昭和40年代の日本プロ野球は東京読売巨人軍が圧倒的に強く、今となってはまず困難な日本シリーズ9連覇を成し遂げました。
拙者は生まれながらの巨人ファンで、昭和44年頃からの記憶があります。
この年の日本シリーズでは、巨人・土井のホームインに対する岡田球審の判定に不服を唱えた阪急の岡村捕手がシリーズ初の退場になりました。
プロ野球・巨人戦の視聴率が低迷し、地上波放映がめったになくなって久しいですが、昭和40年代は娯楽が少なかったせいか、巨人戦の視聴率はとても高く、巨人の主催試合はグループである日本テレビがしっかり中継し、他局に渡すようなことはありませんでした。
「ON」こと王と長嶋が打ちまくり、堀内や高橋一三が活躍している頃の巨人はとても強く、監督といえば川上で背番号は77、三塁コーチは牧野で72番でした。
スピードガンなどありませんでしたから、全盛期の金田や堀内の直球やカーブが何キロだったのか、今となっては興味深いです。
昭和47、48年くらいになるとだいぶ力が落ちて最後にどうにか優勝をする展開に持ち込んでいましたが、まだ強かった昭和46年当時、後楽園球場での主催試合は19時試合開始で、日本テレビ系列での生中継は20時から21時24分くらいまででした。たまに土曜日に19時の試合開始から放映が始まることがありました。
20時になると黛敏郎さん作曲のスポーツテーマ曲が流れます。
まずスコアボードが画面に映されます。
当時画期的だった電光掲示板です。
デーゲームでは見づらいものの、オーロラビジョンが画期的でした。
まずここでファンは後攻のGの得点を確認します。
続いて球場全体がさっと映り、グラウンド上の巨人のピッチャーかバッターの様子が映ります。
実況は越智、志生野、赤木、浅見、小川、小早川アナら。
解説は青田昇、佐々木信也、中上英雄、金田正一氏ら。
ペナントレースはたいてい一人で担当し、今のように二人つくのは昭和50年代になってからです。
ちなみに他局の解説には水原茂、別所毅彦、関根潤三、稲尾和久、小西得郎ら豪華な人たちがいました。
メインカメラはネット裏にあり、ピッチャーの後ろのセンターフェンスには森永ハイクラウンと書かれていました。
キャッチャーは森で背番号は27。
インサイドプロテクターなどなかったので、球審は大きなプロテクターを持って大変そうでした。
セントラルリーグの審判には富沢、岡田、丸山、平光、久保田、松橋、大里、山本、田中ら懐かしい名前がありました。まだ線審もいる6人制でした。
人工芝などまだ導入していませんでした。
ドーム球場など想像もしなかった頃です。
甲子園にはラッキーゾーンがありましたね。
当時と今を比べると球場もガラリと変わりましたが、その中で割合変わっていないのが神宮球場です。
ナゴヤ、川崎、東京、広島、西宮、大阪、平和台球場などが懐かしく思い出されます。
ボールは今ほどいちいち変えたり、チェンジの際にファンにあげたりしませんでした。チェンジの時には一塁のコーチに渡したり、マウンド付近に転がしていました。
ユニホームのズボンの裾は今のように伸ばさず、イチロー選手のようにストッキング止めを見せる履き方をしていました。
ランナーやコーチスボックスのコーチはヘルメットをかぶっていませんでした。今思うと怖いですね。
当初は耳あてもなく、田淵選手が耳に四球を受けて大ケガをしてから耳も覆うようになりました。
巨人以外のチームの主力投手の豪華な顔ぶれも懐かしいです。
江夏、村山、星野、外木場、平松、山田、米田、鈴木、小山、八木沢ら、挙げたらキリがありません。
中2日や3日が当たり前、先発にリリーフにと連投も当たり前でした。
昔の野球の方が単純で豪快でした。
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