日本野球は19世紀は一高が日本野球を引っ張りましたが、

一高時代から20世紀に入り、

明治30年代は早稲田・慶應の早慶戦の時代に入っていきます。

その早稲田が、1904(明治37)年に

一高に勝利し、そのあと、慶應にも勝利し

早稲田大学が日本最強となった。

 

 

その、ご褒美に

早稲田大学野球部監督 安倍磯雄氏が大学を説得し

野球の本場にアメリカに3か月の遠征をした。

それは、明治時代に日本独自に発達した野球に

大きな変革を与えた遠征となった。


幕張湾岸野球部-マクハリドットTVのDUG OUTからの別冊野球情報 

 

『早稲田大学野球部第1回米国遠征』は1905年に行われ、

日本の野球技術向上に多大な貢献をしたといわれています。


 

初戦のスタンフォード大学戦では、バントやスクイズで

散々塁上を暴れまくられ、バントを「ブント」と言っていた

早稲田チームは失策も絡み1-9で大敗したそうです。


 

バントシフトやバントで点を撮りに行く野球は

この時覚えて言ったテクニックで、

学生野球の原点となった、大事な1戦だったように思えます。

 

当時の早稲田野球は、バントヒットを試みようとすると

安部監督から

「打つのか打たないのかはっきりしない攻撃はよろしくない」と

言われていたそうなので、

攻撃はバンバン振りにいくのが常だった。

 

一行は当時の西海岸のベースボールも観戦したようで、

本場の野球を驚きの気持ちで見たに違いない。


 

この時、輸入してきた技術は

 

●ウォーミング・アップ

●バントは卑怯な作戦ではなく有効な作戦

●セーフティ・バント、スクイズバント、犠牲バント

●ワインドアップ投法

●打者のタイミングをはずすチェンジオブベースの活用

●二塁手、遊撃手との連係プレー

●声の掛け合い

●ランナーコーチの設置

●ヒットエンドランの活用

●牽制球、ダブルスチールなどのトリックプレー

●シングルハンドキャッチ

●スコアブックの使用

 

 その他色々・・・・

 

約2ヶ月の遠征で多くの野球技術を勉強し、早稲田の投手であった

橋戸信は「最新野球術」を著した。

(橋戸信は都市対抗野球の「橋戸賞」)

 

今でも、野球の基本である上記の技術は

この時輸入されたもので、まさしく近代野球伝来というところでしょう。


 

1905年は日本野球にとって革命的な年だったのです。

 


 

1905年はメジャーリーグの歴史の中でも

特別な年でもあります。


あの、野球の神様

スモールベースボールの寵児であり、野球を変えた男

タイ・カッブがメジャーデビューした年でもあります。

 


幕張湾岸野球部-マクハリドットTVのDUG OUTからの別冊野球情報 



タイカッブ脅威の1909年のシーズン


一方、ナショナル・リーグは

ジョン・マグロー監督率いるニューヨーク・ジャイアンツが

全盛を極め、エース クリスティー・マシューソン投手が

ワールド・シリーズでは3試合に登板3完封という無双なピッチングをしていた。

 

 

 

 

早稲田野球部の選手たちはきっと見ることはなかったと思いますが、

ちょっと不思議な巡り会わせを感じます。

 

 

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(当時の早稲田大学野球部は西海岸のみの遠征だったようで

 MLB観戦をしていない模様です、訂正いたしました。)
 

クリート・ボイヤー

クリーティス・リロイ・ボイヤー(Cletis Leroy Boyer)

1937年2月9日~2007年6月4日

アメリカ合衆国ミズリー州出身

内野手、コーチ

 

 

クレート・ボイヤーは、1955年にカンザスシティ・アスレチックスと契約、

マイナーリーグを経ずにメジャーデビュー。

1957年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、

1960年から正三塁手に定着。

 

1960年から1964年にかけてアメリカンリーグ5連覇、

1961年・1962年の2年連続ワールドシリーズ優勝に貢献した。

特に1961年のワールドシリーズでは、ファインプレーを連発し注目を浴びた。

 

1964年のワールドシリーズでは、弟ケンとの「兄弟シリーズ」が話題となった。

1967年にアトランタ・ブレーブスへ移籍し、

1969年にはナショナル・リーグのゴールドグラブ賞を獲得した。

 

1972年、大洋ホエールズへ入団。

「まだまだやれることをアメリカ中に見せてやりたい」という強い意志で来日した。

年俸が半減しても日本でのプレーを望み、

そのひたむきな練習態度、ユーモア、徹底した食事管理は、

選手や首脳陣からすぐに一目置かれる存在となった。

ジョン・シピンや通訳兼打撃投手の古賀英彦と行動を共にし、

チームに深く溶け込んだ。

 

