土橋正幸投手

1935年12月5日~2013年8月24日

東京都台東区出身

右投右打。

 

浅草の鮮魚店に生まれた土橋は、疎開先の幕張から戻って、野球に出会う。

その後、家業を手伝いながら、浅草のストリップ劇場の草野球チーム

「フランス座」に所属、そこから友人と冷やかしで

1954(昭和29)年東映フライヤーズのテストを受けたところ

友人は落ちたが、土橋は見事合格。1955(昭和30)年入団。

 

軟式ボールの草野球からプロ野球選手になった、まるでコミックの物語だが、

最初の2年間はファームでひたすら投げ込んだ。

そして、3年目に頭角を現し、4年目の1958(昭和33)年に

21勝16敗でエースの活躍。

その後、7年連続10勝以上、20勝以上を5回記録した。

 

BBM2006カードから

 

そして、1961(昭和36)年に30勝16敗 63試合 25完投9完封10無四球試合

393回を投げ、防御率1.90を記録した。

 

1961(昭和36)年 土橋正幸投手 全登板

特に8月9月の2か月間は

22試合登板、15勝3敗3セーブの素晴らしい成績で、

球団創設以来最高の2位となり、エースの貫録を見せた。

翌年の初優勝への期待を思わせるものとなった。

 

しかし、30勝投手になっても

最多勝投手にはなれなかった。

それは、西鉄ライオンズの鉄腕 稲尾和久が42勝という日本記録の

神がかった成績を残しからだ。

土橋は生涯、投手タイトルには無縁だった。

 

しかし、翌年の日本シリーズでは大いに活躍しMVPに選ばれた。

(種茂捕手と史上唯一の2人受賞)

 

無四球試合も多いのはファームの時期にひたすら投げ込んでコントロールをつけた。

「目をつむって、アウトローでもインローでも投げることができた」と後年語っている。

 

最初の4年間は月給5000円で、生活が苦しく

実家から毎月10,000円の仕送りをもらっていたというエピソードを持つ

庶民派投手でもある。(今では考えられない薄給だった)

 

 

 

 

表の読み方・・・左から

・シズ登・・・シーズンでの登板目
・通算登・・・初登板からの登板目
・チム試・・・シーズンでのチーム試合目
・登間・・・・登板日から次の登板日までの間日数(中○日の表現)
  連投は登板日の次の日が登板日
  D連はダブルヘッダーにおいて第一、第二試合での連投
・月日・・・・登板した月日
・相手・・・・対戦したチーム
・ダブル・・・複数試合の順番
  ①、②は第一・第二試合、表裏・チームとも両方全く同じ試合。
  △1、△2は、第一・第二試合、表裏が違ったり、チームが違ったりと変則的な試合。
・球場・・・・登板した球場
・対戦先投・・先発時の相手チーム先発投手
・登結果・・・左側の”先”は先発登板、数字は○番手での登板
       右側の”完”は完投、”降”は途中降板、”封”は完投して失点なく0点に      

      抑えた試合(0点完投引分けでも使用)、”了”はリリーフして、試合最後まで投げた登板
・勝敗・・・・○は勝ち投手、●は敗戦投手、Sはセーブ(セーブが未規定年の場合は、

       独自に印付け、Hはホールド(ホールドが未規定年の場合は、独自に印付け)       

       背景がベージュはチームが勝利、深緑はチームが敗戦
・回・・・・・投球イニング数、背景が黄色はQS(クオリティスタート、回が6以上かつ       

      自責点が3以下の場合に色付け)桃色はHQS(ハイクオリティスタート、       

      回が7以上かつ自責点が2以下の場合に色付け)
・投数・・・・試合での投球数
・打者・・・・試合での対戦打者数
・被安・・・・試合での被安打数
・奪三・・・・試合での奪三振数
・四死・・・・試合での四球数と死球数を合わせた数
・失点・・・・試合での失点
・自責点・・・試合での自責点
・被本選手・・試合で本塁打を打たれた選手、複数の場合選手名の右に数字

 

野球を始めた土橋少年

 

土橋正幸 通算投手成績

 

 

 

 

 

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宇佐美徹也

1933年1月29日~2009年5月17日

栃木県佐野市出身

スポーツライター

 

 

