どうもこんにちは、わかつきです。

8月初旬の猛暑から打って変わって東京は雨の日が続き、涼しくなりましたね。長い夏期講習も前半戦が終わり私もお盆休みです。今年も例年通り受験生を担当していますから、この夏は勝負の夏、熱い「指導」を日々おこなっています。

さて、そんな私ですがお盆休みを利用してタイトルの通り、福島県は会津若松へ歴史の学習に参りました。今回はその話を1つ。




会津若松の歴史、と聞いて誰もが真っ先に浮かべるのは幕末の「白虎隊」かと思います。今回の我々の福島行きも白虎隊の史跡を巡るということが大きな目的でした。

そもそも白虎隊とは何か。簡単に説明しておくと、幕末期・鳥羽伏見の戦いで薩摩長州中心の新政府軍に惨敗した会津藩が軍制改革をおこない、16歳~17歳の少年を中心に編成した予備部隊です(会津藩の主力は18~35歳で編成された朱雀隊)。士中隊・寄合隊・足軽隊から編成される部隊の総勢は340人程度で、本来は城下の警備や松平容保公の警護といった後方での任務を担うはずでした。



そんな中、戦は鳥羽伏見だけで終わらず、東日本を中心に戊辰戦争へと突入していきました。幕末の動乱で長州藩から恨みを買っていた会津藩も新政府軍から半ば無理矢理に戦を仕掛けられ、1868年4月からは薩摩長州土佐を中心とする新政府軍との戦争、いわゆる会津戦争が始まります。白虎隊は予備部隊ですから、当初は後方任務にあたっていました。しかし戦況の悪化によりいくつかの隊が十六橋を巡る新政府軍との前線に投入されています。

現代に伝わる悲劇となったのは白虎隊のうちの士中2番隊です。彼らは前線に投入された後に隊長ともはぐれて敗走し、飯盛山に辿り着きます。その後の戦闘行動について「敵陣への斬り込み」「城へ戻る」等の議論がなされましたが、最終的に彼らは「敵に捕まるくらいなら城と共に」と自刃してしまったのです。飯盛山の説明看板によれば自刃したのは20名で、そのうち1名蘇生したとのこと。

ただこの人数には他所での戦死者も含まれている可能性が高いらしく、人数には諸説あり、7人自刃(うち1人蘇生)説もあれば17人自刃(うち1人蘇生)説もあるようです。

白虎隊自体は総勢300人以上で構成されていますから、士中2番隊以外の戦死者を入れても300人ちかくは会津戦争を生き延びています。しかしこの士中2番隊の悲劇が世に伝わり、書籍やドラマで扱われるようになったわけです。




そんな私が初めて白虎隊を知ったのは小学1年生、母上が図書館で借りてきた某ドラえもんの歴史漫画がきっかけです。薩摩藩の琉球遠征や赤穂事件、シャクシャインの戦いや鳥羽伏見の戦いが扱われていた覚えがありますが、この本の最後が会津戦争・白虎隊でした。




話はドラえもん・のびたくん・しずかちゃんの3人が会津戦争の見学に行くところから始まります。松平容保公の警護から始まった白虎隊はやがて十六橋方面に投入され、敗走の末に飯盛山に到着します。クライマックスの飯盛山では鶴ヶ城が燃えているのを見て「落城した」と思い込み自決する白虎隊の少年たちにのびたくんが