大洋では、シピン、米田慶三郎、松原誠と共に、

12球団屈指の守備力を誇る内野陣を形成。

コーチ兼任となった1973年のダイヤモンドグラブ賞では長嶋茂雄と同票となり、

1974年には長嶋を退けて三塁手部門でダイヤモンドグラブ賞を受賞。

日米両方で同賞を受賞した初の選手となった。

 

その守備は「グラブだけでメシが食える」と評され、

打球の勢いをそぎ落とし、正確なスローイングでアウトにする

華麗なプレーは多くの野球ファンを魅了した。

 

特にシピンとの併殺プレーは圧巻だった。

契約更改では年俸交渉を球団に任せる潔さを見せた。

1975年に現役を引退。

 

引退後も大洋に残り、

1976年には一軍内野守備コーチとして秋山登監督を補佐。

実質的にヘッドコーチ格として采配を振るうこともあった。

田代富雄や山下大輔といった若手を育成し、

その指導力の高さから次期監督候補にも挙がったが実現には至らなかった。

 

帰国後は古巣ブレーブス、アスレチックス、ヤンキースでコーチを歴任し、

デレク・ジーターを育てたことでも知られる。

2000年からはクーパーズタウンで自身の名を冠したレストランを経営し、

ファンとの交流を楽しんだ。

 

ボイヤーの守備はその後の日本プロ野球でも影響与えた。

もし、大洋時代に監督就任していたら、

広島東洋カープのような変革を行ったかもしれず

当時の情勢からして厳しかったかもしれないが

見たかった!という気持ちは残る。

 

2007年6月4日、脳内出血のため逝去。70歳没。

 

 

 

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山内以九士

1902年3月31日-1972年6月3日

島根県松江市出身

 

幼少期から学生時代
 

山内佐助商店の跡取りとして、

1764年創業の裕福な

呉服反物商の家に生まれた山内育二(やまのうち いくじ)

当主は代々「佐助」を名乗り、

山内自身も1936年に7代目佐助を襲名している。

 

1914年に島根県立松江中学校へ進学すると野球に熱中。

中学3年生の時には全国中等学校優勝野球大会の

新聞記事を切り抜いてスクラップブックを作成し、

「山内球狂児編」と題するほどの熱の入れようだった。

 

同時期に独学でスコアブック記帳法を習得し、

直木松太郎の野球規則書を読み込み規則問題に取り組んだ。

中学野球部ではマネージャー的な立場で所属し、試合では審判員も務めた。

専門誌『ファン』への規則に関する投稿は常連となり、

直木松太郎の解説を受けるまでになった。

 

1920年、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、

野球部でスコアブック記帳や球拾いを担当。

この頃、直木松太郎が野球部で指導者として関わっていた。

 

1922年にはメジャーリーグ選抜来日時の

アメリカンリーグ審判モリアーティからルールの

解釈と適用について強い影響を受けた。1

1924年には朝日新聞運動部の嘱託記者として8か月間務めた。

大学卒業後と家業、そして野球への情熱

1925年に慶應義塾大学を卒業し帰郷。

家業を継ぐ傍ら、松江体育協会や島根県中等学校野球連盟の要職に就き、

野球への情熱は変わらなかった。

特に松江野球場の建設では、

設計段階から協力し「私設監督」と呼ばれるほど尽力した。

 

1936年3月には直木松太郎との共編著『最新野球規則』を刊行。

同年6月に父が死去し、7月に「7代目山内佐助」を襲名した。

12月には『ヤマウチ式野球試合記録帖』も刊行。

プロ野球リーグが始まったこの時期、山内はまだ直接関与していなかった。

 

大阪毎日新聞社が主催する全国選抜中等学校野球大会の

記録員として招かれるようになり、1939年には優勝校の分析記事を寄稿した。

1940年には知人の協力で機械式計算機を使い、

夜間の計算を重ねて自費で『野球成績早見表』を刊行した。

プロ野球への本格的な関与と戦争、そして再開

1940年頃からプロ野球との関わりを深め、

同年秋には日本野球連盟から正式に規則委員に任命された。

翌年『日本野球規則』が制定されると、

山内は規則の権威とみなされるようになる。

 

1942年春、太平洋戦争の激化で家業が困難になったため、

日本野球連盟の関西担当公式記録員となり、

店を閉めて兵庫県西宮市へ転居。「以九士」の筆名を使い始めた。

 

しかし、戦争の激化によりプロ野球の開催が困難となり、

1945年に帰郷。戦後、1946年のプロ野球再開に伴い再び記録員を委嘱され、

1947年春に上京した。1948年3月には直木松太郎の後任として

連盟の規則委員長に就任。

2リーグ分裂と記録部長としての功績

1950年のプロ野球2リーグ分裂後、山内はパ・リーグの記録部所属となった。

同年シーズン終了後、1951年3月に『太平洋連盟年報』を編者として刊行し、

1962年版まで編者を務めた。

 