自作の野球ゲームを作って、野球の記録へ深くなっていった。

一度は一般企業に就職するが、野球の記録への思いは断ち切れず、

パ・リーグ記録部長だった、山内以九士を訪ね、1956年弟子入りし、

パ・リーグ記録部の集計係として採用され、記録の世界へ入っていった。

 

山内に厳しく指導され、

当時、8球団あったパ・リーグの記録集計をしていった。

当時はコンピュータなど無かったので、

そろばんや手回しの計算機を使って、打撃、投手、守備の記録を

夜中になるまで計算、集計した。

 

山内の教えを守り、記録には誠実に向き合っていった。

 

1963年パ・リーグ記録部を退職、

1964年報知新聞社に入社、記者として記録に向かった。

 

記録を元に、数字の面白さででなく

記録から選手や球団の個性や面白さを記事とし、

徐々に野球記録の面白さを、野球ファンに伝えていった。

 

野球雲ベテランスタッフは小学生の頃、

野球に興味が出てきて、書店に野球の本を探しに行ったとき、

たまたま、野球入門書や打撃入門などの児童書が売り切れていて、

手に取った野球本が「野球記録入門」で、

そこから野球の記録に興味を持ち、記録マニアになった。

そして、もっと知りたいと思った中学生時代に

「プロ野球全記録」(実業之日本社発行)に出会った。

 

宇佐美徹也はその後、様々な発表、

特に講談社から発行した「プロ野球記録大鑑」は記録本の集大成言えるものだった。

「プロ野球記録大鑑」は2004年まで毎年発行され、

見かけは子供向けの書籍だったが、中身は濃い記録マニアも唸らせる内容で

今も、野球記録マニアにとってはバイブル的存在だ。

 

 

もし、宇佐美徹也氏が居なかったら、

プロ野球記録の世界がおもしろく、

数字にも物語があるとは思わなかったかもしれない。

 

報知新聞社を定年まで勤めた後は

日本野球機構コミッショナー事務局で

BISデータ本部室長として、

過去のプロ野球記録をデータ化するシステム作りに貢献した。

 

2009年76歳で死去。

 

 

野球殿堂入りして欲しいが、

候補に挙がるものの、未だ殿堂入りしていないのは残念だ。

 

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野球雲ストアでは発売中の

別冊野球雲⑤ 

「 新人王列伝 ~日本プロ野球1950-1959/新人王で辿る日本プロ野球史」

 

 

2025年11月に発刊となりましたが、

野球雲ブログではお知らせするのを忘れておりました。

 

気軽に野球史を楽しむような、野球雲創刊の頃の気持ちで

別冊野球雲を製作をし、おかげさまで①②③は完売

④「千葉の野球史」も残りわずかとなってきています。

 

昨今の「本が売れない」「書店が減っている」などの問題が

ここ数年話題になっています。

野球雲も他人事ではありません。

 

元々、書店経営者が始めた野球雲は

小さな版元であるため、資金繰りも良いとは言えません。

しかし、野球史や野球文化を気軽に楽しみ、

忘れられそうな、野球の話を記録、拡げるためには

紙媒体は必要だと感じています。

 

しかし、平成時代のような活動では

どうしても維持するのが大変なことも事実です。

そのために、野球雲チャンネルも創設し、

デジタルも合わせて、二刀流でこれからも運営していく予定です。

 

というわけで、

気軽に野球史探訪する同人誌的野球雲第5弾は

NPB新人王受賞制度が始まった、最初の20人を紹介した

別冊野球雲⑤ 「 新人王列伝 ~日本プロ野球1950-1959/新人王で辿る日本プロ野球史」です。

 

送料込みで700円でございます。

 

↓のWEBサイトから御購入できます。

 

 

名前を見ると、伝説となった野球人、そして、1年で燃え尽きた選手など

活躍した年だけ(一部数年)だから、景色がそれぞれで興味深いのです。

 

 

今後も別冊野球雲を続けていきますのでよろしくお願いいたします。

 

野球雲、汀書房の書籍販売サイトです。

 

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ニューヨーク・ヤンキースは1939年にルー・ゲーリッグが引退し、

