どうもこんにちは、わかつきです。

前回に引き続いて会津若松での歴史学習、2日目になります。この日も朝からあいにくの雨でしたが、我々は白虎隊士中2番隊最期の地・飯盛山に向かいました。

現代まで語り継がれる士中2番隊の悲劇。悲惨な話の多い会津戦争の中で、士中2番隊が最期に飯盛山から見た景色はどのようなものだったのか、会津若松の歴史を探訪していきましょう。




鶴ヶ城・パンフレット




8月14日、朝7時半に目覚めた私は窓際にておはようの一服を楽しみました。布団に入って以降、いつどのように寝たのか全く記憶にありませんでしたが、とりあえずとても良い目覚めで2日目がスタートしたわけです。

友人たちも次々と起床して我々はのんびりしつつ朝御飯を迎えました。外は昨日にも増しての雨模様で、飯盛山に登ることができるかも不安でしたがとりあえず朝御飯の会場へ。朝御飯の部屋は前夜と変わらず角部屋で、川の音がよく聞こえました。写真はありませんが朝御飯もたくさんの品数で、美味しく頂きました。私は炊き込みご飯を2杯頂きましたが、本当に美味しかったですね。

私の前に座っていた某・店長が「ドレッシング入れすぎた」と言って、小皿に入ったサラダにさらに別の小皿のサラダを入れる「追いサラダ」を実行した結果、途中で完全に手が止まっているのを見て「ああ、大学時代も同じようなことしてたなあ、懐かしい」と思ったのもこの時です。

1泊2日宿泊した旅館ですが、本当に良かったですね。部屋も4人にちょうどいい広さでした。お世話になりました。





店長の自動車に乗り込み我々が目指す先は白虎隊士中2番隊最期の地・飯盛山。前日の鶴ヶ城と異なりこの山は士中2番隊の少年たちが落命した、ただそれだけの場所ですから、あまりふざける気分にはなりませんでしたね(急に来る真面目モード)。飯盛山には山頂までエスカレーターがあるとは友人から聞いていましたがやはり「山」ですから、登ることが出来るか不安もありました。

とにもかくにも出発した店長号はさほど時間もかからず飯盛山付近の駐車場に到着。観光地の駐車場というのはやはり有料というイメージがありましたが(前日の鶴ヶ城・野口英世青春通りの駐車場は有料だった)、このお土産屋さんに隣接する駐車場は完全に無料でした。駐車場を無料にしておけば、大抵の観光客は珍しさもあって帰りにお土産屋さんに寄り、幾つかお土産を買うでしょうからなるほど上手く出来ています。

自動車を降りると、お土産屋さんから店員のおばさんが出てきて我々に声をかけてくれました。我々がそのお土産屋さんに寄ることはありませんでしたが、観光地の方は本当に優しいなと感じました。我々がそのお土産屋さんに寄ることは二度とありませんでしたが、チラッとお土産屋さんの中を覗くと、品数もそこそこあり面白そうでしたね。結局のところ我々はそのお土産屋さんに寄らず移動することになるのですが、店舗もそこそこ大きく、品数も多く、店員さんも優しそうな方で好印象でした。




我々は寄りませんでしたが、良さげなお土産屋さんでしたね。





飯盛山の麓に行きますと、他にもお土産屋さんが立ち並んでいます。どこか懐かしい雰囲気だなと思い返すと、京都の清水寺付近が浮かびました。観光地はどこでも同じような景色になるのでしょうか。

そして聞いていた通り、山頂に向けたエスカレーターが設置されていました。てっきり段差がついたいつものエスカレーターかと思いきや、よく見るとスロープになっており、そこそこの角度がついていてなかなかに怖かったですね。私は長傘を持っていましたから、それを杖の代わりにしていました。それくらい角度がついていたわけです。

スロープ式のエスカレーターなど早晩乗る機会もありませんから、意外と面白く、私と店長と東京から来た友人(通称・鉄の同盟を結ぶ友人)の3人は我先にとエスカレーターに乗り込みました。そして振り返るともう1人の友人が小銭を払うのに難儀し置いてけぼりに。「あ!やばい!」となった我々はエスカレーターを今度は逆走しなんとか友人と合流。