1951年、2代目パ・リーグ記録部長に就任。

長年の労作である『野球成績早見表』の増補改訂版の作成を進め、

知人の協力を得ながら苦労の末、

1954年7月に『ベースボール・レディ・レコナー』として刊行。

この本はプロ野球関係者に広く愛用された。

 

1954年には千葉功、1956年には宇佐美徹也がパ・リーグ記録部に入り、

山内の指導を受けながら記録員の仕事に従事した。

山内は1リーグ時代のスコアカードから記録を再集計する作業にも取り組み、

特にヴィクトル・スタルヒンの勝利数修正を巡る議論では、

現在のルールに照らして判断を下した。

退任と晩年、そして殿堂入り

1962年シーズンで記録部長を退任し、

翌1963年シーズン後に定年でパ・リーグを退職。

退職後は雑誌で「仕事さえも奪われていた」と嘆きつつも、

1964年7月にプロ野球実行委員会から

「過去のスコアカード整理」を委嘱され、1971年に完了させ、

1972年6月3日、その生涯を終えた。

 

没後、1985年にその生前の業績が称えられ、

特別表彰で野球殿堂入りを果たした。

生前は固辞していたが、

没後2年を経て実現した殿堂入り表彰式には長男が出席した。

 

1956年3月25日の巨人対中日戦で、

樋笠一夫が放った代打逆転満塁サヨナラホームラン

山内以九士はこれを史上初と突き止め、

「きっちり3点差をひっくり返した」ことから

「つり銭なし」と称し、その偉業を称えた。

 

 

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若生 智男(わかお ともお)

1936年1月19日~2024年6月3日

宮城県出身

右投右打、投手。

 

兄に若生久二雄、弟に若生正廣という野球指導者がいる。

東北高校時代は若生忠男、若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれた。

 

プロ野球選手時代

1956年に毎日オリオンズに入団。

2年目の1957年にプロ初勝利を挙げた。

3年目の1958年は0勝に終わるが、

1959年には10月に3勝を記録し、初完封も達成。

1960年には初の2桁となる13勝を挙げ、

防御率2.15でリーグ4位にランクインし、

チームの10年ぶりリーグ優勝に貢献した。

 

大柄でがっちりとした体格ながら、

体に負担をかけない投法で、

小野正一に次ぐ主力投手として活躍した。

荒巻淳からは投球術を学び、

その投球スタイルを参考にしたという。

 

1962年には自己最多の15勝を挙げるも、1963年に故障。

1964年には「世紀のトレード」として知られる

小山正明・山内一弘の移籍と並行して、

マイク・ソロムコとの交換で阪神タイガースへ移籍した。

 

 

この年5勝に終わるが、

南海との日本シリーズにも登板。

阪神では先発と中継ぎの両方をこなし、

投手王国と呼ばれたチームで重宝された。

 

1966年には4年ぶりの2桁となる10勝を挙げ、

自身唯一の1点台となる

防御率1.96でリーグ3位を記録。

 

1967年も防御率2.14と好成績を残した。

藤本定義監督の指導で緩急と制球力を磨き、

30歳を超えてから球威が増し、

江夏豊、古沢憲司と並ぶ3本柱を形成した。

 

1969年には王貞治から3球三振を奪うなど、

巨人戦での初完封を記録し、

自身唯一のオールスターゲームにも出場。

同年から1971年まで3年連続2桁勝利を達成し、

1970年からは投手コーチも兼任した。

 

1973年には0勝5敗と不調に終わり、

1975年に安仁屋宗八とのトレードで広島東洋カープへ移籍。

先発ローテーションの谷間を埋める活躍で、

チームのリーグ初優勝に貢献した。

 

移籍後初勝利は開幕2戦目のヤクルト戦でマークし、

古巣阪神から初セーブも記録。

阪急との日本シリーズにも登板した。

1976年9月2日の中日戦を最後に現役を引退。

 

大毎、阪神、広島の3球団でリーグ優勝を経験し、

日本シリーズに出場したプロ野球史上初の選手となったが、

残念ながら日本一には一度もなれなかった。

引退後のキャリア

引退後は、広島(二軍投手コーチ→一軍投手コーチ)、

ロッテ(一軍投手コーチ→一軍投手チーフコーチ)、

阪神(一軍投手コーチ→二軍投手コーチ→編成部調査担当)、

ダイエー(スカウト→二軍投手コーチ)、

横浜(二軍投手コーチ)でコーチ・フロントを歴任した。

 

コーチ時代は、選手時代の

実績、体力、理論、人間性を兼ね備え、

選手の信頼を得る「投手育成名人」として知られた。

達川光男に配球の勉強を日課にさせるなど、

選手への指導は熱心だった。

 

