別所毅彦(旧名:別所昭)

1922年10月1日~1999年6月24日

兵庫県淡路市出身

投手、右投右打

 

 

1922年、兵庫県で産まれた別所毅彦は、

少年時代から野球に熱中し、その非凡な才能は早くから開花した。

小学5年で転校した名倉尋常小学校では、

法政大学の選手・島秀之助の弟と軟式野球チームを結成。

 

帰省した島本人から野球の基本を学ぶなど、野球漬けの日々を送る。

楠高等小学校では野球部で優勝を経験し、

その活躍が滝川中学校への進学のきっかけとなる。

しかし、名門滝川中学の入部テストは想像を絶する厳しさで、

150人中わずか4人しか残らないという過酷な選抜を生き抜いた。

 

滝川中学では、元巨人投手・前川八郎から投球技術の全てを学び、

別所自身も毎日6kmのランニングや寝る前の投球練習、

野球教本の読み込みなど、飽くなき探求心で自身の技術を磨き上げた。

特に、飛田穂州の「投手は大胆にして細心であれ。

しかし小心であってはいけない」という言葉は、

彼の野球人生の指針となった。

 

甲子園には春の選抜で2度出場。

1941年の大会では、岐阜商業戦で左肘を骨折する重傷を負いながらも、

アンダースローで続投。延長12回まで投げ抜き、

力尽きて号泣する彼の姿に、

新聞は「泣くな別所、センバツの花」と称賛の言葉を贈った。

このエピソードは、別所の代名詞として長く語り継がれることになる。

 

卒業後、慶應義塾大学進学を志すも、

戦時下の特待生制度廃止により断念。

浪人中に旧知の高田勝生(南海軍監督)からプロ入りを勧められ、

当初は巨人を希望する。しかし、親権者の契約が優先される裁定により、

二重契約の末に南海軍へ入団することとなった。

これはその後の「別所引き抜き事件」の遠因となった。

 

南海入団後、投手でありながら打撃センスも高く評価され、

野手として出場することもあった。

1943年には大和戦でノーヒットノーランを達成し、エースへと成長。

この頃、伝説の大投手・沢村栄治から「走りなさい」という言葉を受け、

ランニングを重視するようになる。

同年12月に学徒動員で応召し、満州へ渡るも、

1945年11月には野球に復帰。

 

1946年にプロ野球史上最大得点差となる26-0での完封勝利を記録し、

南海の初優勝に大きく貢献した。

この年の優勝決定直後には栄養失調で倒れるも、

翌1947年には丸山に代わってエースとなり、

NPB記録となるシーズン47完投30勝を達成。

 

 

最多勝、ベストナイン、そして初代沢村賞を受賞し、球界のトップに君臨した。

1948年には26勝を挙げ、最高勝率を獲得。

しかし、妻の妊娠と待遇への不満から南海との交渉が決裂し、

再び巨人からの接触を受ける。

結果的に、出場停止処分を受けながらも巨人への移籍が実現。

これが「別所引き抜き事件」として球界を揺るがした。

 

巨人移籍後、当初は生え抜き選手から冷遇されたものの、

登録名を「昭」から「毅彦」に改め、新たなスタートを切った。

 

1950年には22勝で20勝投手に返り咲き、

1951年の初のオールスターゲームでは全セ・リーグの先発を務め、

勝利投手第1号となる。

 

1952年には自己最多の33勝を挙げ、

最多勝と自身初の最優秀選手を受賞。

日本シリーズでは胴上げ投手となり、日本シリーズMVPにも輝いた。

 

1953年には腰を痛め登板機会が減少するも、

同年オフにメジャーリーガーからスクリューボールを習得し、

シンカーとして自身の投球の幅を広げ、選手寿命を延ばした。

 

1955年には自己最高の防御率1.33最優秀防御率を獲得、沢村賞受賞。

日本シリーズでは古巣・南海を完封し、

再び胴上げ投手となり、2度目の日本シリーズMVPを受賞。

この時の投球を、別所は生涯最高の投球と語っている。

 

1956年には27勝で最多勝2度目の最優秀選手に輝くなど、

巨人のエースとして黄金期を支え続けた。

1958年には13年続いた2桁勝利が途絶え、

契約更改では「35試合登板」を要求するも、監督の水原茂に反対される。

しかし、1959年10月14日、対国鉄戦で救援登板し、

史上2人目の300勝を達成。

 