「城はまだ落ちてない!」


と叫ぼうとするのをドラえもんが


「歴史を変えちゃダメなんだ!」


と必死で止めました。3人はあくまで歴史の見学のために来たのですから、歴史を変えてしまう行為は絶対に許されないのです。

そして3人はそのまま白虎隊士中2番隊の最期を見届け、泣きながら現代に帰って話は終わりますが、このシーンは思い出すだけでも泣けてきます。




ドラえもんが小学5年生の2人に白虎隊の最期を見学させてるのはエグくないか?という突っ込みは一度置いておきましょう。





白虎隊は士中2番隊のその悲劇的な最期からか、書籍やドラマも多く存在します。ドラえもんの漫画で白虎隊について知った私も他の白虎隊に関する本を幾つか読みました。

ドラマで有名なものは恐らく年末時代劇の「白虎隊」でしょう。




里見浩太朗さん演じる西郷頼母家老と風間杜夫さん演じる松平容保公の最後のやりとりや、戦後に全責任を負った西田敏行さん演じる萱野権兵衛家老が


「見てやる、薩長の連中がどんな国をつくるのか、見てやるぞ」


と言いながら自刃するシーンは涙を誘われました。良いドラマです。

ちなみにこの年末時代劇「白虎隊」では、白虎隊と同様に悲劇的な最期を迎えた二本松藩の「二本松少年隊」についても少しだけ触れられています。この二本松藩の少年隊は白虎隊よりも若い12歳から編成され、二本松の戦いでそのほとんどが戦死した隊です。白虎隊と異なり隊に正式名が無かったことからドラマ等で扱われることも少ない二本松少年隊ですが、このドラマ「白虎隊」ではあおい輝彦さん演じる東征軍(新政府軍)参謀・板垣退助が、放置された二本松少年隊の遺骸を見て「まだ子供じゃないか、、」と絶句するシーンがありました。

この二本松少年隊の玉砕を見て、東北諸藩が老若男女問わず動員をかけ玉砕覚悟の戦争に挑んでいることを知った板垣は長期戦も視野に入れる他藩の参謀を


「急ぐんじゃ!この戦は!もうすぐ冬がくる。冬がこれば雪が降る。わしらは南国から来た兵が多い。雪が積もったら、にっちもさっちもいかんぜよ!」


と一喝し即戦即決を訴え会津に侵攻しました。あくまでドラマのワンシーンですが、調べてみると実際の板垣も降雪前の即戦即決を希望していたようです。私の中では会津戦争における新政府軍の実質指揮官=板垣退助でしたから、これが後述する鶴ヶ城での発言に繋がったわけです。

ということで白虎隊の話が長くなりましたが、今日の本題「会津若松・歴史探訪」に参りましょう。



8月13日、朝6時に起床した私は大学時代の友人2人(いずれも東京在住)と共に東京駅にいました。ここから東北新幹線に乗り、今回の歴史学習の目的地・会津若松へ向かうためです。予定では東北新幹線で郡山まで向かいそこで熱い部下指導に定評のある某・店長と合流し彼の自動車で会津若松へ向かうことになっていました。その後の会津若松では鶴ヶ城・飯盛山・白虎隊記念館・城下町の通りが目的地の候補として名前が挙がっており、天候次第では庭園や猪苗代湖も候補となっていました。

とにもかくにも我々は友人が購入してくれていた切符で東北新幹線に乗り込みいざ東北へ。私は初めての東北新幹線ですし、ましてや今回の車両がかつてから乗りたいと思っていたE2ということもあって心中はかなりのワクワクでした。





そんなこんなで東北新幹線に乗り込んだ我々は郡山駅で降車し、某・店長と合流。店長とは1ヶ月ぶりということもあり「わあー!久しぶりー!」というような感動的な挨拶は無く「2日間よろしくお願いしまーす」という簡易な挨拶のみ。早速ドライブスタートで、トイレ休憩も挟みつつ1時間半ほど、会津若松に着きました。ソースカツ丼を食べた我々は腹拵えも十分、そして








最初の目的地・鶴ヶ城に到着しました。

会津戦争の舞台であり、白虎隊士中2番隊の悲劇もこの城が燃えているという勘違いから起きたという説もありました。良い城です。

自動車を降りた我々はまさに南から来た官軍の如くの勢いで、




城攻めだ!





と意気揚々、本丸や天守に向かいます。

先に断っておくと私は薩摩長州や岩倉、三条らの公家は大嫌いです。明治日本を作り上げた功績は素直に称賛しますが、徳川慶喜をけしかけるため江戸に強盗・放火したのは許せません。徳川慶喜の政治力に勝てないからと言って民を巻き込むな馬鹿田舎ザムライ。しかも江戸での暴挙に怒り、放火犯の根城となっている薩摩藩邸を焼いた庄内藩を征討?どの口が言ってるんですか放火ザムライさん?

