~個人セッションをお受けいただいている mahibi13さん から、合同共鳴とセッション等のご感想をいただきましたので、
ご参考までにしみっちのコメントを含めて掲載させていただきます。~
mahibi13さん
こんにちは。
ご感想ありがとうございました(^^)
コメントを書かせていただきましたので、ブログにてシェアさせていただきますね。
mahibi13です。
全体にボヤけている印象です。
前半は、マインドを追いかけている感じで内容もよくわかったのですが、後半はわりとニュートラルでぼーっとに近かった?かな。
感情の振幅が小さくゼロに近かったと言えるかもしれません。
ニュートラル、ゼロ、とてもいいですね(^^)
観ている意識は、本当にただ観ているので、マインドを追いかけることもしません。
特定のものだけを観ているのではなく、起こっているすべてを観ています。
自然と観るが起こっているので、観ようとしているわけでもありません。
マインドが静まったとき、ただ観ている意識が在るだけ、存在しているだけとなります。
そのとき、自然と個を超えています(個が起きていない)。個がないことは普段も頻繁に訪れる自然な状態です。
ニュートラル・ゼロとは、自然な落ち着きどころであり、存在そのものの名前です。
セッションが終わった後、感想を書いている時、自分をみると比較的普通に落ち着いている感じ、また少し物足りない感じもします。
落ち着いている感じ・・とてもいいですね。
物足りない感じ・・の「足りなさ・不足感」は、マインドの「もっと」の働きですので、そう知っておいていただくといいかと思います。
存在はもともと満たされたものですから、存在していることに落ち着けるようになると、条件の要らない存在の喜びに開かれていきます。
「いかん、いかん、ニュートラル、ニュートラル。」
セッションう中も、こういうマインドの動きですね。
マインドをどうにかしようとするのもマインドですから、どうにかしようとすると、マインドが止まりませんね(^^)
映画の中の火事を、映画の中の人物が消そうとしても、映画は消えません。
思考を思考で消そうとしても、思考を消そうという思考が起きたままです。
マインドを「どうにかしようとせず」、「自分のものにせず」、「そのままにして」ただそっと気付いていてくださると、それが意識そのもの(真我)の在り方・立ち位置ですから、そのまま真我・ニュートラルとなっています。
マインドも真我から起こっているので、個人のものではありませんから、そのような在り方であることで、自然とマインドとの同一化が解かれ、個人を超えた在るだけに落ち着きます。
しかし、マインドの習慣が働いていますから、徐々に落ち着いてくるかと思います。
その様子を見てまいりましょう。
皆さんの感想にある、在るという感じがよく分からないですね。
在るは特別な状態ではなく、
マインドの動きに気付き、それをぼーっとさせることをやっていました。その繰り返し。
繰り返しが大切です。そして、成果を求めずたんたんとされるといいですね。
そうしてふとしたときに、落着き・穏やかさが自然とそこにあることに気付かれるかもしれません。
このぼーっとするのも、あまり好きな感じではありません。
自分としては、もう少し鮮明な感じが好きです。
瞑想している時も、ぼーっと集中しているようにしています。
色んな想念が湧いてきたら、ぼーっとさせてマインドを停止させている、これで良いのか・・・
普通の感じです。
「普通の感じ」 はむしろ、大正解・大成功です。
しかし、「これでいいのか?」という思いが出てきますよね。
しかし、本当に「これではダメな」のでしょうか?
フーマンの『恩寵の扉が開くまでⅡ』より
「あなたは今のあるがままで大丈夫だ。
しかし、マインドは、このままではダメだと言う。
絶えず「これをしなさい」「あれをしなさい」と急ぎ立てる。
・・・(中略)
マインドはコンピュータだ。
・・・
それに働きかけないとそれがあなたの人生を支配する。(しみっち注:「無意識的にそれにのまれていると、その働きのままに生きることになる」)、
しかし、そこから自由になると、それが何を言っても「な~んだ、これは単にマインドが言っている事ではないか!」と見抜いて、それほど影響を受けなくなる」
「マインドは決してあなたを「これ」に止めようとはしないのだ。
マインドはいつでも、「もっと」あると言う。
私は「もっと」探求する必要があると言う。
そして、そう言い続ける事で、あなたを「これ」に止めさせない。」
普通の感じ・・ニュートラルであり、ただ在るだけでありますが、これがマインドを超える恩寵の扉でもあります。
そして、新鮮さについても、
「新鮮さ」を、マインドの「もっと今までしたことがないことをしたい」ということで得ようとすると、止まることができませんね。そして、それで得る新鮮さは、一時的なもので、慣れると新鮮でなくなり必ず飽きてしまいます。このマインドの働きに無自覚でいると、ただひたすら何かを追い求めては飽きてしまい、真に満たされることはありません。
真の新鮮さ、永遠の新鮮さは、マインドの外(記憶の外、意味付けの外)にあります。
それは目の前に見ることもできます。
目の前のものが新鮮ではないならば、それはマインドが記憶で意味付け名前付けし、過去をそれに見ているからです。
マインドは概念でわかっている(過去を見て知ったつもりになる)ことで安心しようとしがちですが、あえて未知なるままでいてください。
名前や意味をつけず、なんだかわからないまま世界を見れば、すべては新鮮さで輝いています。
『あたらなる世界』(著:MERTH)より
「今 本当はどこなのだろう・・・
人の名付けた地名ではなくて
人の決めた国名や地球ではなく
その当のものはどこなのだろう
それは 人が決めるだけで
永遠にどこかわからない
と・こ・ろ」
「何も知らないということは
すばらしいこと
この世界のこと
本当は何も知らないと気づくとき
未知なるところにいると気づくとき
とてもうれしくなるのです
本当のやすらぎは
そんなときおこってくるのです」
そして、この新鮮さは、存在そのもののもう一つの名前です。
存在している・・これ以上の未知・奇跡はありません。
存在は新鮮さそのものです。
色々と感想を書きたいと思っていたので遅くなってしまいました。
別になかったみたい・・・
(^^)
来週もよろしくお願いします。
今回も素晴らしいご感想をありがとうございました
★真我・空・愛の共鳴「ゼロ意識共鳴 お試し個人セッション」受付中
ランキングに参加しています。よろしければ、応援クリックをお願いします(^^)