早大合格への道6 | 昭和・足立区DAISUKI!

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生まれも育ちも足立区。
昭和から60年暮らす足立区が好き!!

昭和を振り返り、生涯で忘れられない受験生活。
苦い経験を先月から語っております。
それでは続きです。
 
現役時には三校受けたわけですが、まず雰囲気に飲まれてあがってしまいました。場慣れが必要で、大学会場で模擬試験を何度も受けておきたいものです。
文章の同じ所を何度も読んだり、難しい問題につかまったり。問題集をたくさんやって、要領よくこなすことが必要です。
大男と相撲を取って、簡単につまみ出された感じでした。
 
ちなみに我が高校のレベルは一応受験校ながらその中でも下の方で、現役で合格するのは独協や国士館あたり。日東駒専なら御の字で、法政明治立教青山中央はかなり厳しい。国立や早稲田慶応上智となるとめったに合格しません。
 
体調は一応整え、ざぶとんや水筒を持ち、1時間前には入場しておさらいをしながら心を落ち着けるようにしましたが、実力不足ではどうしようもありません。神頼みする人を見かけますが、その暇があったら勉強しましょう。
 
それと、早稲田大学商学部の受験の際、町屋駅から早稲田まで都電荒川線に乗ってえらい目にあいました。
通常なら40分ほどで着くのですが、朝のラッシュ時には前後に車両が詰まっているし、乗降客が多くて停車時間が長くなり、通常の倍以上時間がかかるのです。早く家を出ていたから助かったものの、ギリギリに出ていたら遅刻していたところでした。乗って向かう間ハラハラドキドキ。これに懲りて以来、早稲田大学には地下鉄で行くことにしました。
 
さて、1981年3月19日は合格発表でした。
うちから東武伊勢崎線、営団地下鉄日比谷線、東急東横線を90分ほど乗り継いで都立大学駅で下車。15分ほど歩いて構内に入り、受験番号が張り出された紙を見ました。
 
高校受験時には番号がありましたが、今回はやはりありませんでした。合格者は大きな封筒に入った入学要項をもらって大喜びしていました。
帰り道は情けないやら、寂しいやら、悔しいやら。
電車の中で、足りない頭でさんざんいろいろ考えました。
 
既に3月6日、早稲田の商学部の合格発表の日に高校の卒業証書授与式を終え、3月末で高校生ではなくなりますから、身分は不安定になります。4月から行く所がありません。もちろん就職もしていませんから収入もありません。
 
帰宅して親に結果を報告。どうか浪人させてほしいとお願いすると、一年だけ、予備校代金は立て替えてやるから、来年の受験資金はアルバイトして用意しておくようにと言われました。
これで浪人決定。もう後はなくなりました。
屈辱を晴らすチャンスはもらったものの、時間が足りないというのにアルバイトをしなければなりません。
 
翌日、高田馬場に向かい予備校探しをしました。
駅を出ると右に行けば早大ですが、左に行くと予備校街で、身分がまったく異なります。
駅の周辺には予備校の勧誘の看板やポスターがたくさん貼られていて、殺気だっているように感じました。こんな環境で1年間みっちりと修業をしてこそ栄冠をつかめるのかと思ったものでした。
早稲田学院、早稲田予備校、早稲田ゼミナールなど、いろいろなパンフレットをもらってきて、母と検討した結果、一橋学院早慶外語の国公立文系受験科に入ることにしました。
 
翌日にはまた高田馬場に行き、駅前の事務所で入学手続き。
数日後、今度は予備校の本校に行き、説明会を受けてテキストをもらうのですが、西日暮里駅で山手線に乗り換えるべき所を京浜東北線に乗ってしまい、赤羽まで行って大慌てで高田馬場に向かうという事件がおきました。
つまりこれまで電車通学をしたことがなく、山手線と京浜東北線の違いを意識していないという世間知らずだったのです。これは良い経験ととなりました。
この事件以降、四月から定期券を買って毎日のように西日暮里駅と山手線を利用することになります。
 
ちなみにこの前日、巨人のエースの西本投手の家が火事になり、奥様が大やけどしたものの、引退した王選手からもらったファーストミットは展示に貸し出していたため無事だった、という新聞記事を電車内で読んだことを今でもよく覚えています。
この頃は若くて記憶力が良く、こんなことまで未だに覚えているのですから笑ってしまいます。


 

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