このエスカレーターは250円で乗ることが出来ますから、個人的には使った方が良いかと思います。ちなみに私は財布を自動車の鞄に置き忘れたため、友人からお金を借りて乗りました。





(ネットで拾ってきました)



エスカレーターを乗りつつ外を見ると、隣にある階段を使って山頂を目指す観光客も大勢いました。店長がそれを見て「愚民どもが登ってやがるね」と有難いお言葉をその方々にかけていたので、私も「愚民の皆さん頑張ってください」と念じておきました。きっと伝わったことでしょう。

山頂につくと、すぐに「あ、そういう場所だな」と分かりました。ふざけることは言うに及ばず、写真を撮ることも躊躇する雰囲気を感じました。それは観光客や地元の方の雰囲気ではありません。ただ山頂に佇む隊士の墓と幾つかの記念碑がそう感じさせたのです。ですから墓に向けて一礼し、あとは説明の書かれた看板を読むなどして周囲を回りました。

説明の看板を見て気が付きましたが、鶴ヶ城内の展示で見た会津戦争の歴史は全て「旧暦」の表記でした。会津藩が降伏した9月は新暦で言うと11月に相当するわけですから、新政府軍の板垣退助が戦争の早期決着を急いだのも分かります。




【勝手に歴史語りコーナー】

飯盛山には白虎隊の士中2番隊だけでなく、会津戦争やその他の戦争で戦死した白虎隊の隊士やその他少年兵の墓、慰霊碑がありました。立ち並ぶ墓の年齢を見れば現在の中学3年生から高校2、3年生に至る少年たちです。

1日目で述べた二本松藩の少年隊会津藩の白虎隊も、藩の主力部隊が出払っているところを新政府軍に突かれ、やむ無く出撃することになりました。そして二本松少年隊は玉砕、白虎隊の士中2番隊は飯盛山での悲劇を迎えたわけです。どちらにも共通するのは、隊の少年たちが出撃を願い出て、戦況が追い込まれていることもあり藩の上層部が渋々出撃を命じたという点でしょうか。

会津藩二本松藩の他にも新政府軍と戦った東北諸藩は多くありますが、その中でも善戦したのは新潟の長岡藩と山形の庄内藩でしょう。その2藩に共通する点は軍制改革に成功していたことです。

長岡藩は、わかつき少年が毎週見ていたNHK「その時歴史が動いた」でも扱われた家老・河井継之助を中心に軍制改革をおこない、強力な部隊を保有していました。鳥羽伏見の戦いで旧幕府方が負けて以降は江戸藩邸や家宝を売りさばき、新式銃を購入してさらなる強化を図ります。その中には日本に3門しかないガトリング砲が2門、他にもアームストロング砲が含まれていました。また、河井は古来の槍を捨てさせて藩の部隊には小銃と銃剣を標準装備とさせていたそうですから、完全な西洋式部隊だったと言えるでしょう。長岡藩は兵力で優勢な新政府軍に対し互角に戦い続け、一度は長岡城を奪われますが、その後奇襲をかけて奪還するという快挙も成し遂げています。河井継之助は以前日テレ系で故・中村勘三郎さんを主演にドラマになっていましたが、良いドラマでした。


長岡藩・河井継之助


庄内藩も同じく軍制改革をおこない、部隊は新式銃を装備していました。庄内藩兵が装備していたのはいずれも後装式の小銃だったそうですからこれは強い。また庄内藩は善政を敷いていたおかげで領民の支持も厚かったそうです。幕府の老中・水野忠邦が自身の利権絡みで庄内藩を含む3藩を転封させようとした際には領民が幕府老中に直訴して撤回させることにも成功しました(この話は1日目に書いたドラえもんの歴史漫画にも出てきました)。ですから、以前雑誌「歴史群像」にも扱われていましたが庄内藩兵は半数が領民からの志願兵で構成されていたそうです。そして庄内藩は数に勝る新政府軍と互角以上に戦い続けました。装備もさることながら、戦術面でも第2大隊の隊長・酒井玄蕃に代表されるように優れた指導者たちがいましたから、緒戦は連戦連勝で新政府軍を圧倒しています。結局、最後に至るまで新政府軍は庄内藩の領内に入ることが出来なかったどころか、連戦連敗で、新政府側の久保田藩領内にまで庄内藩に侵攻されています。庄内藩との戦線が崩壊しなかったのは、最新式の装備を揃えた佐賀藩の援軍が来たからで、多数の戦死者を出しながら佐賀藩が踏ん張らなければ新政府軍の戦線は崩壊していました

