3月26日  今日は春の嵐







阿部皇女は草壁皇子の
嫡妻となってからは度々
皇子の母である

讃良さらら皇后のお召しが
あって、ご下問される機会
が増して行きました。



天武天皇が崩御され
皇太子となった
草壁皇子が早世してからは
皇后は自らが政務を
取り行い

難しい政治的判断も的確に
下していきました。


つまり皇后が称制しょうせい

なって国を動かしていました。

皇太子妃の時よりは皇后が
称制となってからの方が
格段にお呼び出しが多く
なりました。


皇后は称制を続けておられ
ましたが、

46才の1月に
即位されて持統天皇と
なられてからは天皇の
ブレーンの1人に選ばれ
ました。


天武天皇が
飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや
の皇居に政務を取り
仕切っている折に、

広い宮城を作り朝廷に
かかわる全ての人々が
一箇所に集まって、

まつり事を行うのを理想と
されていて、

その考えを皇后が受け継ぎ、

実現可能な綿密な計画の
作定に当たりました。


天武天皇は
皇族、
豪族、
官史の
皇城に出仕する者には全員
に土地と居宅を与えて、

天皇を中心に律令に基づいた
国造りを目指していました。


しかし志半ばの52才で
この世を去られ、

そのご遺志を皇后から
持統帝になられ義母が継ぎ、
阿部皇女、
高市皇子、
藤原不比等
の3人がサポートをして、

天武天皇没後8年の歳月を
かけて藤原京を完成させる
運びとなりました。



阿部皇女の気がかりは、

一ヶ所に数千人の人々が
暮らすようになると飲料水
は飛鳥川から取水できるが、


下水の処置をどう行うのか
藤原京の宮城の立地として
地質的には水分を多く含む
土壌で

水処理には不向きで
あるところから下水道の
整備は必須でした。


それを強調をしましたが
見た目地味な工事の上に
粘土質の土に手こずって
工事がお座なりになって
しまいました。




真心のささやきを貴方へ❤️