留学から戻って卒業して、就職して、再度海外まで出るまで…

 

実はこれが人生で一番つらい時期だったと思う。

 

細木数子的に人生の仏滅大殺界的な時期だった。

水遊びでもできそうな夏の気候が続くタイから引きずり戻された、日本は真冬。貧しさに負けた~いぃぇ、寒さに負けた…

 

日照時間も短いし、寒いし、日本人のリアクションはタイ人と違いすぎて妙に戸惑うし、今までやろうとしたことが普通にできないことが物凄くストレス、窮屈に感じた。加えて、即刻風邪をひき、更にそれまで蓋をしてきた親子関係のいざこざが一気に爆発し、半鬱になったワタクシ。

 

リアルに失語症の様に言葉が出なくなり、夜眠れなくなり、全てがどうでもよくなり、苦しむ自分を嘆く自分と「ざまあみろ」とあざ笑う自分がいて、自分が何を感じているのかよくわからなかった。

 

なんでこんな状況になってしまったのか…アタシはただ、タイで普通に与えられた環境で既に幸せだったのに、何だろうこの心に感じる重圧と足かせは…

 

そしたら、どんどん生きているのが苦痛になってゆき…もう立ち上がれないんじゃないかって…

 

しかし、私はしぶとかった。

 

生きることそのものが嫌なわけじゃなくて、その時、日本で自分がいた状況が嫌なだけだったので、まだ救いがあったんだと思う。

 

カウンセリングに通い、心療内科にも通いながら様子を見ていたけれど、夏になるに従って段々元気になり、更に、バンコクで仲良くしていた友人が日本に転勤になり、何とか状態を立て直した。

 

それでもやっぱりずっと心から消えなかった考え…

 

「やはり、海外に出たい!」

 

こうなったら片っ端からアジアを見て、将来の移住先を見つけようと決心し、アジアの旅を始めたのである。

最初に訪れたのが香港。

画像1


タイと異なり英語が通じる率がとても高く、また、どちらかというと先進国の雰囲気があり、インターナショナルで、全てスタイリッシュに見えた。


「あ!ここ香港映画で見たことある!」という場所が街のいたるところで見受けられ、気分が高揚した。


ネットで知り合った同い年の香港人と友人になり、色々街を連れて回ってもらううちに、すっかりこの街に恋をしたワタクシ。
 

いつかここで生活がしてみたい…

 

そう心に思ったまま、様々な国を巡った。最終的に香港、マレーシア、シンガポールを候補に挙げ、シンガポールとマレーシアに1ヶ月ずつホームステイもしてみた。


最終的に香港をその当時は一番気に入って、将来ここを目指そうと新たな目標が出来た。就職活動をする際にも香港へ行けそうな可能性のある会社だけを選出して就職活動を行った。

 

その中の一つが熱烈なオファーをくださった。しまいには「香港行かせてあげるから!」とか言い出す始末…今考えればすでに露骨に怪しかった…。

一方では誰もが知っているような海外展開も行っているファッションの大企業で、でも駐在はおそらく可能性ないだろうなぁ…という会社からオファー。

普通に考えたら後者を選ぶのが一般的だし、皆にそうしろと勧められた。

でも香港行のエサに食らいた卑しいワタクシは、まんまとブラック企業に入ることになったの。まるでゴキブリホイホイのように入って行ったワタクシ。罠に飛びいる…若きG…ay

 

インターナショナル、ファッション業界、商社、香港駐在…

 

そんなイメージを胸に入社したワタクシを待っていたのは、書類上東京に本社を構えるだけの田舎企業。

 

伝統を大事にしているだか何だか、入社後3か月は地方の事実上本社の方へ研修として送り込まれた。

 

たどり着いたのは、インターナショナルとは無縁のド田舎で、ファッションではなくジジババ衣料品を扱う事業所。

 

個性を大切にと言われていた大学時代から一転、上下関係の厳格な村社会のド田舎気質の会社で、お山の大将ににらまれ速攻村八分になったワタクシ。

 

ファッション業界の人にはこういうシャツがお勧めと勧められたチェックやボーダーのシャツを着て行けば「派手だ!」と怒られ、無地の白シャツを着て行ったら「アパレルの会社なのに地味過ぎる」と言われ、

 

「じゃあ方眼紙みたいなガラのシャツを着ろってことですか?」

 

と、本気で、言い放つワタクシ。

 

研修が終わり、東京へ戻ったところで、社内の文化はまるっきりそのまま。

 

何なら商社なのに、英語ではなく、方言しか飛び交っていなかった…。

 

就労時間は9時半から18時と定められていたものの、ふたを開けてみれば8時までに出社し、20時までは絶対に帰らないというのが暗黙の了解になっていた。もちろん残業代はなし。

