就活はいつでも命がけ!ー新卒だけが大変ではないのですー
こんにちは~!宇土です( ´艸`)
昨日は選挙期間(最初で)最後の日曜日だったので、いつにも増して街中で選挙活動に盛り上がっていましたね!
と、同時にリクルートスーツを着た学生もちらほら・・・
「今日、日曜日ですよ!」
とか思ってましたが、そりゃ日曜日とか関係なく就職先がかかっていたら必死になりますよね。
そうなんです、自分の働く先を探す=就職活動というものは大変なんです。
だがしかし、それは新卒に限ったことではありませんよ。
選挙中の候補者、及び秘書などの候補者も必死に就職活動をしているわけです!
今回の衆院選、候補者人数はなんと1191名!衆議院議席は475名!まぁざっと倍率は2.5倍ですね。(*_*)
実際はどこの政党であるとか、比例の順位とか、小選挙区を何人で競っているのかとか事態はより複雑です。でも新卒とかも一社に対してA名の採用枠にB名の応募者で倍率は A/B 倍!ここが人気企業だ!とか言って雑誌とかは煽っていますが、実際は大学名とか、専攻とか、人脈で事態はより複雑ですよね。
その(考えればきりのない)複雑な枠組みを自分なりに構築して、現時点の自分の立ち位置を自覚して勝てる就活をすればよいのかなーと。
とまぁ、就活や~もうどこでもいいから入れてくれ~と言う就活生を見ていてそんなことをちょこっと思ったりもするのですが、わかっている人はわかっているんだろうな。
話が逸れました(といっても本論がなんなのかもはやわかりませんがw)。
就職するにあたり、「相手が何を考えているのかを理解しなさい」というのは当たり前すぎるのですが、就活では気付かぬうちに焦っていて、その基本を忘れてしまっていることもあるのでは??
ということで、このブログを読んだ就活生は、一度当たり前すぎる基本に戻りましょう。
そうです、相手の気持ちになって考えてみるのです。相手はあなたの面接官。あなたを採用するのです。頭で考えていても生み出される発想には限りがあります。リアリティーをもちましょう。
そこで活用するのが選挙です!
あなたは採用者。衆議院議員候補者の採用に一票を持っているのです。
候補者が全体に対して自身をどのポジションにおいて、どのようなアプローチであなたを中心とする選挙区民に接しているのでしょうか。
投票行く気にすらならないのであれば、候補者の努力が足りなかったのかもしれません。
あなたを休日を利用して投票に行かせ、かつ特定の候補者にいれたいと思わせるのに、候補者はなにをするべきなのでしょうか?!
候補者もおそらく必死です、必死に就活をしているのです。
あなたもひょっとすると必死に就活しているかもしれません。
必死だからこそ、一歩引いて、基本に立ち返り、自分だったら誰を採用するか、就活中の候補者を観察しましょう。それを通じて自分の就活に活かすことができたらいいですね!
ということで、就活生の皆さん。ぜひ投票に行きましょう!w
ではでは( `▽)ゞ

昨日は選挙期間(最初で)最後の日曜日だったので、いつにも増して街中で選挙活動に盛り上がっていましたね!
と、同時にリクルートスーツを着た学生もちらほら・・・
「今日、日曜日ですよ!」
とか思ってましたが、そりゃ日曜日とか関係なく就職先がかかっていたら必死になりますよね。
そうなんです、自分の働く先を探す=就職活動というものは大変なんです。
だがしかし、それは新卒に限ったことではありませんよ。
選挙中の候補者、及び秘書などの候補者も必死に就職活動をしているわけです!