一方で会津が好きというわけでもありません。以前は会津贔屓でしたが、いつぞや拝読した書籍で「松平容保公が京都守護職に就任したため、ただでさえしんどかった領内の民にさらに重税が課された」「会津戦争に備えて領内の民が徴兵されただけでなく商家が財産を根こそぎ徴発された」「新政府軍を足止めするため農村を焼き払った」という内容が書かれていたからです。会津戦争は藩の全てを賭けての戦でしたから、仕方ない部分はあるかもしれませんが、民の生活を犠牲にして巻き込み、武士のメンツに拘って戦うのは末期日本軍に通ずるものを感じます。そもそも鳥羽伏見の後に軍制改革って、これまで何をやってたんですかと。

会津藩は統治の面でも武家優遇の古い苛烈な手法に頼っていたらしく、会津戦争の際には新政府軍を熱烈に迎え入れた領民たちもいたようです。また会津戦争の終了後には旧支配層に対する一揆も起きています。薩摩長州への恨みはあくまで会津藩士の話だったわけです。




という思想、考えに染まっている私ですから、「鶴ヶ城」と書かれた看板を指差し、



「賊軍の城」




と大きな声で読むのは朝飯前です。

城内に入ってからも口だけは達者ですから止まりません。天守に入る直前には




東征軍参謀・板垣退助が入城します!!




とそこそこの音量で叫びましたが、同行者たちには聞こえていなかったらしく突っ込みは入りませんでした(少し寂しい)。東征軍は会津征討に来た新政府軍、板垣退助は土佐藩士ですから当然会津藩の敵です。

天守の内部はほとんどが撮影禁止のため、見学のみとなりました。その天守の入り口にはこの情勢もありモニタータイプの体温計が設置されていました。1人ずつ顔を近付けて体温を検知するわけですが、友人の1人には機械が上手く反応しません。それを見た私は





長州の人間だと思われてるんじゃない?



聞く人が聞いたら本当に怒られそうな発言ですね。

天守に入ると沢山の展示品がありました。正直内部にここまで展示品があるとは思わなかったので素直に驚き感動しました。ですから、刀剣の展示を見ている際に


「ああ、こんな立派な刀剣を揃えても西軍(薩摩長州中心の新政府軍)の最新式歩兵銃には勝てないんだよなあ」


と思ってもさすがに口には出しませんでした。偉い。

天守の展示は続き、会津藩の歴史を辿るコーナーでは、かつて加藤嘉明公が会津にいたことを初めて知り勉強になりました。歴史の展示はやはり会津戦争が中心になりますが、そこに至るまでの会津藩の変遷や幕府との関係はとても面白かったですね。

会津藩の人物を辿るコーナーでは、「そういや西郷隆盛と大久保利通が死んでメチャクチャ喜んだ会津の軍人がいたよなあ」などと友人と話をしながら進んでいると当の本人・柴五郎陸軍大将の写真がその後すぐに出てきて思わず笑ってしまいました。

ちなみに気になったので再度調べると、西郷・大久保の死を聞いて



一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり。



と喜んだそうです。柴大将は会津戦争で祖母・母・兄嫁・姉妹を自刃で失っていますから、会津に甚大な被害を与えた薩摩は許せなかったのでしょう。


柴五郎陸軍大将


他にも会津出身者では山川大蔵家老・佐川官兵衛家老が後に軍人・警察官としてそれぞれ西南戦争へと出征、警視庁の警察官として派遣された佐川官兵衛は戦死しています。佐川官兵衛が西南戦争に出征していたのは知っていましたが山川大蔵も同様に西南戦争へ出征していたのは鶴ヶ城の展示で初めて知りました。

先ほど紹介した年末時代劇「白虎隊」の翌年に今度は元薩摩藩士西郷隆盛と西南戦争を描いた「田原坂」が放送されたのですが、「白虎隊」にて佐川官兵衛家老を演じていた本田博太郎さんがそのまま「田原坂」でも、今度は警察官となった佐川官兵衛を演じています。「田原坂」では、本田博太郎さん演じる佐川官兵衛が着ている肌着に何が書かれているのか他の警察官から問われ、