翌1960年4月29日には302勝目を挙げ、当時の通算最多勝記録を更新した。

同年、通算勝利数を310勝まで伸ばし、一軍投手コーチを兼任。

 

1961年には登板機会なくコーチに専念し、

川上哲治監督を支え日本一奪回に貢献。

 

1962年3月20日のオープン戦を花道に現役を引退した。

通算310勝は当時のプロ野球記録だったが、

わずか2年後に金田正一によって更新された。

 

引退後はコーチ、野球解説者、野球評論家として野球界に貢献。

1968年にはサンケイアトムズ(現ヤクルトスワローズ)の監督に就任するも、

1970年に解任された。選手からは「とにかく『走れ』しか言わなかった」

「精神論ばかり」といった声もあったが、

同時にその練習が選手たちの基礎体力作りに役立ったという評価もある。

 

ユニフォームを脱いでからは、

フジテレビ・文化放送の野球解説者や

日刊スポーツの野球評論家として人気を博した。

 

白髪と太い眉毛、巨人贔屓、貧乏ゆすり、

高笑いといった豪快なキャラクターから「球界の彦左」と呼ばれ、親しまれた。

 

1979年には野球殿堂入りを果たし、

1992年からは巨人OB会の会長を務めた。

かつては対立した川上哲治との和解も果たし、彼から会長職を引き継いだ。

 

1999年6月24日、急性心不全のため76歳で死去。

 

別所毅彦は、その強靭な肉体と不屈の精神で数々の記録を打ち立て、

激動の時代を駆け抜けた伝説の投手として、今もなお語り継がれている。

 

通算投手成績(17年)

662試合登板、335完投、72完封、310勝178敗 勝率.638

4350回、1934奪三振 自責点1053 通算防御率2.18 

 

 

 

 

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写真協力 古書ビブリオ

黒沢俊雄

1914年6月10日~1947年6月23日

大阪府出身 外野手 左投左打

 

 

大阪八尾中学時代には春夏合わせて5回甲子園大会に出場、

関西大学では4番を打ち、のちに阪神で活躍する西村幸生投手と共に

関西大学の黄金時代を作った。

 

1936年名古屋金鯱軍に創設時に入団。

3番左翼でレギュラーとなり、打率も高く、盗塁も多く、

好走守そろった選手として活躍した。

 

招集と復帰を繰り返しながら、職業野球選手として活躍

1943年に所属していた西鉄軍が解散したため、

選手層の薄くなった巨人軍に移籍し、投手は藤本英雄

野手では黒沢俊雄が巨人を支えた。

黒沢は巨人初の移籍選手のひとりでもある。

 

 

 

戦後、巨人でプロ野球界に戻り、1946年戦後最初の公式戦(4月26日)では

戦後初の巨人軍4番打者として出場し、

3打数3安打3四球と打率、出塁率10割の活躍。

6月30日に川上哲治に譲るまで4番を打った。その後は5番で出場した。

1946年は105試合全試合出場、打率.308(8位)、60打点はチーム2位の成績で

巨人軍復活の大事な選手として活躍した。

 

足が速いので、盗塁が多いのは当然だが

ホームスチールを10回成功させているのは、

試合の空気を読む事と度胸の良さかもしれない。

ロイドメガネの風貌から、スピードのあるプレーのギャップ感が面白い。

 

1947(昭和22)年も5番打者として出場、

たまに2番打者として器用なバッティングを見えていた。

しかし、腸チフスに感染、責任感が強い黒沢は当時の三原監督に黙っていた。

そのため、病気が進み、6月5日南海戦を最後に入院したが

6月23日現役のまま亡くなった。

亡くなる前には「巨人のユニフォームをまとって死にたい」と訴えた。

 

チーム内ではまじめで、えばらず、後輩にも優しかった黒沢の死は

巨人軍に衝撃を与え、チームリーダーだった千葉茂が中心となり、

巨人軍が大変な時に支えた黒沢の背番号4を永久欠番にして欲しいと

球団に頼み。沢村栄治の14と共に日本初の永久欠番となった。

大リーグでもルー・ゲーリッグの背番号4が最初の永久欠番になっていた。

 

そして、後日黒沢俊雄追悼試合があり、急死したご家族を援護のために

試合の収益金を送ったそうだ。

 

 

黒沢俊雄の名前を知るようになったのは

漫画「侍ジャイアンツ」の主人公番場番が付けた背番号4の由来を描かれたことで

当時の野球少年は永久欠番の重みも知ったかもしれない。

 

 

 

 

 

