1日の終わりに哲学で人間を深めるひと時。 

令和哲学者Noh先生と5人の侍で開催している第801回令和哲学カフェ

 

テーマは「人間とは」

 

Noh先生の「若者が世界の希望」と語る人間力、人間関係力に感動したという小林さんのエピソードに涙。

 

映画「ドライブ・マイ・カー」を題材に、道徳の観点から人間について深める。

 

月曜日:小林 隆人さん

火曜日:花輪 稚佳子さん

水曜日:池田 健吾さん

木曜日:大場 龍夫さん

金曜日:長岡 美妃さん

 

 

昨日は大野さんから映画「ドライブ・マイ・カー」について、小林さんからジル・ドゥルーズについて、プレゼンテーションがありました。

 

親からすごく愛されて育ったが、小さくて、かわいくて、おもしろくて、明るいという一部分ではなく、ありのままをみて欲しかったという大野さん。

映画「ドライブ・マイ・カー」でも人間のもろさや愚かさなどをありのまま描いているところに共感したとのこと。

 

登場人物は自分自身の中に「罪悪感」に苦しみ、葛藤している。それをどのように乗り越えていくのか。

 

取り返しのつかない後悔は、誰もが1つくらいあるのではないでしょうか。

 

ドゥルーズは著書『アンチ・オイディプス』の中で罪悪感とは何なのか、それを克服するにはどうすればいいのかについて語っています。

 

ドゥルーズがアンチ(反対)しているエディプスコンプレックスとは、

①母親への強い愛情。

②父へのライバル意識

③父親からの嫉妬からの恐れから、父親と同一化して一人前の男性になる。

 

上記のような過程で見てとれるように、欠乏から欲望が生まれ、それを埋めるために消費する。このことによって資本主義が成り立っている。

そうして資本主義に適応している人が当然という価値観が生まれ、そこに適応できないのはおかしい人となる。

 

そこに対してドゥルーズは、様々な欲望は生産や変化をつくり出すと規定。

 

器官なき身体である無限に錯乱する欲望は「存在そのもの」に由来する力。

そこから分裂したものが「欲望する機械」で、「欲望する機械」になれば権威への従属に陥り、それができない場合は病気とされ「罪悪感」に苛まれることになると説きました。

 

欲望する機械から判断する事実判断ではなく、本来の欲望からの価値判断をする、本来の欲望に従うノマド的な生き方、リゾーム型組織をつくることを提唱。

 

罪悪感はどのようにして生まれるのか?というテーマでのディスカッションが展開。すごく深い内容が心に刺さりました。

決まったフレームの中で、守りたい価値が生まれるが、何かが起きた時に理解できない事態に陥ると、周りの期待に応えられず罪悪感に至る。

 

お母さんのお腹から出た時に、へその緒を切られることから、つながりの不在状態になる。

自分の排泄物も処理できない自分の現在地が無意識で分かる。何も知らないし、言語が足りないから自分の気持ちも表現できない。自分が何者かが表現できないから、必要とされない。そうなると、関係構築ができないから意思決定ができない。

関係構築ができて、意思決定できて天命をまっとうするが、それができないので、大事なものが守れなかったことから罪意識にいくとのNoh先生のお話に深く納得。

よくこのような整理ができるなと、いつもビックリします。

 

罪悪感は自分を否定することで、大きくクォンタムジャンプできるエンジンになるというお話に感動しました。

 

罪悪感は自分をいじめるためのだけでない。

否定を道具に大きく変化をしていこう。

今晩も楽しみです。

 

川名 哲人