戊辰戦争で死んだ仲間の名前だよ。会津藩士3000人の名前が書いてある。官軍だと思って命懸けで戦っていたら、会津藩は賊軍にされていた。これでは死んでいった連中が浮かばれん。くだらん拘りと笑われるかもしれないが、俺はこの仲間達を官軍にしてやりたいんだ。明日の戦闘には、これを着ていくよ。




と答え、翌日の薩摩・西郷軍との田原坂での戦闘で銃撃を受けて壮絶に戦死するシーンがあります。実際の佐川官兵衛は田原坂での戦闘が始まる前に戦死しているのでこの話は創作ですが、薩摩に復讐する元会津藩士の姿を見事に描いていました。

実際、一度は同盟を結んだ会津藩を裏切り、メチャクチャにした薩摩藩を恨む藩士は多かったでしょう。会津戦争の終了後に会津藩士は青森の斗南藩に再興を許されていますがこれは事実上の流罪で、ほとんど作物の取れない斗南で会津藩から移住した人々は多数の餓死者を出しています。

「田原坂」では、佐川官兵衛が切り結んだ西郷軍の将兵に


「元会津藩家老・佐川官兵衛!西郷さんに言ってやれ!勝てば官軍負ければ賊軍だとな!」


と叫ぶシーンがありますが、これは佐川官兵衛だけでなく、西南戦争に出征した元会津藩士がみな言いたかったことではないでしょうか。西南戦争で戦死した佐川官兵衛の墓は九州にあるはずですから、機会があれば一度訪れてみたいものです。





薩摩・西郷軍との西南戦争・田原坂の戦いに投入された警察官部隊である抜刀隊には「戊辰の仇」と薩摩への復讐に燃える元会津藩士が大勢いたとよく言われます。私もそれを信じていましたが、編成を調べてみると抜刀隊はその殆どが西郷に与しなかった元薩摩藩士によって編成されていました。田原坂戦線には投入されませんでしたが、警視庁から派遣された警察官部隊の総称である警視隊には佐川官兵衛をはじめ旧幕府側の人間が多く所属していましたから、そちらと混ざってしまったのかと思います。




話が逸れましたね。歴史を語るとよく逸れてしまいます(言い訳)。展示を観覧しつつ天守を登る我々一行はついに最上階へ到達。天守最上階はさすがに人が多かったですね。最上階からは市内が一望できると共に、白虎隊の士中2番隊最期の場所となった飯盛山も視界におさめられました。


天守より市内を望む。



しかし私が気になったのは飯盛山よりも、新政府軍がアームストロング砲を設置したという小田山です。西洋から輸入されたアームストロング砲は2000メートル以上の射程を誇り、会津藩の旧式山砲が届かない距離からアウトレンジで鶴ヶ城に砲撃を浴びせました。アームストロング砲は後装式ですから、前装式の旧式砲とは比較にならないくらいの速さで砲を撃てます。射程だけでなく量でも会津藩の砲を圧倒できたわけです。


アームストロング砲


そのアームストロング砲が設置された小田山はどこか、周辺は山々が多く私ではとても判別がつきませんでしたが、幸いにも天守最上階にはどれが飯盛山でどれが小田山か写真付きで説明があったので小田山も分かりました。




天守から見た小田山は近く感じました。仙台藩や長岡藩が降伏しても籠城を続けた会津藩ですが、自軍の砲が届かない距離から一方的に砲撃されるのはさすがに参ったでしょう。

天守の観覧を終えた我々は周辺の城郭を散策しました。天守の観覧を終えると茶室へ向かったり別の観光地へ向かう人が多く見受けられましたが、


我々はそのような素人とは違います。


天守だけでなく他の櫓跡、石垣、内堀をしっかりと見てまわります。その途中には「荒城の月」の記念碑も見つけました。「荒城の月」は仙台の青葉城がモチーフと思っていましたが、鶴ヶ城と青葉城がモチーフとなっていたようです。ここでもまた勉強になりました。

その後も我々は、天守だけ見て帰る観光客たちを「愚民」「素人」「所詮は賊軍よ」と褒め称えつつ、見学を続け鶴ヶ城を堪能しました。

散策の途中で御手洗に寄った私は隣に来た友人に対し「しかし行きの東北新幹線、トイレを見ると古い車両やなあと分かるよな。ハハハ」と話しかけましたが全く返事がありません。一体どうしたものかと友人の顔を見ると