薩摩長州を中心とする新政府軍は驕り高ぶり、東北諸藩を侮っていました。軍事力と錦の御旗をなびかせれば、各藩は会津征討に金と兵を出すと思っていたのでしょう。それは会津征討のため奥州に入った新政府軍が当初は500人ばかりだったことからも分かります。たった500人では会津藩とは戦えません。東北諸藩に金と兵を出させて戦うつもりだったのです。そもそも会津征討も薩摩長州の私怨に過ぎません。必要のない戦争です。それに東北諸藩を動員して金と兵を高圧的な態度で出させようとしたわけですから、田舎ザムライの傲慢さもここに極まれりです。新政府軍の先鋒として奥州に来た長州藩士・世羅修蔵もかなり傲慢な態度、物言いで東北諸藩から反発されており、最終的には仙台藩士に暗殺されましたが、とても自業自得で素晴らしいですね。

長岡藩も当初は新政府軍と談判しようとしましたが(戦争の準備はしてたけど)、新政府軍の岩村精一郎は受け入れず足蹴りにしました。その結果長岡藩の反発を招き、長岡藩との北越戦争で新政府軍は大打撃を受けたわけですから、ざまあみろですね。庄内藩が新政府との戦争に踏み切ったのも高圧的に会津征討への金、兵供出を命ぜられたからです。東北諸藩などすぐに破れる、そう思っていたであろう新政府軍を圧倒した庄内藩の戦いはいつも胸がすく思いです。

さて、話が長くなりましたがこの2藩は共に軍制改革に成功し、領民の協力もあって新政府軍と互角に戦いました。ちなみに庄内藩が領内への侵攻を許さず、戦術的には勝利したまま降伏したのは会津藩が降伏して周囲に味方がいなくなったからです



一方で会津藩も軍制改革を進めていましたが、不十分なままに鳥羽伏見の戦いに突入し惨敗を喫しました。鶴ヶ城には、会津藩が戦いに備えて京都の伏見に軍勢を進める絵が飾ってありましたが、小銃を抱えた藩士は少ししかおらず、ほとんどの藩士が槍を持っていて驚きました。これでは負けるわけです。



その会津藩には藩祖・保科正之が定めた「家訓十五ヶ条」なるものがありました。これは会津藩の根本となるもので、第1条では徳川宗家への絶対忠誠が書かれています。しかし幕末の会津藩にとってはもはや呪縛と言えるものでした。
幕府から京都守護職(京都の治安警備が任務)への着任が命じられた際、松平容保は当初辞退を申し出ます。京都にいけば尊皇攘夷を訴える志士との抗争に巻き込まれるかもしれませんし、そもそも資金面での負担も大きいからです。ところが当時将軍後見職一橋慶喜たちにこの第1条を持ち出されてしまいます。曰く、

「徳川宗家は窮地に陥っている。今こそ家訓十五ヶ条の第1条に書かれている忠誠を会津藩が見せる時だ」

と。
こうして松平容保は藩兵1千を引き連れ京都に向かい、京都守護職として孝明天皇の信頼も厚く1人奮闘しましたが、孝明天皇の崩御後は会津藩は逆風に立たされます。そしてその顛末が鳥羽伏見の惨敗と、逆恨みした薩摩長州を中心とする新政府軍からの征討でした。