有給は病欠の時に深々と謝罪したうえでやっと許可が認められるようなもので、私用で有休というのはまず不可能だった。更に土曜日も出社しろという始末。

それだけ時間が縛られているので、昼間の営業中の店にはまず行くことは出来ず。そんな折、ワタクシ、ストレスが祟りすぎて、顔面中どころか、頭皮にも吹き出物が大量にできたうえ、汁まで滲み出す次第だったので、皮膚科に行きたいと思いたつ。

病気っていうのは場合によっては物凄くプライベートな事だし、誰かが「病院に行ってくる」といえば、心配はしても執拗に「何の病気か、どの科に行くのか」なんて…まして、職場の人に聞かないことは当たり前だと思っていたワタクシ。

 

だけれども、そういう雰囲気を醸し出してるのにもかかわらず、案の定、上司はワタクシの神聖なる心の領域に小汚い便所サンダルで入って、

「どうした?どこが悪いんだ?業務時間中に行くんだからそれくらい言う義務があるだろ?」
とまくし立ててきたので、思わず…

「泌尿器科ですけど、他にご質問は?症状とか病名病状をお伝えすべきですか?」

 

と言い放ったワタクシ。

思いの外、声が大きかったようで、無駄に響き、水を打ったよに静まり返るオフィス…

 

そして、ある日とどめとなる事件は起こる。

父親の様に面倒を見てくれた地方に住んでいた叔父の危篤の連絡をもらい、会社からお休みをもらいお見舞いへ。

最初は移動とお見舞いを含め、2日くらいで帰るつもりが、そのまま亡くなり、葬儀への運びとなり4日くらい休んだ。土日を含め、全く使う機会のない有給休暇を2日用いただけである。

 

会社に戻り部長へ「有休をとってしまった謝罪」に行くと、部長の雷が落ちた。

フロア内に響き渡る声で
「喪主でもないくせに4日も休みやがって!ふざけるな!」
と、怒鳴られた。
⋆有給とったのは2日だけ

そうか、社会人になったら身内に不幸があってもお悔やみのひとつも言われず、悲しんでもいけないのか…と思ったワタクシは地獄に叩きつけられた。なりたい自分像・目指したい人物像がその会社にはなく、むしろ「こんな人になりたくない」って人しか昇進していない会社で、このまま定年退職までこの生活をするのかと思うと絶望しかなく、心のバランスを崩し、気がついたら線路に引きずり込まれそうになったり、ビルの屋上から身を乗り出しそうになったり…逃げ場のない強制収容所にでも入れられた捕虜の様に感じる毎日だった。

 

そんなこんなで、新卒だったワタクシは「そうか、社会人てこういうものなのか…」と信じ込み、転職をしたところで他の会社も皆こんなものだと信じ込み、絶望したものである。

 

終身雇用が当たり前の会社で、人事のフォローアップの面談で、そんなことを言ったところで

「わかるよ…辛いよね。でも、正しい事を言うことは正しくないかもしれないから我慢してみようか。

 

とたしなめられる始末。

 

「ここでの内容は、ここにいる人たち以外の誰にも絶対に公開されないから」と但し書きのついた20代後半、30代前半が取り仕切る若手集会の内容は当然上司に全て筒抜けだった。

 

ハナっから何も信用していたので何を聞かれても「いぇ、特に何もありません」と言っていたのに、「不満の一つでもあなたから聞かない事には集会は追われません!!」みたいな雰囲気になってしまい、100万歩譲って「業務時間として規定されている時間外の時間が少し長いと思いますねぇ…」くらいにやんわり言った。

 

・・・ら、

 

翌朝の朝礼で全員の前で

お前、ずいぶん生意気なこと人事に言ったらしいな?何様のつもりだ

と怒鳴られた。

匿名のはずの内容、実名で駄々洩れ―!

 

そんなこんなで、仕事をこなすよりストレスをやりこなすことに心血を注ぎ、耐え続ける日々。気がつけば体重は15㎏くらい増え、吹き出物まみれになり、目は吊り上がり、いつでもピリピリしてた。

 

でもまぁ、4年半その会社に、頑固な油汚れの様にこびり付いて、粘った。

 

そして、夏休み目前に、
「そういえば、もう4年半も働いてるし、海外転職ってできるのかな?」って思い、つい出来心で香港にある人材派遣会社に履歴書を送ってみた。

 

「休暇を取って香港に行くのでその間に面接を受けられるところがあれば…」と送った救難信号。

そしたら1社、ご紹介頂き面接をする事に!
 

人生の歯車が大きく動くのを感じワタクシ。

 

…ところがそこがまた人の命に係わる仕事で…

 

続く。