それまで4連覇していた(1936-1939)ものの

ついに1940年にア・リーグ優勝を逃し、

1941年のシーズンも、5割丁度の勝敗で、黄金時代は終わったのか?と

思わせるような低空飛行だった。

 

ゲーリッグのあと、ヤンキースの大砲として活躍していた

ジョー・ディマジオは6年目の1941年5月14日、

クリーブランド・インディアンズのメル・ハーダー投手に

抑えられ、3打数0安打だった。

 

しかし、翌日、1941年5月15日

シカゴホワイトソックスのサウスポーエドガー・スミス投手からヒットを打った。

その日は、その1本だけの4打数1安打だったが、
それが「56試合連続安打」の始まりだった。

 

 

5月16日から着実にヒットを積み重ね、

6月14日に25試合連続安打を打った頃から

ファンから注目され始めた。

 

ディマジオ自身も当時ナショナル・リーグの記録

33試合連続安打(ロジャース・ホンズビーの記録)を超え始めてから

意識しはしめたそうだ。

 

6月29日はジョージ・シスラーが持っていた42試合連続安打を更新、

7月2日にはウイリー・キーラーが1897年に作った44試合連続安打を更新し、

前人未到の記録を作ったが、ディマジオは止まらなかった。

50試合、51試合、52試合と連続安打は止まらなかった。

しかし、ファンは「いつ止まるのだろう?」という興味も増えてきた。

 

 

1941年7月16日クリーブランド・インディアンズ戦で3本のヒットを放ち、

56試合連続安打を達成した。

翌、7月17日はインディアンズのホーム球場には67,468人の観衆が集まり、

大観衆は次の1試合を見るためにディマジオの打席に注目した。

インディアンズの投手はアル・スミス投手

サウスポー、スミス投手は1回は四球で歩かせだが、2打席は見事討ち取り、

4打席目はジム・バクビー投手がディマジオと対決した。

 

8回表、それまで無安打だったディマジオは

1死満塁のチャンスに登場、観衆は「これが最後のチャンスかもしれない」」と

思いながら見守った。

1-1のカウントでディマジオは三遊間にゴロを打ったが、

名手ルー・ブードロー遊撃手が見事キャッチ、6-4-3と渡り

ダブルプレーを完成。

 

ここで、ジョー・ディマジオの長い旅が終わった。

連続安打の始まる前にインディアンズの投手陣に抑えられ、

終わらせたのもインディアンズの投手陣だった。

 

56試合連続安打は1941年5月16日から7月17日の77日間

223打数91安打56得点15本塁打55打点 打率.408 OPS 1.210を記録し

ヤンキースも41勝13敗2分 .759の勝率を残し、

ディマジオとともに上昇し続け、2年ぶりの優勝を飾った。

 

 

 

 

 

ジョー・ディマジオは結果シーズン打率.357を打ったが、
レッドソックスのテッド・ウイリアムズが打率.406という
神ががりな打率で首位打者は取れなかったが、
ディマジオは初の打点王(125打点)を獲得した。

この記録は未だ破られていなく、

 

ディマジオはこの試合を無安打で終わったが、

翌日から16試合連続安打を放った。

もし、この日1安打でも打っていたら73試合まで伸びていたかもしれない。

1951年に来日したディマジオ(左端)


ちなみに日本記録は
1979年広島東洋カープの高橋慶彦内野手の33試合連続安打

 

 

 

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毒島章一

1936年1月14日~2023年5月14日

群馬県桐生市出身

右投左打、外野手。


 

毒島章一の野球人生は群馬の名門・桐生高校から始まる。

1951年夏の甲子園には控え投手として出場。

しかし、その後、過酷な練習がたたり肘を痛めてしまう。

 

高校時代に左打ちへ転向し、打者としての才能を磨いていった。

1954年に東映フライヤーズへ入団。

開幕直後こそ三塁手だったが、すぐに外野のレギュラーを奪取。

5月には弱冠19歳で「4番」を任されるなど、

その非凡なセンスは入団当初から際立っていた。


毒島選手と言えば「三塁打」
シーズン三塁打王を4回記録し、チームでは足を生かして主に2番を打ち
盗塁は191個とそんなに多くはないが、
福本豊外野手に抜かれるまで通算三塁打106本で1位だった。
三塁打を100本以上打っているのは、
福本(115本・阪急)、毒島(106本)、金田正泰(103本・阪神)の
3人しかいない、大変な記録だ。

