自由を履き違えるという話は、よく耳にする。
顰蹙を買いそうだが、若者に多いと言わざる得ない。
責任の重さを理解せずに素晴らしい自由をうたい上げるという愚かな形。
逆にいえば、自由という恐ろしきものを、責任という鎧もなしに、世間へ若者を放り出している嘆かわしい大人の愚行。
ゆとり教育の真の失敗は、まったりした、やる気のない子供を作ったのではないと思う。
一番の失敗は、ゆとり教育で作った自由の時間に対して、自由のもつリスクを教えなかった事ではないだろうか。
自由は飴のように甘い。舐めるのも自由だが、肥満や糖尿になる恐ろしさを伝えることをなぜ怠ってしまったのか。
サラリーマンの年功序列給与制度には自由がない。
実力で勝ち取る楽しみも存在しない。
一方、利益をあげ、会社に貢献したものだけが自由と昇給を得る会社もある。
このかたちを世の中では自由主義とは誰も呼ばない。
実力主義と呼ぶ。
そう、実力が備わっていなければ、自由は怠惰のむさぼりでしかないのだ。
どんなに若者が「俺は実力がある!」と言っても、実績を伴わなければ、ただの音にすぎない。
大学時代から業界で名を馳せていた秋元康氏が、俺は実力がある!自由にやらせてもらう!というのは仕方ないだろう。子役で稼いだ安達祐実が、一家のお金は私が稼いでいる。自由にやらせてもらうと言っても、この小学生に反論のしようもない。
人の自由はルールに守られていたり、自らを律して成熟した先に存在することを忘れてはならない。
安達祐実はきっと子供ながらに遊ぶ時間もなかったろう。ロケ先で教科書を開いて必死だったろう。
彼女が自由主義宣言をしたはずもないが、リスクだけはたっぷり背負わされたはずである。
そう、自由は不自由なのだ。
オリンピックのスノーボーダーが、服装や態度を会見で叩かれたのをおぼえているだろうか。
オリンピックに選抜される実力を持ち合わせても、自由ではないのだ。
(ここから先、国家間まで話を及ぼすと、訳わかんなくなるので、ここで留めておくとしよう。したいけど・・・)
ようは、自由が本当に存在するのかさえ疑いたくなるってこと。
戦争をするのも自由か?人を殺すのも自由か?他人を誹謗中傷することも自由か?
自由を味わうには、不自由を我慢している生贄が必要になるのだ。
身近な表現に戻せば、自分の人生の時間を潰してがんばる両親の頑張りの上に、若者の自由があるのだ。
だから、せめて「俺の自由だ!」などとカッコ悪い事を口にするな。
巨大な不自由を強いて、自由を少しもらってるだけという事を理解してほしい。
若者よ、取り返しがつかない自由病に侵される前に、実力の鎧を纏う準備を進めなさい。
幻のような自由像を求めて、浮遊霊のように人が漂う社会が現状なのだ。
不自由に守られた自由を、偉そうに自由と言い放つことを、恥だと思う若者が少しでも増える事心よりを祈る。
自戒も込めて
