ご参考までにしみっちのコメントを含めて掲載させていただきます。~
mahibi13さん
ご感想ありがとうございました(^^)
5/23共鳴感想
全体を通して、普通の感じです。
いいですね(^^)
真我は真の普通です。
それに止まり、理解を深めてまいりましょう。
それはそれで良いのでしょうが、感想に困ってしまいます。
感想は仮に「普通でした」のひとことになってもOKです(^^)
書こうとしている時点で、共鳴、真我へフォーカスする時間になっていますので、そのこと自体が役に立っています。
このセッションは終わった後、感想が思い浮かばないセッションでした。
敢えて言うならば、
胸に空洞が空いていて、なにも思いが無い感じがしています。
いいですね。
空っぽですが、それに微細ながら気付いていますから、その気付きで満たされた空間とも言えますね。
所有は限定です。空っぽは限定がないということです。
言い方を変えますと、
空っぽは、すべてである一なるもの、そのものであるということです。
空っぽでもここに在るものなので「実在」とも呼ばれます。
この実在から、すべての顕れが顕れていますから、源とも呼ばれます。
そして、それは普通に今ここに大前提として在ります。
セッション中、しみっちさんが話をしている時自分を見る(観る)余裕があり感じていました。
そうでしたか
それはとてもいいですね(^^)
「観よう」としておらず、自然と観ているが起こっている・観ているで在るという感じでしたでしょうか。
わずかでも、そういう感じでしたら、その自然と観ている気付き・意識は真我と言えます。
共鳴中は、今回のように「それ」が強まって、自然と「観る余裕がある」となったりします。
しかし、共鳴中でなくとも、それがいつでも、mahibi13さんの本性です。
今、これを読んでいるのは、それです。
今、ここに大前提として在ります。
何も考えず、わからないまま、そっと、迷わず即、それで在ってください。
それに寛いでください。
これは空っぽで努力が要らず、ここにすでに在りますから。
そして、空っぽのままでも、「自ずと」すべてに気付いています。
「自ら」が気付き(意識)であるからですね。
物事はその中で、「ただ起こって」います。
・・これは、日常において、考えにのまれているときも、身体や感情がどんなときも、いる場所がどこでも、
これが自分であることは絶対に変わりません。すべてこの中で(ここで)起こっているからです。
なので、これは動きません。
この不動なるものにて、動くもの(現象)が顕れています。
肉体的な感じは、鼻から下が温かい感じがありました。
「身体が」「温かい」ことに気付かれてもいたのですね。
(通常、「身体が温かい」と言いますが、視点を変えると
「温かいが身体している」「温かいを通して身体という顕れを体験している」などとも言うことができるかもしれません。
意識の中に、感覚が起きていることで、「身体がある」と思えますが、感覚がなくなったら身体があるとは決して思えませんね。)
共鳴が終わる時、しみっちさんが「はい」言われる時に一瞬深く入って戻るという感じがして「なんだろう」⁈
マインドを超えたところにおりますね。
その後、マインドにほんろうされていますが気付いた時は、今で在ろうとしています。
素晴らしいです
とりとめない感想でした。
次回もよろしく楽しみに待ってます
とても素晴らしいご感想をありがとうございました(^^)
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