実はわきおは歴史考察もちょっと好きで
アメブロは色んな分野の方がいらっしゃるので
わきお的な解釈を書いてみたいと思います。

・・・でも歴史オタクではないんだからね!!

(´・ω・`)チガウヨ

先に言っておきますが「邪馬台国はここに有った!!」という話ではなく
『こういう意図から、こういう書き方をしているんじゃないかな』という考察です。
逆に言えば、魏志の記述から位置を推察することはできないんだろうなというに所に行き着いてます。
たぶん既に同じ事言ってる人もたくさんいらっしゃる気がしますが。



というわけで、本題に入る前に
まずいくつかの前提をだいぶ噛み砕いて並べます。
( ゚д゚)ノセツメイシヨウッ!!

はい、歴史嫌いだった皆さ~ん
わきお先生と授業のおさらいですよ~♪
\(´∀`)/

◆邪馬台国とは
中国の「晋」という国が作った歴史書「三国志」に出てくる日本のどこかにあったという国。
この頃の日本は自力で歴史書が作れる技術レベルではなかったので
日本にあった国なのに日本の歴史書には記録が残っていません。
しかし、邪馬台国が「三国志」に出てくる中国側にあった国「魏」に味方していたので、中国側の歴史書に記録が残っています。


◆晋と三国志とは
昔々のある時代、中国は「魏」「蜀」「呉」という三つの国に分裂していましたが
「魏」の重鎮であり実質的な支配者だった家系が「西晋」という国を興して「魏」を征服し
続いて「蜀」「呉」を滅ぼして中国を統一してから「晋」と改名しました。
そして正当な王朝だとアピールするため「魏」「蜀」「呉」の興亡と主要な出来事を記し
いかに「晋」がそれを正当に統一したかを示した「魏志」「蜀志」「呉志」の三部から成る「三国志」を作りました。
そんな経緯から、「晋」とその前身である「魏」の正当性を示すバイアスがかかった書物であるという意見もあります。
*「蜀」の劉備が超いい人として描かれているのは「三国志演義」という別物の創作物


◆三国志での邪馬台国の描かれ方
「魏志」の中に「倭人伝」という日本パートがちょっとだけあり
邪馬台国に卑弥呼という女王がいるだとか、魏に味方して金印を送られただとか書かれています。
その中に邪馬台国への経路も書いてありますが
「朝鮮半島と九州北部を経由して、船でしばらく南に向かうと着くよ」という表現で
北九州までの距離や経路は細かく書かれているのに、その先は急に曖昧な書き方になっていて
それに従うと九州とフィリピンの間の海のど真ん中に行き着くんだとか。
ChatGPTさんに距離を計算してもらったところ、朝鮮半島(帯方郡)から約3,780~4,180km。
そのせいで「邪馬台国どこやねん」論争が起きています。





ではこれを踏まえて本題に入ります。
(゚д゚)チェケラッ!!

実は魏志には「魏」に味方していた重要な国がもう一つ出てきます。
それが中国西のタリム盆地の辺りにあった「大月氏国」。


「魏」のライバル「蜀」の背後に位置していたので、「蜀」に挟み撃ちを警戒させることで

大いに牽制に役立ったとしてこちらも金印を送られたと書かれています。

ChatGPTさんによると「魏」から「大月氏国」までの距離は約4,500kmで、先述の「邪馬台国」までの距離と同じくらい。
当時の中華思想上では国の中心である王の居所からの距離も立場を表す要素なので
「邪馬台国」と「大月氏国」は同じような扱いだったと推察されます。



ここで思い出して欲しいのが、魏志倭人伝上での邪馬台国の位置。
海のど真ん中ですが、「魏」から見て「呉」の背後にあたります。




つまり、魏志上では「邪馬台国」と「大月氏国」には
・「魏」の敵国の背後に存在した味方国
・「魏」から同じ程度の距離
・「魏」に味方して金印を送られている
という共通点があります・・・あくまで魏志上では。
ちなみにどちらに送られた金印もみつかってません。

また、三国志が「晋」や「魏」の正当性を強調する書き方をしている可能性や、当時の中華思想を含めて考えると
「大月子国」のように貢献する国が「魏」に従ったことを、魏王の功績として扱うこともあり得ると思うので
実際の位置がどうあれ、「邪馬台国」が「呉」の背後にあった(牽制に貢献した)ことにしたかったのではないかと思います。
そうすれば「邪馬台国」が「魏」に従ったことを魏王の功績として描けるからです。

そう考えると

魏志には実際に邪馬台国があった位置や、ここに有ると思っていた位置ではなく
「ここにあって欲しいという理想の位置」を書いた可能性も大いにあるのではないでしょうか。

それにこの解釈だと、邪馬台国への経路や距離の書き方が

九州北部を超えたあたりから急に曖昧になることも説明がつきます。
実際には存在しない経路を書きたいのに、九州北部までは当時も比較的往来数が多くてごまかしようがなかったでしょうし。

言い方を変えると、「邪馬台国」の実際の位置を記していない可能性が高いように思うので
魏志倭人伝の記述から場所を推定しようとすること自体がそもそもナンセンスな気がするのです。

(´・ω・`)