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和田博美

1937年3月26日~2009年6月22日

大分県出身、捕手

右投右打

 

鹿児島に生を受け、幼少期に大分県臼杵へ転居した和田は、

小学校5年から捕手としての才能を開花させる。

高校時代は父の意向で一時野球部を退部するも、

「血を見るのが苦手」という意外な理由で復帰。

 

2年時には秋季九州大会、

3年時には夏の甲子園県予選を勝ち抜き東九州大会に進出するも、

甲子園出場は叶わなかった。

 

1955年、西鉄ライオンズに入団。

三原脩監督に見出され、

その類まれなる強肩とシャープな打撃は高く評価された。

 

三原監督の「家へ帰ったら、鉄アレイを使って、筋力をつけなさい。

ランニングを欠かさずに足腰を鍛えなさい。

それと素振りをたんとやってきなさい」というアドバイスを忠実に実行し、

1957年のキャンプでは見違えるような成長を遂げる。

そして、同年には正捕手の座を掴み、

チームの3年連続リーグ優勝・日本一に大きく貢献した。

 

オールスターゲームには5度出場し、

2度の完全試合、2度のノーヒットノーランに立ち会うという、

捕手として輝かしい記録を持つ。

特に、21歳3ヶ月での完全試合達成は当時の最年少記録であった。

 

稲尾和久との「黄金バッテリー」は語り草だが、

西鉄スカウトが稲尾の才能を見出したのは、

和田のスカウトがきっかけであったという逸話も残る。

 

1957年の日本シリーズでは、ランニング本塁打を含む2打席連続本塁打を放ち、

技能賞を獲得するなど、打撃面でもその存在感を示した。

 

1960年には打率.295、1962年には打率.325と自己最高の成績を記録。

1961年からは外野手としても出場し、

1967年・1968年には2年連続で2桁盗塁を記録。

1968年にはサイクル安打も達成している。

 

1970年からはコーチを兼任。

1972年には選手専任に戻るが、

この年の加藤博一への盗塁指導のエピソードは、

和田の野球に対する真摯な姿勢と若手育成への情熱を物語る。

同年、西鉄の身売りを機に現役を引退した。

 

引退後も、太平洋→クラウン→西武とライオンズ一筋に

二軍監督やコーチを歴任。

 

 

若菜嘉晴、永射保、真弓明信、秋山幸二、工藤公康など、

数多くの名選手を育て上げた。

根本陸夫監督の片腕として、

その冷静な判断力と卓越した作戦眼は高く評価された。

 

広岡達朗監督時代には、若手選手の野球留学を引率するなど、

野球界の国際交流にも貢献している。

 

西武退団後は阪神タイガースの編成部に招聘され、

社長付渉外担当としてグレン・デービスを獲得。

その後、ヘッドコーチ、二軍監督を歴任し、

1998年には二軍をウエスタン・リーグ優勝に導いた。

 

阪神時代の岡田彰布とのエピソードは、

和田の指導者としてのユニークな一面を垣間見せる。

 

2009年6月22日、膵臓癌のため72歳で死去。

その功績は、ライオンズOBによる黙祷という形で称えられた。

和田博実の野球人生は、選手としても指導者としても、

日本のプロ野球史に確かな足跡を残した。

 

彼の野球への情熱と育成にかける思いは、

多くの野球人に影響を与え、

その思想は現代の球界にも受け継がれている。

 

 

 

 

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ランディー・バース
(Randy Bass、本名:ランディ・ウィリアム・バス

1954年3月13日生まれ

アメリカ合衆国オクラホマ州出身

内野手、外野手


日本プロ野球(NPB)の歴史において、最強の外国人打者は誰か?
この議論の中で、必ず最上位に名前が挙がるのが、

1980年代の阪神タイガース黄金期へ貢献したランディ・バース

 

メジャーリーグ(MLB)時代は守備難や速球への対応に苦しみ、

通算9本塁打と大成しなかった。

しかし、1983年に阪神へ入団すると、

日本のプロ野球に水があったのか、驚異的な打撃技術を開花させた。

 

◎1985年:伝説の「バックスクリーン3連発」と初の三冠王

1983年の入団初年度に35本塁打、

翌1984年に打率.326を記録していたバースだが、

1985年はまさに彼の打撃が神がかった領域のシーズンとなった。

 

元大洋ホエールズの長崎啓二のフォームを徹底的に研究し、

確実性の高いミートバッティングを独力で会得したバースは、

4番の掛布雅之、5番の岡田彰布とともに強力なクリーンナップを担った。

 