鳥羽伏見の敗戦後、会津藩は江戸幕府15代将軍の徳川慶喜に対し戦争回避を訴えていた家臣・神保修理敗戦の全責任を負わせて切腹させています。藩の軍制改革に携わり、年代別の部隊編成を立案したのはこの神保修理でしたから、後の白虎隊を生み出したと言っても過言ではないでしょう。国際感覚にも優れ、松平容保の信頼も厚く、鳥羽伏見の戦い以前には長崎にも派遣されています。会津藩の軍制改革に携わったのも藩の重役からその能力を買われたからでした。

年末時代劇ドラマ「白虎隊」では国広富之さんが演じました。ドラマ内にて、会津藩は鳥羽伏見で新政府軍に惨敗した挙げ句、藩主・松平容保は徳川慶喜の命令で仕方なく藩士を見捨てて軍艦で江戸に帰ります。徳川慶喜は鳥羽伏見で戦う幕臣と会津藩士たちその他幕府方諸藩の藩兵を見捨てたわけです。

敗戦後、藩士たちには徳川宗家への不満が高まり、惨敗したこともあって会津藩は怒りで瓦解寸前となりました。そしてその槍玉に挙げられたのが恭順派であった神保修理だったのです。松平容保は「会津に戻せば神保修理は殺されるかもしれない」と憂慮し、江戸に留め置きますが、神保修理は江戸で事実上の幽閉状態にありました。

彼と親交があり、能力を認めていた幕臣・勝海舟は何としても彼を救うべく将軍・徳川慶喜の命令として神保修理の身柄を押さえようとします。しかし、それが却って会津藩家臣による神保修理への攻撃を増すことになりました。あろうことか会津藩は神保修理は病と偽り、その身柄を将軍に差し出さなかったのです将軍家を欺くとは、完全に家訓第1条に反していますがいいんですかね

最終的に松平容保の命令だとして(偽命令)神保修理には切腹が言い渡されました。敗戦した会津藩の責任を全て背負わされたわけです。



ここまで長々と語りましたが、結局のところ何が言いたいかと言うと、先の長岡藩庄内藩会津藩の違いです。この2藩には二本松藩や会津藩のような語り継がれる悲劇的なエピソードは出てきません。しかし、大軍の新政府軍を相手に互角に渡り合いました。
長岡藩は会津藩より小藩ですが、河井継之助を中心に軍制改革に成功しました。ちなみに長岡藩・牧野氏は譜代の家柄で、河井継之助が家老の時に江戸幕府から老中就任の要請がありましたが、河井の進言により辞退しています。河井は老中就任による出費と就任後の待遇を考え、藩の実利に合わないと判断したのです。また、長岡藩も鳥羽伏見の戦には大阪城警備のため出陣していましたが、徳川慶喜逃亡の知らせを聞くと河井継之助はさっさと兵を引き上げています。そして江戸藩邸まで全て一気に処分して軍備を整え次なる戦いに備えました。
庄内藩も軍制改革に成功して最新式の装備を保有する強力な部隊を揃えましたが、その影には藩内の豪商の協力があったと言います。豪商からの献金があったおかげで軍備を整えられたわけですが、先述の領民からの志願兵にしろ豪商の献金にしろ、庄内藩がかつてから善政を敷いていたため得られた協力です

会津藩はその決断力も領民の協力もほとんどなく、「家訓十五ヶ条」の第1条にとらわれ、しかも鳥羽伏見の戦いではその将軍家から見捨てられたわけです。そして鳥羽伏見の敗戦後は責任者探しに没頭し、最後にはスケープゴートとして、神保修理を切腹に追い込みました。

神保修理の父親で、会津藩の家老でもある神保内蔵助は会津戦争の終盤に戦場で自刃していますが、どのような心持ちだったのでしょうか。年末時代劇ドラマ「白虎隊」には、丹波哲郎さん演じる神保内蔵助が燃え盛る戦場の中で最期に佐藤慶さん演じる田中土佐と話すシーンがあります。


