土橋正幸投手
1935年12月5日~2013年8月24日
東京都台東区出身
右投右打。
浅草の鮮魚店に生まれた土橋は、疎開先の幕張から戻って、野球に出会う。
その後、家業を手伝いながら、浅草のストリップ劇場の草野球チーム
「フランス座」に所属、そこから友人と冷やかしで
1954(昭和29)年東映フライヤーズのテストを受けたところ
友人は落ちたが、土橋は見事合格。1955(昭和30)年入団。
軟式ボールの草野球からプロ野球選手になった、まるでコミックの物語だが、
最初の2年間はファームでひたすら投げ込んだ。
そして、3年目に頭角を現し、4年目の1958(昭和33)年に
21勝16敗でエースの活躍。
その後、7年連続10勝以上、20勝以上を5回記録した。
BBM2006カードから
そして、1961(昭和36)年に30勝16敗 63試合 25完投9完封10無四球試合
393回を投げ、防御率1.90を記録した。
1961(昭和36)年 土橋正幸投手 全登板
特に8月9月の2か月間は
22試合登板、15勝3敗3セーブの素晴らしい成績で、
球団創設以来最高の2位となり、エースの貫録を見せた。
翌年の初優勝への期待を思わせるものとなった。
しかし、30勝投手になっても
最多勝投手にはなれなかった。
それは、西鉄ライオンズの鉄腕 稲尾和久が42勝という日本記録の
神がかった成績を残しからだ。
土橋は生涯、投手タイトルには無縁だった。
しかし、翌年の日本シリーズでは大いに活躍しMVPに選ばれた。
(種茂捕手と史上唯一の2人受賞)
無四球試合も多いのはファームの時期にひたすら投げ込んでコントロールをつけた。
「目をつむって、アウトローでもインローでも投げることができた」と後年語っている。
最初の4年間は月給5000円で、生活が苦しく
実家から毎月10,000円の仕送りをもらっていたというエピソードを持つ
庶民派投手でもある。(今では考えられない薄給だった)
表の読み方・・・左から
・シズ登・・・シーズンでの登板目
・通算登・・・初登板からの登板目
・チム試・・・シーズンでのチーム試合目
・登間・・・・登板日から次の登板日までの間日数(中○日の表現)
連投は登板日の次の日が登板日
D連はダブルヘッダーにおいて第一、第二試合での連投
・月日・・・・登板した月日
・相手・・・・対戦したチーム
・ダブル・・・複数試合の順番
①、②は第一・第二試合、表裏・チームとも両方全く同じ試合。
△1、△2は、第一・第二試合、表裏が違ったり、チームが違ったりと変則的な試合。
・球場・・・・登板した球場
・対戦先投・・先発時の相手チーム先発投手
・登結果・・・左側の”先”は先発登板、数字は○番手での登板
右側の”完”は完投、”降”は途中降板、”封”は完投して失点なく0点に
抑えた試合(0点完投引分けでも使用)、”了”はリリーフして、試合最後まで投げた登板
・勝敗・・・・○は勝ち投手、●は敗戦投手、Sはセーブ(セーブが未規定年の場合は、
独自に印付け、Hはホールド(ホールドが未規定年の場合は、独自に印付け)
背景がベージュはチームが勝利、深緑はチームが敗戦
・回・・・・・投球イニング数、背景が黄色はQS(クオリティスタート、回が6以上かつ
自責点が3以下の場合に色付け)桃色はHQS(ハイクオリティスタート、
回が7以上かつ自責点が2以下の場合に色付け)
・投数・・・・試合での投球数
・打者・・・・試合での対戦打者数
・被安・・・・試合での被安打数
・奪三・・・・試合での奪三振数
・四死・・・・試合での四球数と死球数を合わせた数
・失点・・・・試合での失点
・自責点・・・試合での自責点
・被本選手・・試合で本塁打を打たれた選手、複数の場合選手名の右に数字
野球を始めた土橋少年
土橋正幸 通算投手成績
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- データ協力:篠浦孝氏




































