「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」東京編の洋館巡り再開です。


今回は雑司が谷にある旧宣教師館です。


メトロ副都心線雑司が谷駅からGoogleマップ片手に迷路のような小径を辿りました。

雑司が谷墓地近くの旧宣教師通りの奥にその洋館がありました。

小さな公園のような旧宣教師館の庭では近くの保育園児が走り回ってました。

🇺🇸アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブが1907年に雑司が谷に移り住み、この地で宣教活動や慈善事業・教育活動を行いました。

ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けたマッケーレブの住居にふさわしいく、

木造2階建の建物の細部にカーペンターゴシック様式の意匠が見られます。

1階の食堂、飾り気のないシンプルなデザインですが、どこか温かみを感じます。

明るい光が差し込む食堂のコーナーにはマッケーレブ師の胸像がありました。


1階食堂隣り、応接室兼居間の暖炉

暖炉の両側には植物をモチーフにしたアール・ヌーヴォー風の絵柄タイル、

上部にはブロークンペディメント風の欅材の飾りと鏡が付いてます。


食堂前の広縁は全面ガラス窓で明るいサンルームになっています。

広縁の階段から2階に上がります。

2階は1階とほぼ同じ間取りで寝室・書斎の外は明るいサンルーム

2階の書斎、2つの寝室が展示室に使われてるのでこの部屋にベッドが置かれてました。

建物中央の三角の煙道を囲むように各室の暖炉が設けてありました。


割竹が使われた2階の格子天井

米国のカーペンターゴシック様式ですが、館内外に日本の大工の技が活かされてました。



老朽化した旧宣教師館を取り壊しマンションを建設する計画がありましたが、


地元住民の反対運動が日本建築学会の保存運動に展開しました。


保存が決定され豊島区が取得・復元工事を行い、創建当時の姿となりました。


敷地の一角に置かれた少女像、雑司が谷幼稚園を開園し幼児教育にも尽力した敬虔なクリスチャンマッケーレブ師が偲ばれます。

マッケーレブ師は日米戦争が迫った1941年に帰国し、帰国後は大学で東洋文化を教え、1953年にアメリカで永眠しました。



【おまけ】現存する全国の宣教師館

現在、全国に宣教師館が当時の姿で30ほど残っているそうです。

近くを旅する機会があれば訪ねてみたい。


このパネルでは京阪神や中国四国地方に残ってないことになってますが?


※西宮の関西学院大学聖和キャンパスにヴォーリズが設計した宣教師館がセミナーハウスとして残ってます。

※京都御苑東側の新島襄旧邸近くにある同志社大学フレンドピースハウスは宣教医J.P.ペリー邸、雑司が谷宣教師館の外観と似ています。



旧宣教師館見学の後、雑司が谷から江戸川橋まで歩きました。つづく