令和5年7月23日





第176回目


崇峻天皇すしゅんてんのうが皇位に
つく。


敏達天皇びだつてんのうの後期に
物部守屋が仏法はこの国の
安定を乱す基になるから

禁ずるべきですと、
上奏したところ敏達帝もその
意見をいれて

「仏法を断やめよ。」

とお触れを出しました。


歴史書には守屋や配下の
佐伯造御室さえきのみやつこみむろ
蘇我馬子の建てた仏塔、
仏殿、
仏像に火を着け、

焼け残った仏像は難波の
堀江にすて、善信尼ぜんしんに
三人の尼を拉致監禁した

との記述がありますが、
私には納得行かない部分が
あります。




物部氏は永年朝廷で活躍して
来ています。

その上難波の良港を持ち朝鮮
半島を経由して、

大国である隋ずいや唐とうなどと
交流があり、

交易によって大きな財をも
築いていました。


従って中国大陸の有力な
先進国から渡来した仏像まで

も毀損廃棄きそんはいきしたとは
考え難く、


馬子の作った堂宇や伽藍がらん
打ち壊したのは事実だと
思います。


用明帝は病弱なわりには
精神力のあるしかも豪毅ごうき
ご性格で争いは好まず


蘇我氏の崇仏と
物部氏の排仏の争いには

心を痛めていました。

病状が進み余命がいくばく
かに迫ったのを見た馬子は

崇仏の志の高い

用明帝のため

にも物部氏とは決着をつけ
なければと思い続けていた
結果、

苦戦を乗り越えて、

仏の法力によって勝利を
得たと思っていました。



次なる天皇も蘇我系の息子を
皇位に着けようと馬子の姉小姉君こあねのきみと欽明天皇の間に

生まれた泊瀬部皇子はつせべのみこ
即位させ、

第32代崇峻天皇としました。






真心のささやきを貴方へ❤️