私の生まれ故郷の平野郷を訪ねたのは十数年ぶりです。

生家はすでになく、父母の墓と子供の頃の思い出だけが残る故郷です。

 

私は1946年1月に大阪市平野区(当時は東住吉区)の平野郷で生まれました。
6人兄弟の末っ子でした。

 

平野郷はかつて環濠の自治都市を形成していた本郷七町のエリアを指します。

本郷七町を囲んだ濠はなくなり、周囲の田園が住宅地となって旧平野郷の境界を知る人は少なくなりました。

 
平野郷は起原を平安時代に遡る歴史の古い環壕自治都市です。
平安時代の初期に坂上広野麻呂(征夷大将軍坂上田村麻呂の次男)の荘園があり、杭全神社が創建されています。
坂上氏の荘園はその後宇治平等院領となり、織田信長の直轄地や大阪夏の陣で灰燼に帰した歴史もありました。
江戸時代は坂上氏の末裔の末吉氏が代官となり河内木綿の集散地として栄えました。
小学校の同級生に末吉君がいて、彼の家はとても大きなお屋敷だったと記憶しています。
 
私の生家は平野本郷七町の一つ流町にあり、家のすぐ近くに流町のだんじり小屋がありました。
街で見かけただんじりのジオラマ
今年はコロナウイルスの影響で、雄壮なだんじり祭りは中止です。
 
 
 ◆ 墓参り
今日、平野郷を訪ねた一番の目的は両親のお墓参りです。
墓地は杭全神社に隣接する場所にあり、
末吉家は坂上広野麻呂の末裔、環壕自治都市平野郷の代官も務めた家柄。
墓地には坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃となった春子姫の墓所があります。
 
坂ノ上春子姫は長宝寺の開祖で、父母の墓は長宝寺墓所の中にあります。
 
※長宝寺と全興寺と杭全神社は、次回「平野郷②」で菊蔵さん風に紹介いたします。
 
◆常盤会幼稚園・平野小学校
幼稚園は常磐会幼稚園に1年間だけ通いました。
 
 常磐会は大阪府女子師範学校(現大阪教育大学)の同窓会で1927年にこの幼稚園を開設しました。
 
冬には教室に四角い大きな火鉢が持ち込まれ、格子の上に皆で弁当を並べた思い出があります。
 
今日は卒園して68年後の訪問です。
当時の面影はどこにもありません。
昔、通った通園路は田畑の中の小川沿いの細い道でしたが、今は広い道路になってました。
 
 
私が6年間通った平野小学校は環壕内の北端の杭全神社の参道脇にあります。
平野小学校は1872年の学制に基づく日本最古の小学校、在校中に創立80周年記念行事がありました。
 
平野郷は戦災を免れて戦前からの古い街並みが残っていました。
通学路の途中にある「亀の饅頭」は子供の頃とほとんど変わっていないようです。
 
中学校からは南海平野線(チンチン電車)に乗って天王寺まで通学しました。
南海平野線は地下鉄6号線に代わり、元平野駅からはじまる線路跡は遊歩道になってました。
ユニークな形の屋根の旧駅舎は全興寺住職らの保存運動の甲斐なく取り壊されました。
全興寺の駄菓子屋博物館に南海電鉄平野駅のジオラマがあります。
 
賑やかだった平野本町商店街
子供の頃から知っている商店がまだ残っているのを見ると懐かしく嬉しくなります。
大阪市で一番古い(明治22年創業)新聞販売店はまだ現役です。
 
〜つづく〜