主要なタイトルは取っていないが、
チームに必要なプレーヤーとして、
苗字のインパクトに比べて温厚な性格で、
個性的なチームの中で主将を努めた。

毒島外野手と言えばあと少しで2000本安打だったのに・・・という
声がいまだ大きいことだ。通算安打数は1977本。
現役引退した野球人としては
元南海・国鉄の飯田徳治内野手の1978本に続く
2000本に近い打者ナンバー2の位置にいる。

 

当時の田宮謙次郎監督が

「2000本安打は達成したも同然だ」の一言で

毒島はバットを置いた。

当時は今より、記録に対する理解が足りなかったとはいえ、

複雑な気持ちにもなる。

三塁打も2位、2000本未達成本数2位、打順も2番と
「2」に縁のある選手だ。背番号33は18年間変わらず二桁で過ごした。

1970年代まではあまり記録にこだわる選手がいなかったかもしれないが、
もし、2000本安打を達成していたら、野球殿堂入りをしていたのではないかと
思われるような球歴なので、残念に思うのです。
勝手な言い分だが最後に「2」に恵まれなかったのが惜しい。

長嶋茂雄世代のなかでも、記録も記憶も残る選手なので
野球殿堂入りして欲しい選手の一人だ。

 

 

 

 

 

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権藤 博 投手

1938年12月2日佐賀県出身

 

 

権藤 博は

1961(昭和36)年社会人野球ブリジストンタイヤから

中日ドラゴンズに入団。当時の農人監督から絶大な信頼から

杉下茂投手から引き継いだ背番号20を背負い、

新人の年から、大エースとして中日ドラゴンズを背負った。

そして、終わってみれば69試合に登板。

35勝19敗の成績で最多勝、最優秀防御率、新人王、沢村賞

ベストナインを受賞した。

 

投球回数は429.1回を投げたが、これはセ・リーグの最高記録として

今も記録として残しているが、これからは永遠に破られない記録の一つだ。

その酷使ぶりに、「権藤、権藤、雨、権藤」と言われ、

今も、忙しすぎることや、過労死寸前に思われるような

働きすぎを伝える言葉として使われている。

 

下の表は1961年権藤博投手の軌跡だ。

凄まじいの一言だ。

 

1961(昭和36)年の全登板


 

 

1962(昭和37)年の全登板

シーズン 全登板表の読み方は一番下にあります

 

 

1962(昭和37)年も30勝17敗の成績で最多勝を獲得した。

デビューから2年連続30勝以上というのは、権藤博投手しか記録していない。

しかし、前年の酷使の影響で、防御率は1.70から2.33に落ちた。

しかし、それでも362.1回を投げ、61試合登板した。

翌年も45試合、220.2回を投げたが球威がだいぶ落ち、10勝12敗

4年目には6勝11敗と並以下の投手になり、彼の投手人生は終わった、

3年で75勝48敗 1012.1回を投げぬいた権藤投手は

100勝は届かなかったが、あまりにも大きな足跡を残した。

 

自分の酷使や当時の未熟なトレーニング方法を振り返り

「肩は消耗品」という思想で、その後のコーチ、監督としての実績も残した。

 

BBM2006カード

 

権藤博 通算投手成績

 

権藤博 通算打撃成績

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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シーズン 全登板表の読み方・・・左から

・シズ登・・・シーズンでの登板目
・通算登・・・初登板からの登板目
・チム試・・・シーズンでのチーム試合目
・登間・・・・登板日から次の登板日までの間日数(中○日の表現)
  連投は登板日の次の日が登板日
  D連はダブルヘッダーにおいて第一、第二試合での連投
・月日・・・・登板した月日
・相手・・・・対戦したチーム
・ダブル・・・複数試合の順番
  ①、②は第一・第二試合、表裏・チームとも両方全く同じ試合。
  △1、△2は、第一・第二試合、表裏が違ったり、チームが違ったりと変則的な試合。
・球場・・・・登板した球場
・対戦先投・・先発時の相手チーム先発投手
・登結果・・・左側の”先”は先発登板、数字は○番手での登板
       右側の”完”は完投、”降”は途中降板、”封”は完投して失点なく0点に      

