3冊の本を手にし、そこから何かを得たような得ないような。

 

続きです。

 

一見すると答えを得たような感覚。

「考えるとは、ワインの醸造のように、情報を用意し熟成させることで発想を得る過程のことである」

これが答えだと言われれば、何の異論もありません。

でも続く、私の中のもやもやもやもや。

 

①で書いたように、私は結局参考になりそうだと判断した2冊も、最後まで読んでいません。

2冊を最後まで読めば、このもやもやが無くなる可能性があるのではと考えました。

でも、おそらくその可能性は低いだろうと思えました。

 

今振り返ると、この段階で私は「考えて」いるんです。

いや、10年以上前から「考えつづけて」いるのです。

では、何故もやもやが晴れないのか。

それは答えが出ないからなのか?

 

今思うのは、問題なのは「答えがない」ことではなく、「今自分が何をやっているのかが分からない」ことなのだと思います。

「考える」ことをしているのに、「考えるとはどういうことか」が分からないから、何をしているのかが分からない。

分からなくても考えられるならいいではないか、とも思います。

でも、分からなければ不自由です。

何故か。

再現性が低いからです。

つまり、考えたいことを自在に考えられない。

「考える」道具を使いこなせないのです。

 

 

さて、本を読めば「考えるとはどういうことか」の答えが得られるかと推測しましたが、どうやら本を読んでも得られそうにないと感じました。

同時に、「私の中には答えに必要な材料が揃っている」「もう少しで分かりそうだ」という漠然とした感覚が生まれていました。

材料が揃っているなら、考えるのをやめれば答えが出るのではないのか。

結果そういった経緯を経て答えを得ましたが、もう少し具体的に流れを書いていきましょう。

 

 

本からの情報ではない。というか私が既に知っている情報に手がかりがある。

そう思ったときに、恐らくこれではないかと思ったのが次の2つです。

 

1つ目が、数学や物理(科学)の考え方。

簡易的に「理系」としますが、理系の学問は思考=考えることが学問です。

いや、文系ももちろんそうですが、論理的思考と表記されたり、感覚よりも思考を道具として使っている分野だという認識があります。

もちろん私にもその認識があったので、その辺りは手がかりではないかと思いました。

 

余談ですが、どの分野でもその学問を進んで行くと、理系とか文系だとかいう境界は揺らいでいきます。

文系も論理的思考を使って思考しますし、理系も感覚を用いて思考を進めます。

 

 

2つ目はヴィトゲンシュタインです。

哲学の人(たぶん。ざっくり)です。

私は土屋賢二さんが好きで、おもしろエッセイを何冊か読んでいます。

究極の自虐ネタといいますか、おもしろいです。

実は私は高校生の時に森博嗣さんを知り、それから数年後土屋賢二さんを知りました。

土屋賢二さんは哲学科の教授だった方で、森さんは理系の准教授(?)でした。

そんな二人は数年前に共著を出しています。

二人の思考方法が似ている、というか、同じものが見えている、というか。

とにかく私には土屋賢二さんも、少し特別な存在です。

 

そんな彼の専門分野がおそらくヴィトゲンシュタイン(違うかも、細かく調べていないので)。

というか、私は彼からヴィトゲンシュタインを知りました。

そして、ヴィトゲンシュタインが何を言っているか。

彼の哲学書がいくつも出版されていますが、まあ挑んで挫折しているのできちんと読んでいません。

ただ、彼は「問題事体が間違っている」ということを主張した。

という理解を私はしています。

 

「問題そのものに疑問を持つ視点が必要だ」とは、どういうことか。

有名なパラドックス「アキレスと亀」。

「アキレスがどれだけ速く走ったとしても、前を行くノロマな亀に追いつく事はできない」

詳細ははぶきます。

つまりこの問いに、「問題自体が間違っているので、いくらそんなことを考えても意味がない」という視点を与えたのがヴィトゲンシュタインなのだと私は理解しています。

(例示がよくありませんね。微妙に違う気がするけど、めんどくさいので無視します)

 

 

さて、どうやら「問題=疑問が正しくない」という視点が重要なようです。

では、「考えるとはどういうことか」という疑問が正しくないのか?

「考える」とはこの世に存在しないもので、考えていると錯覚しているだけで「考えている状態」というものはないのか?

いや、「考えるとはどういうことか」は分からないが、周りをみると考えている人は確実にいるし、私もたぶん考えている。

考えることは存在するし、錯覚ではない。

 

ここで声が聞こえます(物理的な話ではありませんよ、念のため)。

「答えを得るということは、問題が分かるということです。答えを求めている人は、問題が何かを分かっていません。問題=何を考えているかが分かれば、その瞬間答えを手にしています」

森さんです。

本人はそんなことを言っている自覚はないのかもしれません。私の解釈がこれで、これは森さんが言っていたことだと私が認識しているというだけです。

 

ほう。ということは、問題が間違っているのではなく、問題が分かっていないということかもしれない。

では、何が問題=問いなのだろうか。

 

 

宇宙の神秘に近い感覚が訪れました。

「答え」を探していたら、「問題」までも消失してしまいました。

あると思っていた道は幻想で、前も後ろも、上も下もなくなりました。

どこに進めばいいかも分かりません。

どこに進むのか、目的地がどこで何なのかも分かりません。

 

「考えるとはどういうことか」

 

はたして私はここからどう進んだのでしょうか。

③にしてみましょうかね。