12月31日  持統天皇







御前会議の場でもし
忍壁皇子おさかべのみこが自分が
皇太子に最も相応しい

位置にいることを他の者に
言わせるとしたら、

呵瑠皇子の立場が危ぶまれると考えていました。

忍壁皇子は吉野盟約の6人の
皇子の中の1人で天武帝の
皇子としては最年少の皇子
でした。

天武帝は6人の皇子の母は
すべて異なるが今日からは
皇后(私)を母として6人
全員を慈しんで行くと誓約
されました。

それ故、草壁、大津、高市
の3人が没した後は忍壁皇子
が皇位に最も近いという
ことになるのです。

6人の中の2人は天智帝の
皇子でした。

吉野盟約に入っていなかった
弓削皇子ゆげのみこが忍壁皇子を
推す発言をしようとしました。

葛野王くずのおうに一喝されて
黙してしまいました。


議論百出しましたが、
最後の止めは藤原不比等が
用意した仕掛けでした。

私は早速皇太子制の確立の
ための施策を

不比等と計り
呵瑠皇子の周囲を適材を
選んで固めて行くことに
しました。

人選は阿部皇子と不比等が
行うよう指示しました。


皇太子制の規定を律令制に
盛り込むようにしました。

立太子前に以下の人選を
行って、それぞれを面接し
ました。

東宮(皇太子)付き
右大臣、丹比島たじひのしま
大納言、阿部御主人あべのみあるじ
    大伴御行おおとものみゆき
中納言、石上麻呂いそのかみのまろ
    藤原不比等、
5人の中で不比等が最年少で
表向きの功績はほとんど
無い状態ですから、
大抜擢と見えます。

草壁皇子は不比等を
ことのほか信頼を寄せて
いました。

亡くなる前に皇子愛用
の佩刀はいとうである
黒作懸佩刀くろづくりかけはきのかたな
を不比等に与えていました。


この佩刀はいとうは草壁皇子が
常に身に付けていたものです。


これは私の想像の域を
出ないのですが草壁皇子が
病床にあって後事を不比等
に依頼したとするならば

呵瑠皇子の後見までもまで
も頼んだのでしょう。

御前会議で皇太子を決める
案は不比等の智慧袋から
出たにしては、

呵瑠皇子に落ち着くことに
相当の自信があったとしか
思えません。

かなり時間をかけて
裏工作もしたと思います。

それ以上に草壁皇子との
間に私の知らない密約が
あったのかもしれません。

草壁皇子を失って以降

天武帝と私の
血流を受け継いでいる
呵瑠皇子を皇位につける

宿願が
やっと達成されました。

真心のささやきを貴方へ❤️






藤原鎌足









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