      抑えた試合(0点完投引分けでも使用)、”了”はリリーフして、試合最後まで投げた登板
・勝敗・・・・○は勝ち投手、●は敗戦投手、Sはセーブ(セーブが未規定年の場合は、

       独自に印付け、Hはホールド(ホールドが未規定年の場合は、独自に印付け)       

       背景がベージュはチームが勝利、深緑はチームが敗戦
・回・・・・・投球イニング数、背景が黄色はQS(クオリティスタート、回が6以上かつ       

      自責点が3以下の場合に色付け)桃色はHQS(ハイクオリティスタート、       

      回が7以上かつ自責点が2以下の場合に色付け)
・投数・・・・試合での投球数
・打者・・・・試合での対戦打者数
・被安・・・・試合での被安打数
・奪三・・・・試合での奪三振数
・四死・・・・試合での四球数と死球数を合わせた数
・失点・・・・試合での失点
・自責点・・・試合での自責点
・被本選手・・試合で本塁打を打たれた選手、複数の場合選手名の右に数字

 

 

荒巻 淳

1926年2月16日~1971年5月12日

大分県生まれ、投手、左投げ左打ち

 

 

 

大分経専時代の1946年全国専門学校大会に出場エースとして大活躍をし

1試合23奪三振を記録するなど、九州地方で頭角を現した。

地元の社会人野球の名門「別府星野組」に入り、

1949年の都市対抗野球で見事優勝。

大会優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞した。

 

1950年創設のパリーグ「毎日オリオンズ」に西本幸雄と共に入団。

 

いきなり、エースとして大車輪の活躍をし、その年

48試合に登板、26勝8敗

274.2回 奪三振 150 防御率 2.06 で

最多勝、防御率1位そしてパリーグ初代新人王に輝いた。

 

酷使のため、51年 10勝8敗 2.42⑥ 、52年 7勝6敗 1.86(規定投球回未満)と

不調に終わりました。(といっても今のレベルから言えば良い成績ですが・・。)

しかし、53年から変化球に磨きをかけ復活、7年連続15勝以上の記録を残し

1961年のオフ阪急に移籍、翌年62年に引退しました。

 

荒巻はあまりにもすごい剛速球で

地面すれすれのボールを打者が見逃したところ

ホップしてストライクゾーンに入ったという伝説もあり、

大リーグ(あえてこの表現)の剛速球投手、266勝をした「ボブ・フェラー」が

『火の玉投手』といわれていたことから、『和製火の玉投手』として

今でも、『火の玉投手 荒巻 淳』として記憶に残る選手なのです。

 

毎日オリオンズに入団し背番号は退団するまで 「11」 を背負い

エースとして君臨しました。


別当薫と荒巻淳

 

荒巻投手の記録を見ると、生涯登板数508試合のうち

先発169 そのうち完投が85なのですが

交代完了が229と半分近くがリリーフとして

登板、最後まで投げきっています。

 

50年以上前のエースは

先発、リリーフの両刀遣いは当たり前ですが

どちらかというと、先発投手が3回から4回を投げ、

勝てそうな試合をリリーフとして登板、という

昔のエースのパターンのようです。

しかし、湯浅禎夫監督の投手起用のテクニックとして

荒巻投手をこのような使い方をしたことも考えられます。

(この辺は推理してみると面白いかもしれません)

 

13年で173勝107敗、

 

勝率 .618は歴代13位の記録で、

負けない投手なのがわかります。

 

細身の体からズバッと投げ込むというもので

眼鏡をかけたやさしい風貌とのアンバランスが人気を呼んだ。

 

1950年デビューのシーズンは打高投低の時代で投手受難の中

防御率は2.06 2位との差が0.34もあり、

(2点台投手が4人のみでリーグ全体の防御率は3.78)

勝率も26勝8敗 .765の安定度、速球投手ありがちの四死球も

274.2回を投げて55個の少なさにバランスの良さを感じさせます。

 

そして、初代パリーグ優勝、日本シリーズも4勝2敗で

 

松竹ロビンスを下し、見事日本一に輝き歴史に名を刻みました。
(しかし、日本シリーズでは0勝1敗)

