっているが

チーム勝敗が決まった試合の99%(1敗を除く)が

上記の4人で回した。

 

 

その中でエースは、内藤幸三投手だ。

◎内藤幸三

 

戦前から戦後を生き抜いた左腕。

高校卒業後は軟式野球クラブ「東京リーガル倶楽部」でプレー。

1936(昭和11)年に名古屋金鯱に入団。

ドロップとコントロールが良いという前評判だった。

 

その後、2年間の兵役を経たあと、2シーズンプレーし、

1941(昭和16)年に朝日軍に移籍。4年間で24勝を挙げた。

特筆すべきは1944(昭和19)年で、シーズン35試合のうち、

29試合に登板。チーム総守備イニング309回のうち222回1/3を投げ抜いた。

 

この年は57試合登板、416回を投げ19勝25敗の成績で

一番チーム力がないようなチームを引っ張った。

 

◎石田 光彦投手

内藤投手と同じ東京リーガル倶楽部で活躍。

年齢も同学年だ。1936年阪急軍に入団。

変則投球で、巨人の千葉茂から「チャップリン投法」と言われ

いかに打者を打ち取るかをスマートさはないが

必死に投球術を考えた選手だった。

2度のノーヒット・ノーランを記録。

1946年ゴールドスター開幕投手でもある。

しかし、この年で球界を去ったが、1948年の都市対抗野球に

北関東代表(前橋市山藤クラブ)の投手として出場した。

 

◎江田 孝投手

旧制伊丹中学校から、1941(昭和16)年阪急に入団。

1943(昭和18)年応召され、1946(昭和21)年ゴールドスターに入団し、

9勝16敗と準エースとして活躍した。

1948(昭和23)年大陽ロビンスに移籍し、

1950(昭和25)年は23勝8敗、防御率2.83とキャリアハイの活躍をし、

優勝に大きく貢献した。

 

◎清原初男投手

戦後、ゴールドスターに入団し、プロ野球の世界に入る。

投手としてはこの年だけで、翌年からは三塁を中心に

内野手としてレギュラーになり、1949年に東急フライヤーズに移籍。

極端に三振が少ない打者で、通算三振が85と四死球が207の半分以下だ。

 

 

 

シーズン105試合を4人で回す、

戦後の人材不足と完投が当たり前の時代の記録を見ると

戦争が終わり、野球を欲する気持ちがかなり強いようにも思える。

 

 

 

 

 

 

 

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終戦から80年、1946年のシーズンから

消滅球団 ゴールドスターの初年度

1946年の打順(打撃成績)と投手陣の成績をご紹介します。

 

1946年打順(打撃成績)
守備 打者 試合 打数 安打 本塁打 打点 打率
(三) 中村 信一 62 200 41 0 15 .205
(遊) 酒沢 政夫 103 397 85 1 18 .214
(中) 坪内 道則 103 393 124 1 45 .316
(一) 菊矢 吉男 53 190 37 3 21 .195
(右) 末崎 隆行 64 207 58 1 14 .280
(二) 大友 一明 102 356 78 1 19 .219
(捕) 辻  功 99 338 56 0 22 .166
(左) 坂本 勲 96 291 72 0 14 .247


1番サード 中村は1936年セネターズ入団。当初は遊撃手として

二塁手の苅田久徳、三塁手高橋輝彦と百万ドルの内野陣と言われた名手
1940年から三塁を守るようになった。
 
2番ショート酒沢は1938年ライオン軍に入団、1年で退団後、
1942年朝日軍でプロに復帰。
手堅い守備と三振をしない打撃で活躍。1951年は153打席無三振。
その年はたった6個で打撃の神様川上哲治と今もシーズン最少記録を残した。

3番センター坪内は1936年大東京でプロ入り、ライオン軍、朝日軍と
戦前は長く活躍したが、戦後にゴールドスターでプロ復帰。
同時に監督も兼任した。
日本初の1000本安打、名人としても連盟から表彰され、
中日ドラゴンズにも長く関わった。
(朝日軍時代の坪内)
 
4番ファースト菊矢は1936年大阪タイガースに投手として入団。
1937年大東京に移籍。戦前は投手としてライオン軍、朝日軍を支えた。
戦後、ゴールドスターに野手として入団し、1946年の1年限りで引退した。
(朝日軍時代の菊矢)
 