おっさん「...(誰やこの人)」

私「 ...(誰やこのおっさん)」



非常に気まずかったですね。


それはともかく鶴ヶ城はとても1日では勿体無い、良い城だったと思います。









鶴ヶ城の観覧を終えた我々一行は散策ができるという通りに移動。停めようと思った駐車場に、火災現場へ出場していた梯子車が停まっているというアクシデントもありましたが、無事に自動車を止められました。

その後、我々は野口英世青春通りを経て七日町通りを目指して散策を開始。会津若松では野口英世が青春を送ったらしく、道の途中に関連する建物や、野口英世青春広場というところには野口英世の銅像がありました。幼い頃に火傷して使えなくなっていた野口英世の手を手術した場所が会津若松にあったのは驚きでした。




七日町通りに入ると今度は明治大正時代に造られたと思わしき建物が幾つもあり目を引きました。また、酒蔵もあり我々は晩酌用の日本酒を購入。私も個人で東京に持って帰るお土産用の日本酒「会津中将」を購入。なぜ「会津中将」かと言うと福島のお酒がそれ以外は分からなかったからです。




七日町通りを今度は七日町駅まで我々一行は歩きます。こういう通りをフラフラ歩くのはなかなか面白いですね。途中には東軍(旧幕府・会津側)の墓地もあり、会津若松は本当に歴史の町だなと改めて思わされました。

七日町駅へ着くと我々は小休憩。七日町駅の時刻表を見ると大体が1時間に1本ですから、なかなか電車での移動は困難そうです。しかしホームの風景は本当に田舎の駅という感じで私は結構好きでした。





その後は東山温泉の我々が宿泊する旅館へ移動。その前には夜の飲み物を購入するため最寄りのドラッグストアへ。会計をしてくれたレジの店員さんがショートカットでとても可愛かったので思わずガン見して、名札の名前を確認してしまいました。ですが話しかける等の行為には及んでいません。紳士です。

そして我々は旅館に到着。周囲は同様に旅館が立ち並ぶ温泉街でした。川のちかくで東屋や足湯もあり、我々が宿泊する旅館には川床もあるそうで晴天なら良い景色だろうなあと思いながら、しっかりと降る雨を部屋の中から眺めました。

旅館は友人がきっちり喫煙室を予約してくれたため、部屋に入るなりなんの迷いもなく煙草に火をつけました。自宅を出てから旅館までのおよそ11時間、喫煙を我慢したのは旅館でのこの1本のためです。とても美味しかったですね。

大浴場の温泉に行った友人を見送り私は部屋のシャワーを浴びてのんびり。旅館の窓際で煙草をくわえながらボーッとする時間が私はとても好きです。大学時代、「早く隠居したい」と幾度も言っていた某・店長の言葉が今なら分かります。



旅館での晩御飯

この日の晩御飯は地鶏のしゃぶしゃぶが中心の御膳でした。普段はなかなか食べられない品数と内容で、感動しましたね。美味しかったです。

夜はまた大浴場の温泉に向かった友人を見送り部屋でテレビをのんびり。たまたまBSを見ますとMLBの好プレー集が流れていたので思わず見入ってしまいました。肩の強さも守備範囲も凄いですね。
その後は戻ってきた友人と共に購入した日本酒やビールを飲みつつもののけ姫の鑑賞。飲みつつ我々は誰が先に寝るかと予想を立てましたが某・店長→私の馬単は鉄板でした。オッズなら2倍つくかつかないかくらいです。店長がもののけ姫の終了を待たず落ちると私も1時半には布団に入り就寝。布団に入りつつも話をしようと思っていましたが数分後には寝落ちしました。

ということで会津若松・歴史探訪の1日目が終了です。実物の鶴ヶ城は本当に良かったですね。七日町通りや野口英世青春通りでも会津若松の歴史を感じることが出来ました。
2日目はいよいよ白虎隊・士中2番隊が最期を迎えた飯盛山に向かいます。

ありがとうございました。