続き。「行ってくるね。」と主人に声をかけ、一人車を運転して病院に向かいました。運転しながら、さっきまで冷静に医師の説明を聞いていた自分に何とも言えない違和感を覚えました。私、呑気にしてる場合じゃないよ。


「くも膜下出血」母の身体に大変なことが起きている、しかもまた呼び出されていったい今度は何が起きたんだろう?このままでは母の命に関わる事態になるんじゃないかと、やはり手術してほしいと言ってみようと思いながら病院に着きました。


ICUの前の廊下で呼び出しボタンを押すと、すぐに中に通されました。ナースステーションの中に救命救急の医師がいて、こちらにと言われパソコン画面の前に座り説明を受けました。


私達が帰った後、しばらくして再出血が起きたと言われました。場所は最初に出血した額の真ん中辺りの同じ場所にほぼ間違いないと。「この出血で、かなり厳しい状況になってしまいました。出血も更に広範囲になりました。自発呼吸がなくなってしまったので挿管して人工呼吸器に繋いでいます。回復は難しいグレード5です。」と告げられました。


私は夜中のICUの中で、「お願いします。母の命を助けてください。お願いします。手術してください。」と泣きながら言いました。「最初に言ったように、くも膜下出血の手術はダメージを受けた脳細胞を治す手術ではないのでね。僕達も全ての人を助けたいのですが、助けられる命と残念ですが見送らなければならない命があるんですよ。」「父も6年前突然逝ってしまいました。父も母もみんな突然逝ってしまうんです。」と言って号泣。先生は、パソコンでカルテを見てくださり「あぁ、そうでしたね。」と気の毒そうな表情をされました。後でわかったことですが、父が心肺停止だったのを受け入れてくれたのもこの先生でした。


「手術など今後の事については、明日の朝脳外科の先生から説明がありますので、9時に来てください。お母さんは個室の方に移動しましたので、会っていってください。」と言われました。


その後看護師さんが、母のところに連れていってくれました。母は意識なく、いろんな機器に囲まれて口に小指くらいの太さの管を入れられて横たわっていました。私は、母の手やほっぺに触って声をかけることしかできませんでした。


後にカルテ開示をしてわかったこと。11時36分に母のイビキで看護師さんが急変に気づき、46分に医師が来て挿管してくれました。この時の血圧は、200。動脈瘤は一つではなく、一箇所に複数の動脈瘤が重なってありました。医師も「再破裂だろう。」と。今でも、この再出血を防げていたらという思いは心の片隅から消える事はありません。続く。

続きは次回。

2月1日に伯父が亡くなりました。


1月29日(土)の母の四十九日と父の七回忌法要に、わざわざ静岡県から車を運転して夫婦で来てくれた3日後のことです。3日に娘さんからの電話で知りました。伯父さんの携帯からかかって来たので、昨日送ったお返しがもう着いたのかなと思って電話を受けたら、まさかの連絡。大動脈解離だったそうです。ショックで、今も立ち直れません。


父方の伯父です。父が亡くなった後も母は父の故郷と繋がっていたかった、それを叶えてくれていた伯父夫婦。毎年わざわざお墓参りに来て、毎回しらすや静岡のお土産を沢山届けてくれていました。


4日(金)に主人と弟と娘と孫で、お通夜に行って来ました。8年ぶりの父の故郷、小さい頃は毎年お墓参りに行ってから2人の伯父家族と海水浴に行った思い出が蘇って来ました。


お通夜の前にお墓参りにお寺に寄りました。記憶を頼りにお墓を探したら、間違わずに行けました。お墓ももう一人の伯父が新しくしてくれていました。みんなで、お線香をあげて手を合わせて来ました。父も母もそちらに行きましたとおばあちゃんに報告しました。


それからホールに向かい、通夜に参列しました。何十年ぶりに従姉妹にも会いました。こんな形ではなく会いたかったねと話しました。伯母とは、「この間はあんなに元気だったのに。」と話しました。伯父は、眠っているようでした。


母と静岡を繋いでくれて、母が寂しくないように最後まで見届けてから逝ってしまったような気がしてなりません。母がいたらそれはそれは悲しんだと思うので、私がその代わりをしたと思うようにしています。


8月に母方の伯母を亡くし、11月に母、そして今回父方の伯父の急逝、続きすぎて辛いです。悲しみはしばらく続きそうです。

救命救急医からの説明は、私と主人と従姉妹の3人で聞きました。くも膜下出血は、とても重篤な病気であること、母の年齢もリスクになること、この後ICUに入院して保存療法(鎮静・止血)後、手術適応になるか判断することの説明がありました。「すぐに手術はできないんですか?」と聞きましたが、「止血しないで開頭手術すると、手術中にそのまま亡くなってしまうリスクもあります。」と言われた気がします。この治療方針に、それ以上手術をお願いすることは、誰もできませんでした。


その後、母との面会ができました。寝た状態で点滴をして、相変わらず目を閉じていました。「わかる?目を開けられる?」と声をかけましたが、反応はありませんでした。後でわかったことですが、弱いながら手を握り返すことはできたようです。右脚は動かすことができたそうですが、左脚は動かなかったそうです。すでにこの時点で、何かしらの麻痺が出ていたかもしれません。


ICUに移動した後の短時間の面会も、同じような状態でした。鎮静して血圧を下げている状態ですが、意識はあると後で知りました。もっと声をかけてあげれば良かったと後悔しています。


11時頃、私達は自宅に戻りました。嘔吐で汚れた母の衣類を洗わないとと思っていると11時45分頃また病院から電話がありました。嫌な予感がしました。続く。