田中土佐「修理殿が健在ならば、なんと言ったであろう。会津藩を救う道があったかもしれんな」

神保内蔵助「いや、それもこれも、時代だと申すでしょう」


確かに会津藩を取り巻く環境は厳しすぎました。しかし、「家訓十五ヶ条」の第1条にとらわれすぎたのです。確かに第1条は大事ですが、第2条には「武備は怠るべからず」とも書かれています。その武備が会津藩には足りませんでした。それは装備だけでなく人事、軍制、戦術の全てにおいてです。会津藩の時代を読む力が無かったことが、白虎隊、そして後の悲劇を生んだのかもしれません。

~勝手に歴史語りコーナー終了~





白虎隊の墓に手を合わせた我々は、周囲の看板を見てまわりました。墓の周囲にはイタリアのローマから送られた記念碑も建っていました。どうやらムッソリーニから送られたようなのですが、さすがに看板にムッソリーニの文字はありませんでしたね。

その後、我々は実際に白虎隊の士中2番隊が自刃したという地に向かいました。勝手に自刃したのは山頂と思い込んでいましたが、意外と中腹だったんですね。雨の中ですが、自刃の地への道路はそこそこ整備されていたので、階段は急でしたが他はさほど苦労はしませんでした。


白虎隊隊士の像


自刃の地に着くと、白虎隊・隊士の像が建てられていました。そこまで大きな像ではありませんでしたが、重さは感じました。

出撃を命じられた白虎隊・士中2番隊は戸の原口で新政府軍と交戦しますが敗退、隊長ともはぐれてしまっていた彼らは戦死者や落伍者を出しながら敗走しました。その際に通ったと言われるのが戸ノ口洞門です。これは猪苗代湖の水を会津盆地へ引くためにつくられた戸ノ口堰の一部ですが、人が通ることも出来たようです。新政府軍に敗退し、食糧補給も滞りほとんど何も食べていない状態での敗走ですから、落伍者を出すのも仕方ないことでしょう。


飯盛山より鶴ヶ城を望む。


飯盛山から見る鶴ヶ城、最初はどこにあるか見えませんでした(

これまで、白虎隊の士中2番隊は燃え盛る鶴ヶ城下を見て落城したと絶望し、集団での自刃に至ったと私は思っていましたが、説明が書かれた看板を見ますとどうも違うようです。士中2番隊も鶴ヶ城が落ちていないことには気付いたようですが、敵に捕まることを恐れ自刃に至ったのでした。もし大人の隊長がいれば、彼らを率いて鶴ヶ城に帰城したでしょうし、そもそも飯盛山まで敗走しなかったと思います。隊長とはぐれてしまっていたことが惜しまれます。








士中2番隊自刃の地を離れた我々が次に向かったのがさざえ堂です。私は会津若松に来るまで存在を知りませんでした。

1796年に建立されたこの会津さざえ堂、正規名称は「円通三匝堂」というそうで飯盛山にあった正宗寺の住職であった郁堂が考案した建物です。ここには西国三十三観音像が安置され、西日本の観音像をお参りすることのできない人に三十三観音参りができるようにと作られたとのこと。このさざえ堂は木造二重螺旋構造という特殊な構造を持っているそうですが、外から見ても私にはよく分かりません。そこで実際に入ってみました。

中に入ると驚いたことに階段はなく、廊下に沿って板の上を歩いていきます。最上部にはほんの数分で着きました。途中には人物紹介?と思わしき絵が飾ってありましたが説明は古文ですからさっぱり分かりません。

最上部に到着すると今度は下りです。私は高所恐怖症ですから、ここまで来ると足がすくむ思いです。では何故登ったのかと言われるとまあ興味があったからとしか言いようがありません。そして帰りは当然下るわけですが、上りとはまた違う廊下をぐるぐると歩いていくと地上に戻るという仕組みになっていました。これが二重螺旋といわれる構造なのでしょう。

近くのお土産屋さんにさざえ堂の模型が置かれていました。よく見ると確かに上りと下りで道が違います。中では仕組みがどうなっているのかあまり分かりませんでしたが、その模型を見て理解できました。面白いですね。

ちなみにそのお土産屋さんで御朱印を押す店員のお姉さんがとてもキレイだったので、「あくまで貴方のその作業を見ているんですよ」というテイでずっと眺めていました。絶景かな絶景かな。

