吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫)を読む。東海道線の熱海、函南間にトンネルを掘る話だ。大正末期から昭和の初頭にかけて行われたこの丹那トンネルという鉄道史に残る難工事を具にかつ淡々と描いた世界にすっかり惹きこまれてしまった。また一方で、トンネル工事の影響により、この丹那トンネルの地上部に位置した丹那村の水源が枯渇し、水田や山葵栽培が不可能になって、村の飲み水までも失われるという悲劇を知るに及んで、今日の南アルプス直下を貫通させることになっているリニア新幹線の工事の影響がとても気になった。工事によって大井川の水系に異常をきたすことになれば、大井川の水を生命の源とする流域の多くの人々にとって取り返しのつかないことになる。作品中の丹那村は、国からの莫大な補償をうけ、乳牛の里へと大転換を図ることになるが、温和だった村人たちが、水の問題が深刻になっていくたびに、筵旗を立てて鉄道省の工事事務所に鬼気迫る表情で乗りこんでくることになる展開は、予期せぬ公共工事の影響の怖さに戦慄めいたものを覚えた。救いなのは、鉄道省がこうした事態と訴えを真面目に受け止めて対応するところで、近代化を進める当時の日本の国が、国民との一体感と科学的良心というものを健全に信じていたよき時代であったということだ。振り返って今日のリニア工事に係るJR東海と静岡県の交渉は、丹那トンネルという取り返しのつかない教訓を共有したうえで、慎重に進められているものだと信じるが、予測がつかないできごとが生じる可能性への備えと自然環境に手を入れるということへの謙虚な気持ちは常に携えて貰いたいものだと思う。(2019.11.6)