入鹿さんの印象が段々と変わって来ました。
山背大兄王の一家を追いつめた行為は許せないと思ったのですが。
彼一人の判断でやったものではないとすれば、気の毒な立場にあって拒めなかったのは
彼ほどの人物を動かすとするとそれ相当の権力者が裏にいたと考えるしかありません。
蘇我氏の流れを汲む2人にとっては無念だったでしょうね。
和氣
そう思います。はめられたとしか思えません。
蘇我入鹿は山背大兄王を最後まで追いつめて首を取ったわけではありません。
山背大兄王は斑鳩宮(いかるがのみや)を一旦脱出をして、生駒山に妃や子弟達と隠れましたが、蘇我入鹿とは闘わない決意を固め無益な戦さをやめようと、側近の三輪文屋君(みわのふみやのきみ)に
「東国で兵を集めて攻めのぼれば、勝つことは間違いないだろう、しかし自分一身のために万民に苦労を強いるのは心苦しい、身を捨てて国を固めるのも丈夫(ますらお)ではないか」
と言って斑鳩寺(いかるがじ)に戻って、妃や子弟らと共に自害して果てました。
聖徳太子の血脈は絶えてしまいました。
山背大兄王は闘えるのに戦さはしなかったのは相手を敵と見なさず、一族の者達とは争いたくないの気持ちを優先させた結果なのではと考えられます。
37才
つまり二人とも戦さをすることの愚かさを知っていたのでしょう。
お二人とも優秀な人達だったのでしょうから。
誰がどういう思惑で仕掛けたのでしょうか?
和氣
蘇我系の天皇は31代用明天皇(聖徳太子の父)
32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)33代推古天皇(すいこてんのう)と三代続き、この間、蘇我一族の繁栄が続きました。
これに危機感を持ったのが非蘇我系の敏達天皇(びたつてんのう)のながれの人々です。
敏達天皇の父は推古天皇の父と同一の欽明天皇ですが母は宣化天皇の皇女、石比女(いしひめ)で非蘇我系です。
敏達帝から押坂彦人大兄皇子(おしざかひことおおえのおうじ)→舒明天皇(じょめいてんのう)→天智天皇(てんじてんのう)→天武天皇(てんむてんのう)へと続いて行きます。
どうみても蘇我一族の勢力を弱めたい反対勢力からの策謀があってその犠牲者が蘇我一族であり、最後の大物大臣、蘇我入鹿が悲劇的な結末で繁栄した蘇我氏の幕を引かされました。
聖徳太子の遺児山背大兄皇子と蘇我入鹿の二人が生き残っていたらと残念でなりません。
蘇我入鹿が皇位を狙った形跡はありません。
この稿を書きながら二人の無念の想いが伝わってきました。
真心のささやきをあなたへ❤️
和氣先生との対話もご覧下さい
↓