◎阪神優勝への幕開け

この年のバースを象徴するのが、

4月17日の対読売ジャイアンツ戦(甲子園球場)で見せた

「バックスクリーン3連発」だ。

巨人・槙原寛己投手から、

3番のバースがバックスクリーンへ叩き込む今季第1号を放つと、

続く掛布、岡田も同じくバックスクリーンへ本塁打を連発。

この一撃で勢いに乗ったバースは、破竹の勢いで打ちまくることになる。

◎驚異の「5冠」達成

シーズン中、3番・バースの後ろに4番・掛布が控えていたことは、

バースにとって大きなアドバンテージとなった。

相手投手陣はバースを敬遠すれば掛布との勝負を強いられるため、

バースと真っ向勝負を選ばざるを得なかった。

 

この環境も味方につけたバースは、

驚異的なハイペースで量産を続けた。

  • 打率:.350

  • 本塁打:54本

  • 打点:134打点

上記の成績で

見事にセ・リーグ三冠王とシーズンMVPを獲得。

さらに最高出塁率、最多勝利打点(当時表彰タイトル)も獲得し、

「5冠」に輝く圧倒的な成績でチームを21年ぶりのリーグ優勝へ導いた。

◎日本シリーズでもMVP、悲願の日本一へ

西武ライオンズとの日本シリーズでもバースの勢いは止まらない。
第1戦、第2戦、第3戦と3試合連続の本塁打を放つなど攻守にわたり大活躍。

シリーズMVPも獲得。

阪神タイガースを2リーグ制開始以降、初となる「日本一」へと導いた。

◎1986年:NPB史上最高打率「.389」と2年連続の偉業

マークがさらに厳しくなることが予想された1986年、

バースは前年を上回るアベレージを残し、

日本プロ野球界の打撃記録を塗り替えていった。

 

この年、バースは驚異的な打率を維持していく。

7月2日の大洋戦で打率を.402に乗せると、一時は.407まで上昇。

夏場にスランプを迎えて大台こそ割ったものの、

シーズン終盤までハイアベレージを維持していった。

 

最終的にマークした打率.389は、それまで張本勲が保持していた

シーズン最高打率記録(.383)を大きく塗り替える日本プロ野球史上最高記録であり、

この記録は現在も日本プロ野球記録だ。

◎7試合連続本塁打のタイ記録

この年の6月には、王貞治に並ぶ7試合連続本塁打のNPBタイ記録も達成。

6月18日から始まった一発の量産は、

26日の巨人戦で江川卓から放った場外への決勝22号まで続いた。

 

この年は、47本塁打、109打点も記録し、

パ・リーグの落合博満(ロッテ)とともに、

2年連続の三冠王という前人未到の偉業を達成した。

◎ランディ・バースの打撃の魅力

メジャーで実績のなかったバースが、

なぜNPBでこれほどの数字を残せたのか。

そこには、彼の「探究心」と「技術的な順応」があった。

① 甲子園の風を味方にした「流し打ち」

バースの最大の魅力は、長打力がありながらも

広角に打ち分けられる卓越したミート技術にあった。

 彼は、ブーマー・ウェルズ(阪急)から日本の球場の特徴を学び、

さらに掛布雅之が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた

「左方向(レフト方向)への流し打ち」を貪欲に吸収しました。

 

② 技術を研鑽する真摯な姿勢

同じ時代に三冠王を争った落合博満は、

バースの打撃を「頭のいい打撃」と高く評価している。

 

日本の配球や落ちる変化球に対応するため、

日本人選手(長崎啓二ら)のフォームを熱心に研究し、

自らのものにする謙虚さと知性を持っていた。

 

バースが規定打席に到達した5年間において、

特筆すべきはOPS(出塁率+長打率)の高さだ。

打者のチームへの貢献度を示すこの指標において、

リーグ1位を3回、2位を2回記録している。

 

特に1986年のシーズン長打率.777は当時の日本記録であり、

(2013年にバレンティンが更新)

同年のOPS 1.258は、王貞治の歴代最高記録(1.293)に次ぐ

プロ野球歴代2位の衝撃的な数字を残した。

 

 

 
その実績とインパクトから2023年野球殿堂入りした。

 

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6月19日は野球の世界では記念すべき日です。

(日本時間なら6月20日?)