阪神コーチ時代には、

村山実監督の下で理論的な指導を行い、

投手の肩や肘を大切にする方針を貫き、

新人投手を無理に起用しなかった。

 

横浜退団後は故郷の仙台に戻り、

宮城・東北野球界の「御意見番」としても活躍。

 

NPO法人

「野球振興ふるさと宮城プロ野球選手・OB会」副理事長を務めたほか、

日本初の女子硬式野球チームで臨時コーチを務めるなど、

アマチュア野球の発展にも貢献した。

 

プロ野球マスターズリーグでは

大阪ロマンズの最年長投手としてプレーし、

2009年のOBオールスターアスリートカップでは

最速105km/hを記録するなど、

引退後も精力的に活動を続けた。

 

晩年はデイリースポーツ東京本部の評論家を務める傍ら、

千葉県内の中学校や高校で外部コーチを務めた。

 

2024年6月3日、肝臓癌のため船橋市内の病院で死去。享年87歳

 

 

 

 

 

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プロ野球ファン、日本が悲しみに暮れたあのあの日から、

早いもので1年が経過しました。

2025年6月3日、読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんが

89歳でこの世を去りました。

「ミスタープロ野球」として昭和、平成、令和の3時代を駆け抜け、

グラウンドの華であり続けたその存在は、日本野球の歴史そのものだった。

 

 

【時系列で辿る】長嶋茂雄さん没後1年の顕彰の歩み

時期

出来事

内容

2025年6月3日

逝去

肺炎のため東京都内の病院にて逝去。享年89。

2025年7月12日

追悼展開催

野球殿堂博物館にて特別展示「背番号3は永久に」がスタート(~8月31日まで)。

2025年11月10日

「長嶋茂雄賞」創設

NPB理事会にて新賞の創設が議決。

2026年以降

新賞運用開始

走攻守に優れ、ファンを魅了する野手を選出し称える賞として運用開始。

1. 「背番号3は永久に」――球史を振り返る追悼特別展示

逝去から約1ヶ月後の7月12日、
東京ドーム内の野球殿堂博物館にて追悼特別展示
「背番号3は永久に」が開催された。

 

現役時代のユニフォームや愛用品、
数々の名シーンを収めた写真パネルが展示され、
会場には多くのファンが詰めかけた。
単なる「記録」だけでなく、長嶋さんが持つ「華」、
そして「野球というスポーツそのもの」を愛した姿勢を再確認する場となりました。

2. 「長嶋茂雄賞」の誕生――未来へ繋ぐスピリット

同年11月10日、日本野球機構(NPB)は、
氏の功績を末永く称えるため、新たに「長嶋茂雄賞」を創設することを発表しました。

 

  • 走攻守における高い技術

  • グラウンド上のプレーでファンを魅了する姿勢

  • 日本プロ野球の文化的公共財としての価値向上への貢献

これらを基準に、毎年、最も輝いた「野手」が選出される。
2026年シーズンより運用が開始されており、

ミスターの「野球を愛し、ファンを愛する心」が、

次世代の選手たちへと脈々と受け継がれていくことになって欲しい。

 

長嶋茂雄という存在は、
特定の記録を追うような数値化された枠組みを超え、人々の記憶の中に生き続けている。

「野球が好きでたまらない」というあの純粋な眼差しが、

今もなお、日本のプロ野球を温かく、そして力強く照らしているようだ。

 

日本のプロ野球打撃記録の中で

シーズン記録として、一番長い間破られていない記録に

シーズン打点、塁打数、得点の3つがあります。

この記録は1950(昭和25)年に作られ、

未だ破られていない。

 

その3つの記録保持者は

小鶴誠外野手です。

 

 

小鶴 誠外野手

右投右打

1922年12月17日-2003年6月2日

 福岡県出身

 

 

選手歴:

名古屋軍-中部日本-中部日本ドラゴンズ(1942-1943,1946-1947)

急映フライヤーズ(1948)

大映スターズ(1949)

松竹ロビンス(1950-1952)

広島カープ(1953-1958)

 

八幡製鉄所から、日本大学に入学し『飯塚誠』の偽名で 

1942(昭和17)年名古屋軍に入団。1年目から活躍したが戦地へ。

戦後、中部日本軍で復帰、リーグ3位の10本塁打を記録したが、

球団を追われた赤嶺昌志について行き急映に移籍。

 

そこで、新田恭一に出会い、

腰の回転を使ったバッティングを取得し

青田昇、山本一人と三つ巴の首位打者争いをしたものの

惜しくも3位の.305を記録。

 

しかし、1949(昭和24)年に大映に移籍し打率..361で首位打者を獲得し、

新田理論の表現者として「ゴルフ・スイング」は有名になった。

この年の打撃タイトルの初受賞が翌年の大爆発につながったか?