引退後、ヤクルトのコーチとして現場復帰したものの

1971年5月12日、

病魔のため残念ながら44歳の若さでこの世を去りました。

 

人柄もよく、多くの人たちに好かれた名選手そして名コーチだった。

 

通算成績以上に当時のファンにインパクトを与えた選手として

1985年競技者表彰で殿堂入りしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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中西太 怪童と言われた強打者

(香川県出身、1933年4月11日~2023年5月11日)

右投右打、一塁手、三塁手。

 

 

 

左:中西内野手、右:梶本投手

 昭和32年6月号

 

中西太は高松一高時代から打撃の凄さは有名で、甲子園でも活躍した。

1952年早稲田進学を諦めて西鉄ライオンズに入団。

1年目から活躍し新人王を獲得。

 

2年目の1953(昭和28)年は史上最年少でトリプルスリーを記録。

10代で打撃は出来上がっていた。

成績は打率.3139(2位)、36本塁打(1位)、86打点1位)、36盗塁。

特に36本塁打は大映(30本)、近鉄(31本)のチーム本塁打より多く、

2位豊田(27本)とも9本の差をつけた。

(3位は岡本伊佐美の19本)

 

 

打撃タイトルの殆どを1年目から7年目までに獲得したが、

ハードな練習の末、腱鞘炎になり現役後半は代打を中心に過ごした。

しかし、持って生まれた才能と努力で打球の速さ、飛距離はとてつもなく、

中西の打球の凄さのエピソードは事欠かない。

 

ライナーと思ってジャンプして捕ろうとしたら、

スタンドに飛び込んだ話や

当時の大リーガーたちからも

「中西だけは大リーグ級」とその打球は評価された。

 

都合、9球団で指導者として多くの打者を育てた。

打撃理論と指導力には定評があり、

その中には若松勉、掛布雅之等がいる。

コーチ実績は山内一弘と双璧をなす。

しかし、監督としては優しい性格なのか大成はしなかった。

 

1950年代最強の打者のひとりだろう。

1999年野球殿堂入り。

 

余談ですが、元西武、千葉ロッテで活躍した

原井和也内野手が西武時代背番号30から

背番号変更を打診されたところ、

提示された背番号が6ということで

「本当に困った」と話されていました。

そのくらい、中西太の実績に対して、

当時の西武ライオンズの選手も

リスペクトされていたようです。

 

1950年代を代表する強打者のひとりですが、

ファールしたあとに、木の焦げるような匂いがした。とか

ショートライナーだと思って捕球しようと、

ジャンプしたらそのまま上に伸びて、スタンドに飛び込んだ!

数々の強打エピソード(伝説)がある中西太氏の

現役時代を4K画像で見たかったと強く思います!

 

  • 首位打者:2回(1955年、1958年)
  • 本塁打王:5回(1953年 、1954年、1955年、 1956年、1958年)
  • 打点王:3回(1953年、1956年 、1957年)

中西太 通算打撃成績

 

 

 

 

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杉田屋 守

明治41年(1908)4月15日~昭和47年(1972)5月11日

右投右打、外野手。

 

 

明治41年4月15日、アメリカハワイ州カウアイ島に生まれる。

7歳の時、一家はホノルルに移り、その頃にハワイに遠征していた

日本の野球チームの試合を見て感動した杉田屋は、自分でも野球を始める。

 

日本で野球をすることを夢見、また彼の将来を慮った姉の勧めもあって、

大正8年(1919)、英語学校4年11歳の時に単身日本に渡った。

山口県岩国市に住むおばの養子となり、

当時の尋常小学校4年に入学。

5年になってからは投手として活躍する。

 

大正12年(1923)岩国中学入学後は、

すぐにレギュラーとなり地方大会に出場したが、

大正13年、開校間もない柳井中学に転校し、

その年の甲子園優勝校の広島商業との地方大会での対戦で、

ピンチヒッターとして登場して同点本塁打を放ち、

14回延長で敗れたものの善戦する。

 

大正14年(1925)夏、強豪広島の広陵中を山陽大会で破って甲子園に初出場。

15年(1926)春・夏の甲子園大会にも出場し、三塁手・4番打者として活躍した。

 