 

今からさかのぼること179年前の

1846年6月19日、マンハッタンの西ハドソン川の向かい側

ニュージャージー州ホーボケンという場所で

 

ニッカーポッカーズ 対 ニューヨーカーズの試合が行われました。


 

世界初の体外試合が行われた日なのです。


 

簡単に野球の歴史を調べると、

クリケットを起源としたバットとボールを用いた競技は

新大陸でふたつに分かれて進化した。といわれています。

タウンボールとベースボール。

 

マサチューセッツ州ピッツフィールドの研究者が、

町の広場の大教会から80ヤード以内で野球を行うことを禁じた

1791年の法令を発見した。

 

このことから、当時の野球の元祖は360度どちらでも打てる

「タウンボール」は選手達が窓を割り、植木を踏み荒らし、

街の商売を妨げていたことがわかる。

 

ニューヨーク市周辺で広まったこの球技は、改良の末

9人前後からなる2チームが対戦する方式で広まっていった。

 

選手はニューヨークで商人、弁護士、銀行員、保険会社の社員など

午後3時を過ぎれば仕事から解放される人々で、体を鍛える事を楽しみとして

野球に打ち込んだそうだ。

 

その中から、自警消防団員も勤める銀行員

アレクサンダー・カートライト(1820-1892)が

1845年ごろ、現在のベースボールの野球規則を作り上げた。

 

 

それでも、今のルールや審判の位置などはだいぶ違っていました。

一番違うのは21点先にとったチームが勝利という点ではないでしょうか。

 

そして、野球の父といわれる

カートライトが1845年9月24日に新ルールによるチームを結成したのが

ニッカポッカーズなのです。

 

野球史に残り、今でも語られるニッカーポッカーズですが

ニューヨーカーズ(ニューヨーク・クラブ)との試合は、

結局 1 対 23 の大差で負けてしまいました。

 

しかし、この頃の野球はあくまでも体力づくりと地域交流のための

スポーツだったため、メインは試合後のパーティーだったようで

両チームの家族や友達と共に食事やお酒を楽しんだようです。

 

そして、歴史的な試合の26年後、

野球(ベースボール)が日本にやってきたのでした。

 

 

 

参考文献:野球~アメリカが愛したスポーツ~:講談社クロノス選書

 

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写真協力:古書ビブリオ

 

飯田徳治

1924年4月6日~2000年6月19日

神奈川県横浜市出身、

内野手、外野手、投手

 

 

浅野総合中学校で野球を始め、

東京鉄道管理局ではエースで4番として活躍し、

1942年には都市対抗野球で打撃賞を獲得した。

 

1947年に南海ホークスに入団し、

開幕から5番・一塁手として起用された。

チャンスに強く、長打力と6年連続40盗塁の脚力を武器に

南海の5度の優勝に貢献。

 

1949年5月21日の巨人戦ではサヨナラ満塁本塁打を放った。

1951年打率.296、1952年には打率.323を記録し、

打点王を獲得。1955年には中堅手にコンバートされ、

リーグ最多の163安打を放ちMVPを獲得した。

 

飯田の守備の上手さは戦前の名手中河美芳に因んだあだ名

「タコ足二世」と呼ばれ、一塁守備の重要性を認識させた。

南海ホークス100万ドルの内野陣では一塁を守り、

ワンバウンドの捕球は素晴らしく、より、確実性をあげた。

1955年8月24日にはサイクル安打を達成。

1956年には154試合にフル出場し(今もシーズン出場試合日本記録)、

16補殺を記録してチームに貢献。

 

 

オフには10年選手の権利でボーナスを要求したが、

長打力重視の球団方針から支払われず、

国鉄スワローズへ金銭トレードで移籍した。

 

南海時代は

1265試合、4785打数、791得点、1410安打

151本塁打、778打点、321盗塁、打率.295を残した。

 

1957年からは国鉄で一塁手に戻り、

4番でありながら40盗塁を記録し、

4番打者として史上初の盗塁王を獲得するなど、脆弱な打線を牽引した。

 

1958年5月24日の阪神戦でアキレス腱を断裂し、

1246試合連続出場記録が途絶えてまった。

この記録は衣笠祥雄に破られるまで日本記録だった。

 

1961年からはコーチ兼任となり、

1963年に通算2000試合出場まであと35試合、

通算2000本安打まであと22本を残して現役を引退。

 

この時代は今と比べて記録の重要性は低かった。

 

引退後は国鉄・サンケイで

ヘッドコーチ(1964年 - 1965年)を務めた。

1965年3月27日、古巣南海とのオープン戦で

「10年選手制度」に基づく引退試合を行い、勝ち越しの三塁打を打った。

 