 

1950(昭和25)年松竹に移籍し水爆打線の中核として

51本塁打161打点.355と鬼神のような活躍で

松竹優勝の立役者となり、MVPにも輝く。

50本塁打20盗塁も記録し長打と俊足を兼ね備えたスター選手になった。

 

1950年の146得点、376塁打、161打点は

今もプロ野球最高の数字として残っている。

また、足も早く通算240盗塁を残した。

外野手としての能力も高く1950年の341刺殺は

リーグ2位の記録で守備範囲の広さも一流だった。

しかし、椎間板ヘルニアにより翌年から成績が落ちてしまった。

1953(昭和28)年に石本監督、広島市民の熱望により

広島カープに移籍、小鶴の球歴で一番長く在籍した。


 

 

小鶴は人情から赤嶺旋風の真ん中にいたため、

川上、阪神の藤村に劣らない成績を残したものの、

一般的知名度が若干劣るのは、移籍が多いためかも知れない。

 

また、巨人の川上哲治の言葉として有名な

「ボールが止まって見える」というのは、

元々、1950年に小鶴が語ったものを新聞記者が

『小鶴では知名度が足りない』という事で、

川上の発言として記事なってしまったものだった。

 

端正なルックスからMLB最高の打者のひとり

ジョー・ディマジオに似ていると言われ、『和製ディマジオ』と呼ばれた。

美しいフォームで戦後のプロ野球人気を牽引した。

 

1980年野球殿堂入り

 

 

1950(昭和25)年小鶴誠選手  51本塁打の軌跡

 

小鶴誠選手が本塁打を打ったチーム勝率は

41勝6敗 .872 という高率。

そして、別所、藤本、中尾、長谷川良平投手が餌食なっている。

 

松竹ロビンス水爆打線の3番打者としての活躍が

21世紀になっても燦然と輝いている。

 

小鶴誠選手 通算成績

 

 

野球雲チャンネル 豪打列伝②小鶴誠【ボールが止まって見える】

 

 

 

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ルー・ゲーリッグ

 

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグ / Henry Louis Gehrig

ドイツ語名 Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ)

1903年6月19日~1941年6月2日)ニューヨーク市生まれ

左投左打、一塁手。

 

1920年代から1930年代に大活躍した

MLB史上最高の一塁手と言われた名選手。

ベーブ・ルースと共にニューヨーク・ヤンキースを常勝球団に

成長させ、その後のヤンキースブランドを作った人物の一人でもある。

 

ドイツ系移民の両親のもとに生まれ、

コロンビア大学在学中に才能を評価したヤンキースと契約した。

1923年6月15日に代打で初出場したが、

最初の2年間は23試合にとどまった。

 

1925年6月2日、ヤンキース正一塁手のウォーリー・ピップが頭痛(諸説あり)で

大事をとってミラー・ハギンス監督に休養を希望し試合を休むこととなった。

その際、ハギンス監督は前日代打に出たゲーリッグを6番一塁で出場させた。

 

この試合でゲーリッグは3安打の猛打賞。

彼の打撃をハギンス監督は気に入り、翌日も先発出場させた。

前日の代打出場から、1939年4月30日まで

通算2130試合出場を記録する事となった。

 

1925年は126試合出場、打率.295、本塁打20本、打点68を記録。

20本塁打はチーム3位の成績で、

無冠だったベーブ・ルースの穴を埋めた形となった。

(打率.290、25本塁打、66打点)

 

1926年はゲーリッグの実力が本物になった年で、

打率.313、47二塁打、20三塁打、16本塁打、112打点を挙げ

復活したルースと共にチームを引っ張り、ヤンキースも優勝した。

 

1927年は大打者としての存在感と記録を同時に見せた年であった。

打率.373、52二塁打、18三塁打、47本塁打、175打点を記録。

二塁打、塁打数447、打点はリーグ1位でMVPも獲得した。

1927年からのヤンキースは2位に18ゲームを付け

110勝44敗 .714とぶっちぎりの強さを魅せ、

3番ルース、4番ゲーリッグを擁する打線は

「殺人打線(マーダーズ・ロウ)」と呼ばれ恐れられた。

 

 

その後、1929年にヤンキースは背番号制を導入し、

打順通りにルースは3番、ゲーリッグは4番を付けた。

 

ベーブ・ルースが「動」ならば、

ルー・ゲーリッグは「静」のイメージがある。

 

打撃はルースを同等、それ以上のシーズンもあり

本塁打王3回、打点王5回、打率.350以上6回、150打点以上7回、

100四球以上11回、200安打以上8回、

そして40本塁打以上が5回記録。

1931年の184打点は今もアメリカンリーグ記録だ。

 

1934年にはルースも出来なかった三冠王を記録し、

「アイアン・ホース」と呼ばれて絶大な支持を得た。

 