今回の衆院選、候補者人数はなんと1191名!衆議院議席は475名!まぁざっと倍率は2.5倍ですね。(*_*)
実際はどこの政党であるとか、比例の順位とか、小選挙区を何人で競っているのかとか事態はより複雑です。でも新卒とかも一社に対してA名の採用枠にB名の応募者で倍率は A/B 倍!ここが人気企業だ!とか言って雑誌とかは煽っていますが、実際は大学名とか、専攻とか、人脈で事態はより複雑ですよね。
その(考えればきりのない)複雑な枠組みを自分なりに構築して、現時点の自分の立ち位置を自覚して勝てる就活をすればよいのかなーと。
とまぁ、就活や~もうどこでもいいから入れてくれ~と言う就活生を見ていてそんなことをちょこっと思ったりもするのですが、わかっている人はわかっているんだろうな。
話が逸れました(といっても本論がなんなのかもはやわかりませんがw)。
就職するにあたり、「相手が何を考えているのかを理解しなさい」というのは当たり前すぎるのですが、就活では気付かぬうちに焦っていて、その基本を忘れてしまっていることもあるのでは??
ということで、このブログを読んだ就活生は、一度当たり前すぎる基本に戻りましょう。
そうです、相手の気持ちになって考えてみるのです。相手はあなたの面接官。あなたを採用するのです。頭で考えていても生み出される発想には限りがあります。リアリティーをもちましょう。
そこで活用するのが選挙です!
あなたは採用者。衆議院議員候補者の採用に一票を持っているのです。
候補者が全体に対して自身をどのポジションにおいて、どのようなアプローチであなたを中心とする選挙区民に接しているのでしょうか。
投票行く気にすらならないのであれば、候補者の努力が足りなかったのかもしれません。
あなたを休日を利用して投票に行かせ、かつ特定の候補者にいれたいと思わせるのに、候補者はなにをするべきなのでしょうか?!
候補者もおそらく必死です、必死に就活をしているのです。
あなたもひょっとすると必死に就活しているかもしれません。
必死だからこそ、一歩引いて、基本に立ち返り、自分だったら誰を採用するか、就活中の候補者を観察しましょう。それを通じて自分の就活に活かすことができたらいいですね!
ということで、就活生の皆さん。ぜひ投票に行きましょう!w
ではでは( `▽)ゞ

元アナウンサー議員特集【緑川たかし・秋田2区】
どうも!( ̄∇ ̄+)
名義なき選挙と言われている2014年衆議院総選挙も公示から一週間が経とうとしていますね。
自民が300議席を越す(場合によってはover340も!)というのは大方の見方ですが、どうなっていることでしょう。
元アナウンサーで今回出馬しているのは緑川たかし氏(秋田2区)ですね。

彼については少し調べてみたのですが、なんと言いましょう、検索しても情報があまりない。。笑
自民地盤の2区でどこまで頑張れるのでしょうか。
選挙活動報告は主にfacebookを通じて行っているようです。
https://www.facebook.com/pages/%E7%B7%91%E5%B7%9D%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97/353651984803963
元アナウンサー出身の民主党議員といえば、元東北放送の岡崎トミ子、緑川氏と同じく元秋田放送の
松浦大悟ですね。


まぁ、二人は参議院議員なので比較的有利であったかもしれませんが、小選挙区秋田2区の結果やいかにf^_^;
爽やかな顔立ちで年齢も20代と、個人的には頑張ってもらいたいところですね。
若者よ!投票に行くんだ!笑
名義なき選挙と言われている2014年衆議院総選挙も公示から一週間が経とうとしていますね。
自民が300議席を越す(場合によってはover340も!)というのは大方の見方ですが、どうなっていることでしょう。
元アナウンサーで今回出馬しているのは緑川たかし氏(秋田2区)ですね。

彼については少し調べてみたのですが、なんと言いましょう、検索しても情報があまりない。。笑
自民地盤の2区でどこまで頑張れるのでしょうか。
選挙活動報告は主にfacebookを通じて行っているようです。
https://www.facebook.com/pages/%E7%B7%91%E5%B7%9D%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97/353651984803963
元アナウンサー出身の民主党議員といえば、元東北放送の岡崎トミ子、緑川氏と同じく元秋田放送の
松浦大悟ですね。


まぁ、二人は参議院議員なので比較的有利であったかもしれませんが、小選挙区秋田2区の結果やいかにf^_^;
爽やかな顔立ちで年齢も20代と、個人的には頑張ってもらいたいところですね。
若者よ!投票に行くんだ!笑
辻元清美とNPO (2)
こんにちは!