1966年、1967年、飯田はサンケイの監督を務めた。

ルー・ジャクソンや鈴木皖武の活躍もあったが、

戦力不足と主力の故障で苦戦した。

 

飯田は徳武定之の連続試合出場記録に配慮し出場機会を与えたが、

これがチームの「ぬるま湯体質」につながり、

守備の悪さから投手陣の不満も噴出してしまった。

 

1968年には古巣南海にヘッドコーチとして復帰し、

1969年には鶴岡一人監督の勇退を受けて監督に就任。

しかし、主力選手の故障が相次ぎ、

球団ワーストの15連敗を喫するなど低迷。

南海は戦後初の最下位に終わり、

飯田はプロ野球史上初となる「両リーグで最下位になった監督」になった。

最下位の責任を取り、1年限りで辞任。

 

辞任後はNETテレビ→テレビ朝日で解説者を務める傍ら、

横浜駅地下街で喫茶店「コーヒー23」を経営。

店名は現役時代の背番号に因んでおり、

2010年に閉店するまで市民に愛された。

 

1981年に野球殿堂入りを果たし、

2000年6月19日に心筋梗塞のため76歳で死去。

 

飯田は「仏の徳さん」と言われる優しいキャラクターだった。

現役時代は派手な選手の中で、静かに確実なプレーをし、

時代によって変わるチーム事情の中でも、

実績を残していったが、監督としてはその優しさが、

上手く機能できなかったのかもしれない。

 

通算成績

1965試合、6970打数、1019得点、1978安打、

340二塁打、67三塁打、183本塁打、969打点

390盗塁、打率.284

 

 

 

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ウイリー・メイズ

 

ウィリー・ハワード・メイズ・ジュニア(Willie Howard Mays Jr.)

1931年5月6日 - 2024年6月18日

アメリカ合衆国アラバマ州出身

外野手、右投右打。

ニックネームは「セイ・ヘイ・キッド(The Say Hey Kid)」

 

ウィリー・メイズは、ニグロリーグでの活躍を経て

1950年にニューヨーク・ジャイアンツ

(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約し、

1951年にメジャーデビュー。

名投手ウォーレン・スパーンから

初安打・初本塁打を放ち、新人王に輝いた。

 

1952年には朝鮮戦争に従軍し、

1954年に復帰するとその才能を爆発させる。

打率.345で首位打者を獲得し、41本塁打、

110打点の大活躍でMVPに選出された。

 

この年、ジャイアンツはワールドシリーズを制覇し、

メイズは「ザ・キャッチ」と呼ばれる伝説的なファインプレーを披露し、

その名を轟かせた。

 

 

 

その後もメイズの活躍は続き、

1955年には51本塁打で本塁打王を獲得。

24歳でのシーズン50本塁打は長らくメジャー最年少記録だった。

1956年、1957年には2年連続で

30本塁打・30盗塁を達成するなど、

走攻守の全てを兼ね備えた「5ツールプレイヤー」として球界を牽引。

 

1958年にジャイアンツが

ニューヨークからサンフランシスコへ移転した後も、

メイズはチームの中心選手であった。

 

強風が吹き荒れる新本拠地キャンドルスティック・パークでの

プレーは困難を伴なったが、

1962年には2度目の本塁打王、

1965年には自己最多の52本塁打で2度目のMVPに輝いた。

この年の8月には月間17本塁打のナ・リーグ新記録を樹立し、

9月には史上5人目となる通算500本塁打を達成。

1966年にはメル・オットのナ・リーグ通算最多本塁打記録を更新した。

 

しかし、1967年以降は成績が下降線をたどり始め、

メディアからも衰えを指摘されるようになったが、

1969年にはベーブ・ルース以来史上2人目となる通算600本塁打、

1970年には史上10人目となる通算3000安打を達成するなど、

輝かしい記録を積み重ねた。

 

1972年、メイズはニューヨーク・メッツへトレード移籍。

ジャイアンツはメイズの功績を称え、

在籍時の背番号「24」を永久欠番に指定した。

メッツ移籍後は衰えが隠せず、1973年に現役最後の660号本塁打を放ち、

このシーズン限りでの引退を表明。

ワールドシリーズにも出場し、代打や代走として最後の勇姿を見せた。

 

引退後の1979年には、有資格初年度でアメリカ野球殿堂入り。

 

