男性チームの3羽島のS君が震源地の近くにイザギ神宮があります。と言う、

近くといっても10キロほど南に下ったところです。

神宮の境内を宮司にお祈りの主旨を話せば貸してくれるような気がします。

「ここまでに、出て来た意見はほとんど淡路島側をお祈りの
場所とする意見ですが、

被害が大きいのは神戸側です
ので神戸市のどこかに適切な
場所はありませんか?」


神戸の中で最も被害の大きかった長田区に近い須磨の海岸で
震源地に向かって祈るのはいかがでしょうか


との案が女性側から示され、
流れとしてはそちらに片向き
かけました。

祈りの場をどこにするのかは
重要で、地震鎮めに最も効果の
ある場所を選ばなければなり
ません。


性急に決めず、皆の議論の煮詰まったところで総意をはかるつもりでメンバー達の熱心なトークを聞きながら心の中で


(そうだ、自分は尼崎の阪大
病院で生まれ、その後豊中で
幼少期を過ごした)などと
思い出していました。


意見は6対6に分かれて結論が
出ずじまいでした。

須磨海岸と鳴門で止まって
しまいました。

私は戦後最大の被害を出し、
これ以上大きな余震はどうしても何とかしなければならないと。

今井浜の経験をこの際生かさなければ何のために常識を超えた挑戦をしたのか。

しかもそれなりの手ごたえを得たのかと自問自答の結果を出した結論は、

まず被害の大きかった神戸側の須磨海岸で行い、
あまり日をおかず、

少人数でも良いから鳴門の
渦潮のパワースポットで行う
よう提案したところ、全員が
賛成してくれました。

関西の交通インフラが乱れて
いるため、13人は二台の乗用車と1台はハイエースに分乗して
被災地に向かいしました。


西宮のメンバーの自宅は奇跡的に無事でしたが、壁には亀裂が入り家全体に緩みが来ていたと
言っていました。

その西宮を物資の補給基地として使用させてもらったのが、
お祈りの準備に大いに役立ち
ました。

ご両親は協力的でしたが、
彼の兄は私たちを白い目で
見ているのを感じました。

しかし、準備に通っている
ときに
「人間は困ったときに、神頼みするしか方法は無いのです。」

と私が言ってぜひ一緒に神頼みをしてくださいませんかと
お願いをし
「余震を止める事はできません。

私たちは余震の強いエネルギーを分散させてくださいとお願いするだけなのです。

もし私たちのお祈りで、弱い余震が来てすんでしまったら凄いと思いませんか。

実は私達、1回だけですが成功
体験があるのです。
あなたの弟さんも参加されて、

伊豆の今井浜の群発地震を止めに行きました。
もちろん興味半分ですがね。

その時の体験がベースにあって、

神戸の悲惨な状況を見ていて、

いても立ってもいられなく
なったのです。」


ここまで話したところで、表情が和らぎ、協力は惜しみませんと
言ってくれました。

今井浜の時は、半信半疑だった男性たちが、祈りで余震は本気で分散できると全員が感じ始めていました。


そこで私は地震鎮めのスローガンを掲げたら、どうかと考え
メンバーを集めて提案すると、

皆んなで考えて良いものを作りましょうと言う、良い流れが
できました。

それこそ、ケンケンガクガクの議論の末にできたのが

「こんな時こそ、真心を!」

に決まりました。


「真心と愛を出そう」

が候補に上がったのですが
「真心を!」で止めた方が
真心を出そうとも取れるし、

真心くださいとも取れるから
良いのではとの意見がまとまりました。

このスローガンを鉢巻にするか襷たすきにするか意見が別れ
ました。


鉢巻は労働組合のトライキの
ようだから、

襷にしようと1本化し、
女性3人がタスキを作り、

そこに
「こんな時こそ、真心を」と
書いて、私に見せに来て、

何かもう一つ締まりませんと
言う。

そこで「今こそ、真心を」の方が目立つと言う意見に従って
みると、

それなりのインパクトがあり
ました。
これならばと私が文字を書き、女性たちが簡単な方法、つまり袋縫いでタスキを20本作り、

メンバーとその人たちに配りました。


大阪や、名古屋、京都、滋賀の大津あたりから来てくれました。


祈りの場所は、須磨海浜公園に決めて集合しました。


地震発生から4ヶ月半ほど経っていますが、まだ片付かない震災の名残がそこかしこに見られました。

私たちがお祈りの準備をしていると、遠巻きに人が集まって
きて、年配の男性が私に

「何の宗教ですか?」

と聞いてこられました。

私が宗教には関係なく、

巨大な余震に見舞われたら、
ひとたまりもないので、地震を
鎮める祈りをしに来ました。

と言うと、世の中には奇特な若者もいるんだね、よろしく頼みますと言ってくれました。


私がもし祈りにロマンを
感じていなかったら、

14歳で本格的な滝行を体験し、今日まで71年間祈りを体現し続けられていないと言えます。

祈りは、全てをありとあらゆるものを対象とし時間も無限、空間も無限、次元も無限ですから、

もし祈りの対象とならないものがあったら教えてください。


ただし、祈りは、愛と真に裏打ちされたものでなければなりません。

もし悪意の祈りは、他人を害し、自分自身をも滅ぼしてしまいます。

オールラウンドが対象と言うのは自由であるとの同じ意味を持ちます。

何か制限があればそれはロマンとは言えません。

元々、ロマンとは常識では考えられない現実離れした空想の
世界さえロマンのパートです。


毎日毎日が現実の世界だけでは酸素欠乏症になってしまいます。

脳は、人間の体の部位の中では1番の怠け者ですから、

毎日を同じパターンで生活していると、日常の生活を変える
発想をしなくなってしまいます。

脳を慌てさせるほどの刺激を
意識的に与えると、

脳は働き始めます。

もし退屈を感じたならば、脳が休んでいる状態と思って
下さい。

退屈を脳が感じたら、それは
自分の成長が止まっている
証拠です。

脳が休んでいると記憶ができ
ません。

記憶とは積み重ねです。

それは人生そのものです。

しかも、人間は、進化的にどう生き残ったかと言うと

「記憶を書き換える能力」を持った人間だけが生き延びて、
今に至っています。


祈りは、記憶を書き換える際に有効に働きます。

と言うよりは、祈りの力によって記憶は書き換えられていくと言っても良いでしょう。

ちなみに、誰かの名前を忘れたり、大事なことを思い出せなくなった時にお祈りをして、脳波がα波に切り替わると思い出します。

これも1種の書き換えが起きるから思い出すのです。

どうしても、大事なことが思い出せないときには、祈りをしてみてください。

私は長い人生の間に海坊主(海の龍神と言われています)を2度体験しています。

2度ともお祈りが終わるかどうかの段階で出現しています。

2度の海坊主は全く何の期待も
していずに、

自分が見たと言うよりは、
第三者が私に海坊主の存在を
教えてくれて、最後の一瞬で見せてもらえたというわけです。。











真心のささやきを貴方へ❤️