5番ライト末崎は1940年に南海に入団したが、1年で退団。
1946年ゴールドスターに入団したが、やはり1年で退団。
消息はあまりわかっていない。
 
6番セカンド大友は甲子園にエースとして出場後、
1936年大東京に入団(朝日軍でも活躍)。プロ野球史上初の盗塁を決めた選手として
記録に残っているが、投手も兼任していたが内野手としての出場が多く、
戦後、ゴールドスター入団時は内野手ですべて出場。
 

(左 酒井-右 大友 )
 
7番キャッチャー辻は戦後すぐに名門海草中学から
ゴールドスターに入団。すぐにレギュラーとなったが、
1948年に成績が下降、その年に退団した。
 
8番レフト坂本は戦後立命館大学からゴールドスターに入団。
1947年で退団した。
 
戦争が終わって1年も経過せずに
4月27日にプロ野球が復活。
戦場からまだ戻らない選手が多く、
スター選手や戦前の選手が戻ってきたら
戦後からプロ野球に参加した選手たちが
実力が追い付かず退団する場合があったと聞く。
 
そして、1946年シーズン中盤から
中部日本(現中日ドラゴンズ)に在籍していた
西沢道夫選手が中日杉浦清監督なってから
チームが分裂していることにモチベーションが上がらず
坪内から誘われ移籍してきた。
 
1946年投手陣の紹介も予定しています。
 
 
 
 
松竹ロビンス特集の野球雲⑩

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今回は今から86年前、

1940(昭和15)年の職業野球の概要と開幕戦を紹介します。

 

この頃の日本は戦時色が濃くなり、

生活物資の配給性、ぜいたく禁止令などが発令。

また、外国語の日本語化などが内務省から指示され、

秋に球団の名称も日本語化してタイガースは阪神。

イーグルスは黒鷲、セネタースは翼と改めます。

最後まで日本語化に抵抗していたライオンは

1941(昭和16)年1月に朝日に改称した。

 

そして、ヴィクトル・スタルヒン投手は須田博に変えさせられた。

引き分け試合の廃止は秋のシーズンから実行されました。

 

この年、日本野球連盟に大きな変化がわかります。

プロ野球としての人気が上がり、観客動員も増えて、

初の満州の遠征(公式戦)を行いました。

 

ペナントレースは春、夏、秋の3シーズンに分け、

春秋は各球団4回戦、夏は内地で3回戦、満州で2回戦と

合計13回戦、469試合の開催を決めた。

 

この年も9球団のため、

3月15日の開幕日は3試合で

巨人、阪急、イーグルス、南海、ライオン、名古屋の6球団の開幕

3月16日も3試合で

阪神、セネタース、金鯱が開幕を迎えた。

 

3月15日開幕戦

 

  勝:清水 秀雄  敗:亀田 忠

 清水は新人で270奪三振、1.75の防御率でエース並みの活躍。打撃も規定打席に入る

  二刀流の活躍をした。亀田は豪速球で三振か四球かという豪快な投球でこの年26勝23敗
 456回も投げた日系二世の投手。
 

勝:村松 幸雄   敗:福士 勇
  2年目の村松はこの年21勝をあげ、名古屋軍のエースとなったが、1944年7月24歳で戦死。
 福士は捕手から投手に転向した投手でこの年は7勝21敗した。1943年戦死。

 

勝::重松 道雄  敗:スタルヒン

 この年38勝したスタルヒンが開幕戦を落とした。阪急の重松は開幕戦を勝利したが

 シーズン4勝3敗と不調な年となった。
 

3月16日開幕戦

勝:西沢 道夫  敗:金子 裕

 西沢は戦後大打者として活躍するが、戦前は投手として活躍、この年20勝する

 (唯一の二けた勝利)、金子はこの年から急激に調子を落とし開幕戦は投げたが

 2勝で終わった。
 

勝:劉 瀬章   敗:中山 正嘉

 劉はプロ野球史上初の中国人選手であり、現在も唯一の一軍出場した選手だ。

 中山は前年25勝したが、この年は29敗をした。

 これは今も破らえていないシーズン最多敗戦だ。
 

勝:木下 勇   敗:中河 美芳

 木下はアンダースロー投手でこの年キャリアハイの17勝をあげた。

中河は一塁手としてタコ足と言われる美味い守備を見せたことで有名だが、

投手としても活躍しこの年は投手で規定投球回数、

打者として規定打席に達した二刀流だった。

 

中河も1944年戦死した。

 

この年は投高打低の年だったが、

それはボールの質が落ちたことも関わっていた。

満州リーグでは、ボールの質の悪さに選手、ファンからも苦情が出たようだ。

 

 

右:亀田投手とハリス捕手

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