1931年(昭和6年)と1934年(昭和9年)には

日米野球の全米軍のメンバーとして来日し、

4番打者として活躍した。

 

 

1938年半ばからルー・ゲーリッグの成績は下降し始め、体調不良を訴える。

映画撮影時にも下肢筋力低下の兆候が見られ、

シーズン後には頻繁につまずくようになる。

 

妻エレノアは脳腫瘍を疑うが、本人は胆嚢の問題と診断される。

1939年のスプリングトレーニングでも状態は悪化し、

打撃は不振、走塁も困難になった。

 

同年5月2日、2130試合連続出場を自ら辞退。

6月13日、メイヨー・クリニックで筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される。

 

この難病は運動機能が急速に低下し、

ゲーリッグは引退を発表し、チームに帯同するも病状は進行した。

 

1939年7月4日、ルー・ゲーリッグ感謝デーが開催され、

多くの人々が彼を祝福した。

ヤンキースはゲーリッグの背番号「4」をMLB史上初の永久欠番に指定した。

 

ベーブ・ルースやマッカーシー監督がスピーチを行い、

ゲーリッグへの敬意と友情を示した。

当初スピーチを辞退しようとしたゲーリッグだったが、

観客のゲーリッグコールに応え、

「私は間違いなく幸せ者なのです」という歴史に残る名スピーチを行った。

 

 

引退後、ヤンキースはゲーリッグが経済的に困窮しないよう支援し、

1939年の年俸も全額支払われた。

また、全米野球記者協会(BBWAA)は彼の病状を考慮し、

特例としてアメリカ野球殿堂入りを決定。

ゲーリッグは36歳で史上最年少で殿堂入りした。

 

療養をしていたゲーリッグだったが

1941年6月2日に惜しくも亡くなった。37歳の若さだった。

 

ゲーリッグの栄光は世紀を超えた今も

MLBの歴史の中でも、大きな存在感と伝説を残し、

プレーだけでなく、彼の生き様も語り続けられている。

 

通算成績

2164試合、8001打数、1888得点、2721安打

534二塁打、163三塁打、493本塁打、5060塁打、1995打点

1508四死球、790三振、通算打率.340

出塁率.447、長打率.632 OPS 1.080

 

首位打者: 1回(1934年)

本塁打王: 3回(1931年、1934年、1936年)

打点王: 5回(1927年、1928年、1930年、1931年、1934年)

MVP:1927年、1936年

 

 

 

 

 

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1872年にやって来たベースボールは

新橋倶楽部(アスレチックス)の平岡ひろしがスポーツとして

当時の貴族やエリート学生の間で徐々に広がった。

 

1880年代の終わりごろには、学生たちの競技、

特に旧制一高(一中)は学校のプライドをかけた校技となり、

ベースボールでは先輩の明治学院と対戦した。

 

一高が敗戦が濃厚になった頃に、明治学院講師インブリーが

垣根を乗り越えて入り、一高応援団が「無礼者!」と殴りかかり、

大乱闘騒ぎになる寸前で、当日の審判、平岡寅之助が間に入り、

一高自治会総代も止めに入り収まった。

 

しかし、試合は中止になり、明治学院が特別講師として呼んだ

インブリーに暴力をふるったところから国際問題になりかけた。

 

アメリカ公使から外務省に申し入れがあったため、

一高の木下校長が明治学院、外務省に陳謝し、インブリー側にも陳謝した。

 

そして、一高ベースボール部選手一部謹慎、

岩岡保作らレギュラーメンバーが総退陣して、事件は落ち着いた。

その後、インブリーは大正10年まで日本で明治学院の発展に努めた。

 

前列左が福島金馬投手、中列左から2番目はが中馬かなえ。

 

インブリー事件の後、一高側は大いに反省し

今回は試合中止になったとはいえ、続いていたら敗北だったのは明白だった。

 

そして、部員たちは一高の名誉を傷つけたとも考え、

5月17日を「屈辱と敗北の記念日」とした。

 

余ほど、この敗北が一高ベースボール部として悔しかったのか、

それまで、多少遊びの要素があったが、

この日から練習、練習、また練習に日々となり

いつか、明治学院を倒すことを胸に練習に明け暮れた。

 

明治時代の新学期は9月だった。

一高ベースボール部にも新入部員が入る。

そして、11月8日に明治学院と再び対戦することになった。

 

この時、1番二塁手で中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が出場している。

中馬庚~ベースボールから野球に~明治野球人の軌跡 ① 

野球という言葉 『中馬庚と正岡子規』

 

再戦も向ヶ岡で行われ、結果は一高(一中)が26対2で大勝し、

学校中が歓喜の嵐になり、選手たちも抱き合って喜んだ!

