昭和の働き方2 | 昭和を懐古する部屋(パニック障害と共に歩むじじぃの話)

前回は新ジャンルとして,父から聞いたサラリーマン時代の働き方について記述しました.昭和おやじは戦記物オタクだったので,多少は昭和初期の世相を文字から得た知識として知っておりますが,ホントはどうだったのかなぁ,という視点で年配の方から当時の話を聞くのがけっこう好きだったのです.で,せっかくなので,父から聞いた父親(私の祖父です)の働き方についても,ここに記録しておこうと思います.

 

父は昭和9年生まれで,太平洋戦争開戦時は7歳,終戦時は11歳という年代であり,祖父は戦中の一時期を除いて(この話は別の回で)魚の行商で生計を立てていたそうです.といっても,街中で魚屋を営んでいたのではありません.愛媛のある港町から56kmほど内陸に入ったある山間の村に居を構えていたのですが,祖父は毎日朝3時に起床,そして大八車を引いて港町まで下りて行き,魚を仕入れて村まで戻り,それを売り歩いていたそうです.うーん,聞いているだけで胃が痛くなるわぁー.生きるって辛いわぁー.1日たりとも真似できないわぁー.

 

父は戦後の中学生当時,学校が休みとなる休日には,祖父の仕事を手伝って港町まで同行したそうです.イヤだなぁ.で,そこで見たことを懐古してくれたのですが,漁から帰ってきた漁師達は,一刻でも早く仲買人と交渉するために,ベストポジションに船を着けようと鍔迫り合いをしたそうです.

 

 

 当然のことながら,小競り合いは日常茶飯事であり,時には,殺し合いになるんじゃないか,というようなケンカもよく目にしたそうですよ.父も“まぁ,小学生当時の記憶だけどね”,と笑って言っていましたが,そんな大の大人達の生活を賭けたケンカなんて,テレビや映画以外ではただの一度も見たことがありまへん.見たくもないっす.

 

で,その時の祖父の様子を聞いたのですが,日ごろから付き合いが深く仲の良い漁師へ加勢するため,ケンカに参加したそうです.イヤ,子供をほおってケンカに加勢するなよ,などと言ってる場合ではありません.ケンカを傍観したが故に漁師との仲が途切れてしまっては元も子もないですからね,生きる術を失ってしまいます.心から,生きるって激辛いわぁー.

 

しかし,“そんな所に子供を連れて行くな”ってぇことなんですが,それが当時の普通の情景だったのでしょう.子供の躾だったのかも.よく,社会文化学者(?)みたいな肩書の人が,「狩猟民族の欧米人に比べて農耕民族の日本人は温厚で・・・・」なんてことをメディアで話しているのを目にしますが,イヤイヤ,日本人も生活が懸かると激しいのですよ,父からの又聞きの話で実際に見たわけじゃないんですけどね.

 

そんな祖父は,父が高校を卒業する直前に咽頭がんで死んだそうです.南国愛媛とはいえ,ろくな暖房もない山間の村です.起床する深夜の3時ともなると夏以外は底冷えがして,仕入れに出掛ける前は必ず,熱々の熱燗をひっかけていたそうで,それが原因じゃないか,と父は懐古しておりました.切なく厳しい世相だったんですなぁ.そんな祖父を夫に持ったばあちゃんの苦労は,もはや想像もできませんが,あまり長生きしたとは言えませんでした.

 

その分,父親世代の方達には長生きしてもらいましょう