前回のブログで辻元特集をしたわけですが、調べるほどに辻元議員のNPO法制定にかける思いの強さを知りました。成立に至るまでにいろいろな困難を乗り越えているんですね~
私も、種々のNPO団体と関わることがあるので、NPO法ができるまでのストーリーには心惹かれるものがありました。
何冊か辻元氏に触れた著作がありましたので、本日はその部分を一部抜粋したいと思います。(長いよw)
**********************************
『旅の途中 ージャーナリストとしての私をつくった39人との出会いー』
筑紫哲也 著 (朝日文庫新刊 2013年1月)より抜粋
辻元清美 本当の“罪状”
辻元清美(つじもと・きよみ)「ピースボート」創設者、政治家。一九六〇年、奈良県生まれの大阪育ち。早大在学中の八三年、「ピースボート」を設立し、第二次大戦やベトナム戦争の戦跡を巡る。九六年、社民党から衆院に当選。NPO法、情報公開法などに取り組み、成立させる。二〇〇二年、議員辞職。全国のNPOのコーディネート、平和・環境・男女共同参画などについての言論活動を展開する。〇五年の衆院選で当選し、政界復帰。
1
この人についてはいずれ書くつもりではいたが、この時期がよいのかは迷いに迷った。
この人について起きたことに、こちらには腹に据えかねる思いがあり、そういう浪立つ心境の下で書くよりは別の機会を選んだ方が余計な神経を使わないで済む。そうも思ったのだが、この時期だからこそ、書いておかないと気が済まない、という思いも募り、そのせめぎ合いに悩まされて今に至った。
この際だからこそ、書くことにしよう。
私は若いころから政治記者だったから、政治家にそれなりの知己は多い。その世界が好きでなくとも、その後の仕事でも政治とのかかわりは持たざるをえなかった。
その一方で、私が知り合った時には政治家でも何でもなかった人が、その後に政界入りしたという例も少なくない。
この人――辻元清美もそのひとりである。
それどころか、彼女がそうなるについて、少なからぬかかわりがあった。
ある日、彼女から突然の電話があった。
「今日中に至急会いたい」
番組の準備で時間の空きが全くなかった私は、番組終了後の深夜ならば、と答えた。
テレビ局の私の居室に現れた彼女は「どうしよう」を連発した。
社民党の土井たか子委員長から、近くに迫っている衆院選挙への立候補を打診されている。もう日が変ってその日の午前一一時の同党候補の発表までに返事をしなければならないーー「どうしよう」。
後でわかったことだが、この最後の瞬間に彼女が私に期待したのは迷っている自分を制止してくれる役だった。そう期待してよい理由もなくはなかった。
長く政界にかかわってはいても、権力が否応なく帯びてしまう「毒」に警戒心が強い私の性癖を知っていたこともあるが、もっと具体的な出来事がその前にあったからである。
珍しく彼女と、私が長年敬愛している先輩、石川真澄氏の二人が下町の小料理屋に席を設けて私を招いてくれたことがあった。何事かと出かけたら東京都都知事選挙への立候補のすすめだった。その種の話を持ってきたら「友人として絶交する」とかねてから私が言ってきたことを承知の上で、今なら在来型の党派・組織に頼らない新しい型の選挙にも勝機があると二人は熱心だった。それまでにあった「その種の話」とこれはちがう、と言ったが、私は乗らなかった。「この席は割り勘にしよう」と私は主張して、その通りになった。せっかくの“好意”に私が応じられないのだから、久しぶりの歓談の場にしたかったのである。
そういう経緯があったから止めてくれると思った私が結果として彼女の背中を押すことになってしまった。