 

この結果に都下のベースボールクラブが、新進チーム一高(一中)に

対戦を申し込んできたが、すべてに勝利し1896(明治29)年までに

対外試合38連勝を記録し、日本のベースボール界の頂点となった。

 

一高野球部史では、この時から「第一期黄金時代」と紹介している。

 

この時の投手福島金馬は本格的にカーブを投げた。

このカーブは平岡ひろしが岩岡保作に教え、それを福島に教えたと言われ、

一高のカーブは、一高のマウンドを守る投手へと秘儀として伝えていった。

こんなところが、江戸時代のお家伝来という文化にも通じる。

 

一高の「母校の名誉」を前面に出すことで

遊戯としてのベースボールから、

体育、武道としてのベースボールになっていった。

 

●一高野球とは

 

一高野球の凄さは、今では考えられない危険なものだった。

 

キャッチボールも今は肩を暖めるように、徐々に距離をあけていき

相手の捕りやすいところへコントロールしていくようだが、

一高は、捕ったらすぐに投げ返し、右に左に、高く低く、ワンバウンドなども

投げ合い、それを捕ったらすぐに投げるを繰り返し、徐々に距離を詰めていく。

 

クイックをどちらかがへばるまでやっていくようで、

油断すると怪我をする「投げ合い」は理論ではなく体で覚えていった。

 

ある意味、精神野球の元祖で、片手捕球は邪道と堅実に型通りにやる。

 

返球の速さにこだわりを持ち、素手で取り合ったので怪我は当たり前で

「痛い」というのは悔しいので「かゆい」と言ってごまかしたらしい。

 

しかし、他にも敬遠、走塁、バントを使った練習もやっていたので、

当時としては最先端でもあった。

 

当時の一高には俳人の正岡子規も在籍していた。

 

野球が好きな子規はキャッチャーとしてベースボールをしていて

インブリー事件があった試合も見ている。

 

しかし、この頃の子規は体調崩しており、歯がゆい気持ちで

母校の敗戦濃厚な試合運びを見ていたかもしれない。

 

一高は1896(明治29)年に第2期黄金時代を迎える。

その時、野球が世の中に大きな影響を与えることとなるのです。

 

 

 

 

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ブーマー・ウェルズ

本名:グレゴリー・デウェイン・ウェルズ

1954年4月25日生まれ

アメリカ合衆国、アラバマ州出身

右投右打、一塁手。

 

 

日本プロ野球の歴史において、

規格外の体躯と類まれな技術でファンを魅了し、

数々の伝説を打ち立てた助っ人外国人がブーマー・ウエルズだ。

200cmの巨躯から放たれる打球は時に民家を破壊し、

時に日本最長飛距離の記録を塗り替えた。

しかし、彼を単なる「飛ばし屋」ではない。

その本質は、驚異的なアベレージと卓越した選球眼を併せ持つ、

素晴らしき「アベレージヒッター」であった。

 

◎日本への道と衝撃のデビュー

1983年、阪急ブレーブスに入団したブーマーの来日は、

決して彼の本意ではなかったという。

当時所属していたミネソタ・ツインズのフロントから

「行かなければ永久に野球ができなくする」と

恫喝のような形で日本へ送り出され、

当初、自身の置かれた状況に戸惑いを隠せなかった。

 

来日直後の日本野球に対する印象も衝撃的だった。

練習量の多さに驚き、

川崎球場を訪れた際には、その観客数の少なさから

「ここは二軍の球場ではないか」と本気で疑ったという。

日本での野球生活は、まさにカルチャーショックの連続だった。

 

しかし、ひとたびバットを握れば、その実力は本物だった。

入団時から「飛ばし屋」の噂は先行し、

キャンプでは場外本塁打を連発。

 

高齢者が興奮のあまり倒れる騒ぎや、

近隣の金魚鉢を粉砕する逸話など、話題には事欠かなかった。

阪急西宮球場では、彼の打球から

アストロビジョンを保護するために検討がなされるなど、

まさに別格の存在感を放っていた。

 

1年目の公式戦こそ、日本野球への順応や膝の故障もあり、

期待されたほどの本塁打数は記録できなかったが、

それでも打率.307をマーク。

周囲の「よくやった」という労いの言葉に、

本人は納得がいかず戸惑うほどの高いプロ意識を持っていた。

◎三冠王という頂点、そして円熟の時

日本野球に適応した2年目の1984年、ブーマーは覚醒する。

打率.355、37本塁打、130打点という圧倒的な成績を残し、

来日外国人選手初となる三冠王とMVPを獲得。

阪急ブレーブスのリーグ優勝の立役者となった。

 

彼の凄みは、単なるパワーではない。

非常に柔らかいスイングから繰り出される打撃は、三振が少なく、

広角に安打を打ち分ける技術に裏打ちされていた。

本人も「自分の本質はアベレージヒッター」と語る通り、

通算打率.317は4000打数以上の選手の中では落合博満を上回る、

右打者として日本プロ野球記録である。

 

