西寺跡 | 芸舞妓と京都

西寺跡

世界遺産東寺に対して西寺が存在していたことがあった。


西寺は平安京の右京九条 一坊にあった官寺。羅城門西側にあり、 羅城門を挟んで東寺と対をなしていた。

跡地は現在の京都市南区唐橋西寺町(位 置)で、「西寺跡」として国の史跡に指 定されている。




西寺の基礎



講堂跡


西寺についての説明。


西寺について

東西寺の造立がいつ頃始まったかは不明で『類聚国史』の延暦16年 (797年)4月4日条に笠江人が造西寺次 官として記載されているのが記録上の初 見とされる。弘仁6年(815年)に造西 寺司が任命されて以降、関連する人事記 録は見られないため、これ以降に一応の 完成をみたとされている。

嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東 寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとさ れるが、『高野春秋編年輯録』に記され たこの記録は伝説性が強いとされてい る。天長9年(832年)には講堂が完成 した。その後貞観6年(864年)まで に薬師寺から僧綱所が西寺に移転され た。醍醐寺縁起には延喜6年(906年)に聖宝が西寺別当となったという記述が あり、西寺の整備を行ったとある。これ 以降他寺出身者が西寺の別当となること がはじまった。

正暦元年(990年)に火災があったが、ほどなく再建されたと見られる。建久年 間(1190年代)には文覚が塔の修理を 行った。しかしその後荒廃し、再建された 塔も天福元年(1233年)に再び焼失、 以降に廃寺になったと考えられている。 しかし、たなかしげひさは『二水記』大 永7年(1527年)10月27日条に「西寺 に陣を敷いた」という記録があることか ら、戦国時代の中期頃まで西寺は存続し ていたと推測されている。

西寺の衰退原因は立地である右京の水は けが悪く、平安後期には住民がいなく なったために環境が悪化したことや、 朝廷の支援を受けられなくなったことが指摘されている。