さざえ堂を旅立った我々一行は順路通り山を下ります。その途中には戸ノ口洞門もありましたが、この雨による水量からか、かなり狭く感じました。猪苗代湖からの用水路の一部であることは、近くの看板で初めて知りました。士中2番隊は戸の原口での敗退後、ここをお互いに励まし合いながら通っていったわけです。





次に我々一行が入ったのは飯盛山の麓にあった「白虎隊記念館」です。1万2千点にも及ぶ会津戦争の史料が保管、展示されています。館内は撮影禁止でしたが、展示されているものは会津藩・新政府軍問わず本当に貴重なものが多かったですね。後に日露戦争に司令官として従軍する大山巌が新政府軍にいて、負傷していたのはここで初めて知りました。

展示の中でも目を引いたのは会津藩の旧式山砲と新政府軍の四斤山砲でした。フランスから輸入したという新政府軍の新式山砲に対し会津藩の山砲はライフリングを施されておらず、火縄銃を大きくしたような形です。これでは勝負にならんなと思いましたね。

少々残念なのは展示方法で、もう少し丁寧に展示できなかったものかと思いました。会津藩と新政府軍の小銃が並べられていましたがちょっと見にくかったですし、なにより旧幕府軍のものと思わしき陣笠が展示の端で無造作に積み上げられていたのは残念でした。

しかし、展示されているものや人形を用いた会津戦争の再現は良かったですね。2階には徳富蘇峰のコーナーがあり、会津藩の名誉回復のため尽力していたと知って驚きました。2階には会津戦争と白虎隊を語るアニメが流れていましたが、内容は色々と感じさせるものだった一方、ものすごい棒読みに思わず苦笑してしまいました。

敷地はそこまで広いわけではありませんでしたが、たくさんのことを学べる良い記念館でした。機会があればもう一度行きたいですね。



白虎隊記念館を出た我々一行は麓のお土産屋さんへ。地鶏を使った串カツを頂きました。美味しかったですね。ちなみにそこではこんな一幕が


店員さん「今日は観光ですか?」

我々「はい、そうです」

店員さん「どちらからいらっしゃったんですか?」

我々「(この場合は何と答えるのが正解なんだ...)」

友人(鉄の同盟)「いわきから来ました」


鉄の同盟の友人、大ファインプレー。


店員さん「あー、いわきからですか。いわき駅って駅を出たところに広場ありますよね。段差があって、歌えるようになっているとこ」

我々「あー、ありますね(知らねえ)」

店員さん「僕、たまにそこで歌っているんですよ!」

我々「えー!すごいですね!(知らねえ)」

店員さん「僕ねえ、○○通り沿い(忘れた)のかっぱ寿司にもよく食べに行くんですよ!」




知らねえ。



またしても旅先でウソをついてしまった我々一行ですが、今回は相手を思いやっての優しさから出たウソです。問題ありませんね。

無論、良い店員さんでした。串カツはとても美味しかったです。そして我々はその店員さんから教えてもらった蕎麦屋で昼御飯を食べることに。





と、言うことでやってきたのが飯盛山から自動車で数分のところにあるこのお蕎麦屋さん。私は名物という高遠蕎麦とアスパラ・鯉の天婦羅を頂きました。どれもとても美味しかったです。このお蕎麦屋さんは入口で職人さんが実際に蕎麦を打っていました。最初は粉のかたまりだったものが気付けば延びて見事なものです。機会があれば蕎麦打ちの最初から最後まで見てみたいですね。

こうして会津若松での歴史探訪を我々は終えました。鶴ヶ城に始まり、飯盛山、戸ノ口洞門、白虎隊記念館と歴史を辿り、さざえ堂という重要文化財にも巡ることが出来ました。諸々の手配をしてくれて友人たちや店長には本当に感謝です。次は長岡藩や庄内藩の歴史も辿ってみたいですね。あと、新潟競馬場も。
我々一行は郡山駅まで戻り、そこから東北新幹線で今度は東京へ。さらば福島、また会う日まで。


ありがとうございました。