8月8日 ふくよかな皇極天皇









推古天皇の唯一の失敗は
次の天皇を明言せずに
没した事です。



天皇候補は2人いました。


1人は聖徳太子の皇子、
山背大兄王やましろのおおえのおう

もう1人は田村皇子で
蘇我馬子の娘、
法提朗女ほほてのいらつめを
妃に迎え、

2人の間に
古人大兄皇子ふるひとおおえのおうじ
生まれていました。


推古女帝が自分の後継者を
決めかねた理由は決定的な


人物の差がなかったのと、
2人に欠点があったことです。


山背大兄王は神経質で
いつもしかめっ面をしていて
親しみにくい。


他人の言う言葉を聞かない、
これでは大王に相応しくない。


田村皇子は推古女帝の娘、
田眼の皇女ためのひめみこの夫でも
あります。


気が弱く、なにをするに
しても自信がなさそうに
見えて

大王の器には物足り
なさを感じていました。


母糠手姫皇女ほどの
胆力がない。


でも山背大兄王の人望の
なさは致命傷だったのです。


血縁の蘇我の人々からも
好意を持たれていません
でした。


結局田村皇子が即位をして
舒明天皇じょめいてんのうとなり、


その皇后に宝皇女が就き
ました。


敏達天皇の孫にあたる
宝皇女は幼少の頃の苦労が

報われた形になりました。

宝皇女がどのように成長
して行ったかは別項で
記述します。



特記するべき事項としては
重祚をされた最初の天皇で
あったという事実です。



重祚とは一度、位を退いた
天皇が再び位につくことを
言います。

祚とは位を表し、天皇、
天子の位をさします。


つまり、皇極天皇は二度に
わたって天皇の位に着き
ました。

皇極帝としては3年間の短い
在位を占め49才〜52才まで
王権を握っていました。



そして間に弟の軽皇子が
孝徳天皇として、10年間
在位されました。

のち、宝皇女は再び
斉明天皇として、

61才〜68才
までの7年間在位され2度目
の天皇即位となりました。


皇極帝と斉明帝、
合わせて10年間帝位に
あったにしては、

多事多難な期間を天皇として
国事に当たり、

多くの苦労がおありだった
のです。

2人の皇子、
中大兄皇子と大海人皇子を
衝突させないように

なみなみならぬ配慮をされ
ています。

歴史家の異説に中大兄皇子
よりも弟とされている
大海人の方が年齢は上
だったとか、


天武天皇の父は
舒明天皇じょめいてんのうでは
なかったなど歴史に現れない
異説があるようで宝皇女の
苦労があったのでしょうか?



真心のささやきを貴方へ❤️






オリエンタル百合





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