それまでに彼女が意見を聞いた人たちのなかで、やめたほうがよいという最大の理由は、打診してきたのが“落ち目”の社民党だという点だったという。それに本人はお祭り好きで実行力は抜群だが、社会主義といった政治的イデオロギーの持主ではない。
「だけど、土井さんたちにはこれまでずいぶん助けてもらっただろう」と私はたずねた。
「そうなのよ」
「だったら、落ち目だからこそ、ここは返すのが男、いや女というものじゃないかな」
それより、やる以上は勝たないことには意味はない。どこでやれば勝ち目はあるのか。
社民党側はどの比例代表区でもいい、その名簿の上位に据えるという。そこまで追い込まれている証拠だ。
夜中のことで、探し出すまで一苦労はしたが選挙区事情に精通している人を見付けて社民党が比例区で獲得できる議席の可能性をたずねた。
東京で一またはゼロ。大阪では一、大阪のほうがやや確率は高い、という。のちに多くの人が彼女の関西弁になじむように、出身は大阪である。普段活動している東京より地元に戻ったほうがいいのだが、私には一点だけ気にかかることがあって、それさえクリアできれば……と、話はだんだん立候補に傾いていった。
「でも、選挙運動するような着るもの、一枚も持ってへん」
「いくら社民党が貧乏でも、それくらいの面倒は見てくれるはずだ」
議員になってから何度も、自分をこういう境遇に「突き落とした」のは私だと愚痴を言い続けた。「逮捕」されるはるか以前からのことである。
今はさらに恨まれても仕方がない。
だが、私が見通していた以上に、彼女が有能で献身的な国会議員だったという私の評価は今も変わらない。
「逮捕」に至る具体的罪名、彼女が犯した過ち(政治的なものをふくめて)を超えて、彼女の本当の“罪状”は、次の三つであったという指摘に私は同意する。
女性、しかも飾りのものでなく、自立し、自己主張の強い女性だったこと。
「平和」という、今や葬り去りたい記号の化身として登場したこと。
これまた保守政界が忌み嫌う「市民」の衣装をまとって振舞うことに執着したこと。
「権力」はそれを許せなかった。
2
新聞記者、テレビのキャスター、雑誌編集者という仕事をグルグル回りにやってきたというのが、私のジャーナリスト歴で、なかでは最後の部分がもっとも短かいのだが、にもかかわらずおもしろい体験だったという印象が強い。
自分がメディア、つまり媒体であり、さらに言えば、さまざまな才能にそこで演じてもらう「器」なのだ、という感覚が身についたのも雑誌体験あってのことである。
そこでだれに、いつ、どう演じてもらうかを見極めるのが編集者の腕であり、それが雑誌の死命を制する、という仕事である。
この仕事は、さまざまな“売り込み”の標的となり、それをどう捌くかが問われる仕事でもある。捌き損ねて大魚を逸したエピソードも無数にあるが、雑魚が殺到するなかでの判別がむずかしいからこそ、そういうことが起きる。
早稲田大学の学生を名乗る女性から何やら売り込みがあった時もそうだった。やたらに元気がよいという印象はあったが、売り込んできた内容はすぐ忘れてしまうくらいのことであった。
ところが、しばらくすると、同じ女子学生がもっと具体的な提案を持ち込んできた。
前田瓢鰻亭という人がいた。九州出身だが、成田空港建設に反対する三里塚農民たちのなかに身を置いて文筆活動を続けていた。ユーモアを湛えた「洒脱」な人柄の持主で、同じ酒でもドブロクの製造をやって、それを禁ずる国法と果敢な闘争をしたこともある。
提案というのは、この前田老と女子学生、辻元清美が戦後史を作った場所を歩き回りながら語り合うという連載企画であった。
過去のことにほとんど無知な“小娘”に、孫にものを教えるように歴史を案内するという趣向なのだが、驚いたのは、“じいさん役”の瓢鰻亭が「この娘とならやってみてもいい」と言っていることだった。ただの「案」ではなく、当人を説得済みで話を持ち込んで来たのである。