カジノ関連の仕事でMLBから追放処分を受けるも、

後に解除され、2015年にはバラク・オバマ大統領より
大統領自由勲章を授与され、
2022年にはメッツ在籍時の背番号「24」も永久欠番に指定された。

 

2024年6月18日、ウィリー・メイズは心不全のため93歳で亡くなった。

 

通算3283安打、660本塁打、338盗塁。首位打者1回、

本塁打王4回、盗塁王4回、MVP2回。

外野手では史上最多の12回ゴールドグラブ賞を受賞

 

通算22年、2992試合 10881打数、2062得点

3283安打、523二塁打、140三塁打、660本塁打、

1903打点、338盗塁、打率.302、出塁率.384、長打率.557

OPS.941

 

ウイリー・メイズが「ザ・キャッチ」と言われるファインプレーをした試合のブログ

 

ウイリー・メイズのスタッツ

 

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樋笠一夫

1920年3月20日~2007年6月17日

香川県坂出市出身。

外野手、右投右打

 

 

旧制高松中学時代に1934年夏の甲子園でベスト8に進出し、

卒業後は陸軍騎兵学校で職業軍人として陸軍大尉まで昇進。

戦後は広島鉄道局や三井鉱山美唄でプレーし、

その後は尽誠学園高校で監督を務めながら教師としても活動した。

 

1949年末、広島カープ初代監督・石本秀一の誘いを受け、

30歳で1950年に広島に入団。

新人でクリーンナップを打ち、

打率.219ながら21本塁打、72打点でチーム二冠王となった。

当初は1年契約で、その活躍から球団からの倍額提示したが、

給料の遅配や年齢を理由に広島を退団し、

地元で醤油製造業を始めた。

 

しかし、読売ジャイアンツからの熱心な勧誘を受け、

1951年6月に入団。広島ファンからの反発を鎮めるため、

巨人は山川武範を広島にトレード。

 

巨人移籍後初出場で代打本塁打を放つなど、

代打の切り札として存在感を発揮。

特に1952年には代打として打率.346でリーグトップの成功率を記録。

1953年には青田昇の移籍後、外野手として100試合近く出場し、

2年連続2桁本塁打を記録した。

 

1956年3月25日の中日戦では、

日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」を放った。

この本塁打は、杉下茂の投球を分析し、事前に練習を重ねた成果だった。

同年4月にはシーズン2本目の代打サヨナラ本塁打も記録したが、

この年限りで本塁打は打てず、1957年に現役を引退。

 

引退後は、巨人二軍コーチ、ヤシカ監督、

近鉄バファローズ一軍打撃コーチ・寮長などを歴任。

その後は球界を離れ、第一広告社やイヌイ運送で勤務し、

その間も「あのホームラン」の話で商談をスムーズに進めたらしい。

 

2007年6月17日に87歳で死去。

 

 

 

 

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北別府学

1957年7月12日~2023年6月16日

鹿児島県出身、投手

右投右打
 

 

鹿児島県出身の「精密機械」と称された右腕投手で、

広島東洋カープ一筋で活躍した名投手。

 

中学時代はテニス部だったが、

校内野球大会での活躍がきっかけで野球部に転身。

都城農業高校では1年生からエースとして活躍し、

2年生時には夏の甲子園県予選で準決勝に進出。

3年生の春季九州大会では完全試合を達成するも、

甲子園出場は叶わなかった。

 

1975年のドラフト会議で広島東洋カープに1位指名で入団。

全国的には無名に近い存在だったが、

日本ハムの大沢啓二監督も注目していた。

 

プロ入り後は順調に成長し、1976年にはプロ初勝利を挙げ、

1977年から先発ローテーションに定着。

 

1979年にはチームトップの17勝を挙げ、広島のリーグ優勝に貢献。

1982年には20勝を達成し、最多勝と沢村賞を獲得した。

 

1984年、1986年にもリーグ優勝に貢献し、

特に1986年には最多勝、最優秀防御率、最高勝率、

MVP、沢村賞、ゴールデングラブ賞と主要タイトルを総なめにし、

カープ黄金期のエースとして君臨した。

 

1989年以降は規定投球回をクリアできない時期もあったが、

1991年には11勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得し、

チームのリーグ優勝に貢献し復活を遂げた。

 

 

1992年7月16日、中日ドラゴンズ戦で球団史上初の200勝を達成。

これは1990年代において唯一の達成であり、

20世紀最後の200勝到達でもあった。

この年、広島初の1億円プレーヤーとなった。

 

広島一筋で200勝を達成した投手は今も北別府学だけだ。

 

