令和5年6月23日



第147回目

冠位十二階

聖徳太子は推古天皇の意向
を受けて、

中国の唐の国の国家体制
である律令制を取り入れる
決意をして、


大臣おおおみ蘇我馬子の同意を
得て進めるプロセスに
十七条憲法が生まれました。


しかし憲法十七条が単独で
生み出されたわけではなく、

七世紀初頭に派遣された
第一次遣唐使けんとうしによって
もたらされた報告から、

大国「隋ずい」の制度の見事さに
ショックを受けた天皇、
摂政の聖徳太子、
大臣の馬子の3人の為政者は


内政の充実に取り組むには、
国家の態勢と

法に、
よる支配が必要欠くべから
ざるものと認識をしました。


ヤマトの国は豪族の首長に
よる専制態勢で、

天皇の意向が十分行き渡って
いない状態でした。


物部守屋に勝利をして
独裁体制を作っていた
大臣蘇我馬子は


自分の言う事をなかなか
聞かない大豪族や

地方豪族達に苛いらついて
いました。

実質的な最高権力者である
大臣馬子は聖徳太子の
国家構想を上手に利用して、


自らの野望を実現されようと
律令国家を作る話しに
大乗り気でした。


そこで新しい国家ビジョン
実現のためには皇居を

倉梯柴垣宮くらはしのしばがきのみやから
小墾田宮おはりだのみやに移し
ました。

当然、朝堂(国会議事堂の
ようなもの)も同時に移転
しました。


新朝堂に於いて、冠位十二階
の施行開始の宣言をしました。



当時は朝鮮半島の
三国(高句麗こうくり新羅しらぎ
百済くだら)も律令制の国家運営
を行なっていました。


ヤマトだけが旧態然とした
氏姓制うじかばねせいの下で政治が
行われていました。



そこで次に冠位十二階を
定めました。


冠位十二階の爵号しゃくごう
徳、仁、礼、信、義、智を
大小とに区分をし、

12階位としました。




真心のささやきを貴方へ❤️