二人に筑豊に出かけてもらい、パイロット版を作った。戦後の産業エネルギーを担った炭坑地帯であり、六〇年安保後、「総資本」対「総労働」の対決の場(三池争議)となった地、そして瓢鰻亭の出身地でもある。
いろいろな事情から、この企画は結局、陽の目を見なかった。「大魚」だったかはともかく、悪くはない試みだったと今でも私は思っている。
若い世代が知らない過去を、その現場に出かけて辿ってみようという発想は、その後(といってもまだ学生である)彼女が主宰した「ピースボート」で具体化した。
教科書問題に触発されて、前の戦争で本当は何が起きたのか、アジアで日本軍は何をしたのかを探る船の旅をしようと思い立ったのである。
理念先行型・抗議型の従来の学生運動とちがって外国への船旅を組み立てるというのは、おそろしく手数がかかり、兵站部分の能力を要求される。ところが、彼女の周りに集まった若者たちはみるみる、そういうノウハウを身に付け、ツーリズムとしてはほぼ未開拓だった船旅のやり方を観光業者が教授を求めてくるまでになった。一方で、業界や運輸省(当時)との摩擦も生んだ。
新左翼、過激派の退潮ですっかり“ひま”になった「公安」関係者が乗船している形跡もあった。だれでも参加費を払えば乗れる。
「かまへん。参加者がふえればこちらは助かるし、やっていることを見てもらえば、大したことも変なこともやってないのはわかるし」と彼女は気にかけなかった。が、この時以来の「マーク」が、その後の伏線になった気が今ではする。
現地を見て歩く、といっても船旅だから、そこに着くまでの時間がたっぷりある。船中は各種のイベントや講座に充てられる。
そこで講師役をつとめる者を水先案内人と呼ぶ。私も何度か、それをやった。
生まれて初めて、ぎっくり腰をやったのも、ベトナムのサイゴン(ホーチミン市)でシクロ(自転車タクシー)の転倒事故で腰を痛めたのも、そんな役を引き受けたためで、私は彼女のことを「疫病神」と呼んでいたが、彼女は一向にめげなかった。私に対してだけでなく、これと目標を定めたら水先案内人、支援者にしてしまう彼女の能力と努力は、その後もはたで眺めていて感嘆することが多かった。手数を惜しまない、労力をいとわない。
「やっとひとり(清美)を撃退したと思ったら、次に大女が現れる。かなわん」とこぼしたのは、超多忙のなかで船に載せられてしまった劇作家の鴻上尚史である。辻元清美の“盟友”石坂啓(漫画家)を「大女」は失礼だが、たしかに二人揃うと迫力はあった。
3
「お前はええとこの育ちだから、苦労を知らんのや」
そう言われながら、言われた当人はニヤニヤしていた。
辻元清美の知り合いは否応なしに、彼女のやることに巻き込まれる。新しい知り合いだろうと、古い友人だろうと。
「ピースボート」を彼女の下で支えることになった幼友だちのその男は、次から次と新しいことを始める彼女に文句を言っていた。その跡始末をしたり、形を整えさせられるのはオレたちじゃないか……。
「私のこと、本当は何も知らないくせに」と彼女は内心、思っていたという。
彼女の生命力の強さ、たくましさはどこから来るものなのか。私は当初、関西の女性が持っている線の太さだろうと漠然と考えていた。それが全く的外れだとは今も思わない。だが、それだけではありえない。
秘密は、少なくともそのひとつは、その「育ち」にある。
「ええとこ」と「どん底」の間を一度ならず往復する家族のなかで彼女は育った。
幼友だちが「ええとこ」と見た時期があったことは事実だが、その後に何が起きたかを彼は知らなかった。一家で夜逃げする者が委細や行き先を告げはしない。
冒険的な実業家(遊び人でもあったらしい)の父親がうまくいっている時は立派な家に住むこともあるが、その家がいつ差押えにあうかわからない。