1988年には、西武の渡辺久信から放った162mの特大場外弾で、

落下地点が確認された本塁打としては日本最長記録を樹立。

翌1989年には、レフトスタンドを指差す

「予告ホームラン」を現実のものにするなど、

ファンの期待を裏切らない選手でもあった。

 

その一方で、彼の記録には「併殺打の多さ」という側面もある。

これは無闇に振り回さない確実性を重視した打撃と、

膝の不調による結果であった。

また、1989年には同僚・門田博光をハイタッチの衝撃で脱臼させてしまうという、

彼の「怪力」を象徴するエピソードも生まれた。

 

1992年に福岡ダイエーホークスへ移籍し、

38歳で打点王を獲得したのを最後に日本を去った。

10年間の日本生活で打率3割を7度記録し、

三冠王、MVP、ゴールデングラブ賞2回など、

助っ人外国人としては最高峰の活躍を見せた。

 

山田久志が語った

「タイトルに固執しない、フォア・ザ・チームの選手」という言葉こそ、

ブーマーの真髄だろう。

 

チャンスでは無理に本塁打を狙わず、

右方向に軽くヒットを打つ。相手投手の分析に余念がなく、

その知識をランディ・バースに授けるなど、野球への探求心は尽きなかった。

 

引退後はエージェントとして活躍し、日本野球界への恩返しを続けている。

野球殿堂入りを巡る議論でファンの間で今なお議論が絶えないこと自体、

彼がどれだけ日本野球の歴史に深く、鮮烈に刻み込まれた存在であったかを物語っている。

 

 

 

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5月30日は戦前は朝日軍、戦後、松竹ロビンスで

1950年に39勝を上げ、その後阪神でも活躍した

真田重蔵投手の命日です。

 

真田 重蔵(重男は1948-1954年まで)

1923年5月27日-1994年5月30日

和歌山県出身 右投右打

球歴

朝日軍-パシフィック(太平)-太陽ロビンス-大陽ロビンス-松竹ロビンス

(1943・1946-1951)

大阪タイガース(1952-1956)

 

 

真田は海草中学嶋清一の3年後輩で、卒業後1943(昭和18)年朝日軍に入団。

林安夫投手とともに朝日軍のエースとして期待され、

期待以上の活躍をしたのが真田重蔵投手だ。

戦後は太平で復帰。戦後すぐの1946(昭和21)年-1947(昭和22)年には、

50登板・20勝・20敗・400回以上の鉄腕ぶり。

1943(昭和18)年から6シーズン連続10勝以上そして10敗以上も記録。

同時期の超一流投手、藤本英雄や別所昭に比べて防御率でやや劣るのは

さすがに投げ過ぎの影響だったのかもしれない。

 

そして、真田は1950(昭和25)年には、

いまだ破られぬセリーグ記録の最多勝(2019年現在)の39勝をあげた。

以下の表が1950年の成績だ。

 

真田重蔵 1950年全登板

1950年の投手成績は

61試合 36先発 24完了 28完投 5完封 5無四球試合

39勝12敗 395.2回  191奪三振 防御率 3.05 で最多勝を獲得。

松竹ロビンス優勝に大いに貢献したエースであった。

 

 

打撃も凄く、2リーグ分裂の前後に短期間存在した

「代打の切り札はブルペンにいる」時代の代表的な人物でもある。

もちろん、規定打数未満だが、金山次郎の.311を上回る

打率.314、2本塁打、36打点の打者だから、

使いたくなる小西監督の気持ちもわかる。

 

二刀流選手として考えると、

2016年のファイターズ大谷翔平の起用の考え方に近かったのが、

1950(昭和25)年の真田重男だったのかもしれない。

あの頃にDH制があったとしたら、どんな実績を残しただろうか? 

真田の万能選手としての評価をここで終わらない。

 

1950年の39勝の時は94補殺、

1948年25勝では96補殺といずれも投手補殺王、

しかも2位に10以上の差をつけている。

 

投手補殺は主にピッチャーゴロだから、「懸河のドロップ」が空振りをとるばかりではなく、

いかに多くの当たり損ねのゴロを量産し、真田がいかに上手くさばいていたかがわかる記録だ。

 

1950年の6併殺もトップクラスであるが、

投手併殺王(8併殺)の杉下茂もフォークボールという落ちる球を得意としていたのが面白い。

翻って、田村駒治郎の肝いりということや、

多く揉め事の渦中にいたのが評価をさげているような気はするが、

野球選手として超一流であるのは間違いない。

 

(野球雲10号の牧哲夫氏のテキストに編集部がプラスしたものです)
 

真田重蔵投手成績

 

真田重蔵打撃成績

 

 

 

驚愕!30勝投手列伝!~前説~30人の全リスト

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1990年野球殿堂入り

 

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