昭和2年(1927)、早稲田大学予科に入学。

早慶黄金時代に「早稲田精神の権化」といわれ、

バットを短く持って打つ「短打法」や、

外野への飛球を飛びこんで捕る「ダイビングキャッチ」を編み出し、

スター選手の一人に名を連ねた。

 

 

昭和8年(1933)早大商学部を卒業し、台湾鉄道局、門司鉄道局を経て、

広島鉄道局に勤務し、初代野球部監督として活躍する。

 

昭和9年(1934)ベーブ・ルースらの全米軍来日の際、

全日本軍に選出され第一打者として活躍し、

「短打法」でゴーメッツ投手から転戦中5安打を打ち

「ゴーメッツを打った男」と呼ばれた。

 

巨人軍に入団を誘われたものの、周囲の反対もあって辞退したが、

野球への思いは捨てがたく、昭和12年(1937)プロ野球団

「後楽園イーグルス」に入団し、

16年(1941)「黒鷲軍」と改称した同チームの監督に就任。

17年、黒鷲軍を退団。

 

 

昭和18年、巽工業・岩国製作所に入社。

戦後、昭和23年、岩国市で「杉田屋運動具店」を開業。

その後、岩国高校野球部監督を務めたり、

軟式野球・社会人野球の部外コーチとして地域野球の発展に尽力した。

また、NHK広島放送局のプロ野球解説者を務めたこともある。

 

誠実で実直な人柄で誰にでも好かれたが、

自分の信じることは信念を曲げずズバズバと言う直情型の人でもあった。

プロ野球解説も歯に衣着せぬ解説から長続きしなかったという。

 

座右の銘は「野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。・・」

まさに野球と共に生きた人生だった。

昭和47年(1972)5月11日死去。

 

 

杉田屋 守 打撃成績

 

TEXT協力

旧吉澤野球博物館

 

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プロ野球記録の本に必ず載っている記録として

テレビのバラエティー番組の問題にもなったくらいのものが

通算打率10割、通算長打率40割の塩瀬盛道選手だ。

 

1950年にパ・リーグに参加した東急フライヤーズに

塩瀬盛道投手だ。

國學院大學に在学しながら、プロの世界に入った。

「時間があるときには大学で勉強ししていい」という条件も良かった。

しかし、それまで8球団の1リーグ時代から

いきなり15球団になったことで選手不足になったことで

塩瀬投手にもチャンスが巡ってきたのかもしれない。

 

1950年5月11日 大映スターズ9回戦は

初回から大映が7点を奪った。

米川、白木に続く投手として期待されている桑名投手は絶不調。

2番手樽井投手も5点を獲られ、0対12だ。

3番手蔦文也はのちに徳島県立池田高校で

やまびこ打線を率いて、甲子園で大いなる旋風を巻き起こした監督となった

蔦文也である。しかし、この日は6点を獲られる乱調ぶり。

そして5回二死の場面で塩瀬投手がデビューのマウンドに立った。

18点差で負けているとはいえ、デビュー戦の塩瀬は緊張していたが、

打者は姫野投手だったので、三振でチェンジにすることが出来た。

 

そして、6回表2死一塁の場面で8番塩瀬が打席に立ち、

無我夢中に初球を打つと、あれれ~と伸びて右翼スタンドに飛び込んだ!

なんと、初打席初球本塁打の大記録だ!

 

高揚した気分で、6回裏を投げたが、

本業の投球がおかしくなっちった。

 

6回裏

スターズ1番山田に四球、

2番滝田の二球目にボーク!

そこから2点を獲られたものの、1回を投げ切り

7回裏はもっと浮足だし、四球、内野安打、四球と

無死満塁で常見投手に代わって事なきを得たが、

本職の投球は散々だった。

1.1回を投げ、被安打5、四球2、ボーク1が

その日の投球成績だった。

 

そして、塩瀬投手は次のチャンスを待ったが

二度とプロ野球の試合に出ることはなかった。

 

1打数1安打1本塁打!

打率10割、長打率40割!

というインパクトのある打者成績を残して

プロ野球の世界を去った。

 

塩瀬盛道は引退後、サラリーマンになり

社長にまで出世!

珍記録の持ち主として、昭和のバラエティー番組にも出演。

記録と記憶を残した野球人となった。

 

 

 

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