1994年限りでの現役引退を表明。

 

同年8月には松井秀喜に本塁打を打たれ、

セ・リーグ最多被本塁打記録を更新。

ホーム最終戦で引退セレモニーが行われた。

 

引退後は野球解説者や広島の投手コーチを務め、

2012年には野球殿堂入りを果たした。

晩年は闘病生活を送り、
2020年には成人T細胞白血病であることを公表。

骨髄移植を受けるも、合併症に苦しみ、

2023年6月16日に65歳で死去。

 

葬儀では、旧広島市民球場をモチーフにした祭壇が設置され、

多くの球団関係者が参列し、その功績を偲んだ。

 

 

 

 

 

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サム・クロフォード

(Samuel Earl Crawford,1880年4月18日~1968年6月15日)

アメリカ合衆国ネブラスカ州出身

外野手、左投左打

 

 

高校時代にフットボールで2度のネブラスカ州選手権を

制覇するほどの運動能力を誇り、

1898年に巡業中の野球チームに帯同したことをきっかけに、

翌1899年にはカナディアン・リーグのチャタム・レッズと契約した。

 

同年中にウェスタンリーグを経てシンシナティ・レッズに昇格し、

9月にメジャーデビュー。

1年目から打率.307を記録し、その才能の片鱗を見せつけた。

 

レギュラーに定着した1901年には、

16本塁打、104打点をマークし、本塁打王を獲得。

この16本塁打のうち、実に12本がランニングホームランという驚異的な記録は、

現在もMLBシーズン最多ランニングホームラン数の記録として残っている。

 

レッズには4年間在籍し、

1902年オフにデトロイト・タイガースとの契約争奪戦が勃発。

タイガースがレッズに3,000ドルの補償金を支払うことで、

クロフォードはタイガースへ移籍した。

 

タイガースでの全盛期とタイ・カッブとの競演

タイガース移籍後の1903年、打率.335、リーグ最多の25三塁打を記録し、

期待に応えます。1905年にタイ・カッブがタイガースに加入、

1907年からは3年連続でアメリカンリーグを制覇。

クロフォードとカッブは中軸を打ったものの、

ワールドシリーズでは両者ともその実力を発揮できず、

3年連続で敗退という苦渋をなめた。

 

左 タイ・カッブ 右 サム・クロフォード

 

輝かしい個人記録と「世界周遊野球チーム」への参加

1910年には120打点を挙げ、自身初の打点王に輝くと、

翌1911年には自己最高のシーズン打率.378を記録。

1914年と1915年には2年連続で打点王を獲得し、

1913年から1915年まで3年連続で三塁打数がリーグ最多となるなど、

30代を過ぎてもその走力は衰えなかった。

 

1913年(大正2年)オフにチャールズ・コミスキーを総監督とする

「世界周遊野球チーム」の一員として来日した。

このチームは、ニューヨーク・ジャイアンツと

シカゴ・ホワイトソックスの選手たちによって構成された混合チームだった。

 

この来日では、ニューヨーク・ジャイアンツと

シカゴ・ホワイトソックスのメジャーリーグ同士の試合が日本で行われたほか、

両チームの連合軍と慶應義塾大学との試合も行わた。

 

慶應義塾大学との試合では、

当時、日本一と言われた慶應のエース菅瀬一馬投手が登板したが、

メジャー連合軍は14安打を浴びせ、16対3で大勝した。

当時のメジャーリーガーたちは日本の野球選手を

はるかに凌駕する実力を見せつけた。

 

クロフォードは、その卓越した走力と打撃で知られた選手であり、

この日本遠征でもその実力を存分に発揮し、

日本の野球界に大きな衝撃と刺激を与えたと考えられる。

 

大正3年の野球界でクロフォードは、

当時の日本の野球選手たちに

「内野手に比べて外野手が貧弱で危険千万」と評している。

 

現役引退と野球殿堂入り

1916年にタイガースが若手のハリー・ハイルマンを

レギュラーに起用する方針を打ち出したことで、

クロフォードの出場機会は激減。

 

1917年シーズンを最後にメジャーを離れた。

その後は1921年までパシフィックコーストリーグでプレーを続け、

南カリフォルニア大学などでコーチを歴任。

1935年から1938年にはパシフィックコーストリーグの審判を務めた。

 

1957年にはベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入りを果たし、

1968年6月15日にカリフォルニア州ハリウッドで死去。

同年にはレッズ野球殿堂入り選手にも選出された。

 

 

 

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