税務署がやって来て家財道具などに差押えの貼紙をされると、中に入っている物は一切持ち出せないことを幼いころから知っていた彼女は、自分が大事にしているものをいつでも身の回りにまとめて置いていたという。
家具や部屋など、およそ「財」に類するものに執着する彼女を私は見たことがない。小さいころから転々と住いを変え、「無一文」で暮らす習性が染みついてしまったかのようだった。
議員宿舎は、そういう彼女にとっては珍しい「定住」の場所であったはずだが、ある日紙袋を下げて出てきた彼女にばったり会った佐高信がどこに出かけるのか訊ねたら、コインランドリーに洗濯に出かけるところだったという。見かねて佐高は洗濯機をプレゼントした。
私の周りにいる実に多くの友人、知人たちがブツブツ言いながらも彼女の求めに結局は応じ、手助けをすることになるのは、強引さや、それでいて憎めない人柄もあるが、やっていることに私利私益を図ろうとする「私」がないことがわかるからだと思う。
とはいえ、ここらでもう一度勉強し直したいから自分に投資してくれと「清美債」なる奨学金を募った時には、私は呆れた。
「もう十分投資したから私は知らない」と突っぱねるのを見た家人が、「そんな冷たいことを言うのなら私が応じる」と、戻る見込みのない“投資”に加わった。議員になるずっと以前のことである。
議員を辞職するとまた、紙袋を下げて友人宅や病院を転々とする生活に戻った。
そういう彼女に「詐欺」という罪名はおよそふさわしくない。
議員生活のなかで最大の成果はNPO法を作ったことだが、そのために彼女が費やしたエネルギー、説得のねばり腰はすさまじいものだった。それまでNGO、NPOなどボランティア活動は、事務所を置いても、活動費を預金しようにも、電話を引こうにも、公的な認知がないため、代表個人の“名義借り”の世界だった。
当時は自・社・さ政権で曲りなりにも与党の一角に身を置いていたからこそ実現できたのだが、自民党の議員たちは「市民」が嫌いだった。
彼女たちが作った原案に頻出する「市民」の文字をすべて削除することが参院自民党のドンの承認を得る最後の条件となった。
今、この法律の条文を読むと「市民」の文字は一か所だけある。十数カ所あった「市民」を削って最終案をドンのところに持参した彼女は目立たないところに一カ所だけ“削り残して”おいた。目を通す相手が気づきはしないかとハラハラしたが、迂闊にも相手は見逃してしまったのである。
市民運動のノリで議員活動をやったことで結局は墓穴を掘ってしまったのだが、国会の外のこと国を見回すと、“ミニ清美”“清美予備軍”はうようよいる。その元気を活かせなければ、この国は停滞の一途だろう。
***************************************
「政治家の本棚」 早野透/2002年5月/朝日新聞社
辻元清美氏
『何でも見てやろう』が人生を変えた
◎――土井たか子さんの引きでピースボート(民間国際交流団体)の活動家からいきなり国会議員になってしまった清美さん。亡くなった新井将敬氏と同じ幼稚園だったんですって。
辻元 新井さん、先輩なんです。大阪の梅田、曾根崎幼稚園。
◎――子供のころなんども引越ししたとか。
辻元 十二歳までに十九回。父親は洋服屋とか繊維業界にいて、ギャンブルが好きだったんですよ。売り上げを全部持っていくとか、店の商品を全部賭けるとか。そのとき紳士服屋の金さん、日本名は佐川さんていう在日韓国人のおっちゃんの一家が私たちにものすごくよくしてくれて、お金がなくても食べさせてくれたんです。
◎――在日の人たちの暮らしをそばで見ていたのですね。
辻元 娘が就職でけへんておばちゃんが泣いてたりとか、キムチ食べたら臭いと言われて子供が追い返されたとか。でも私らにはすごくいい人、命の恩人。沖縄から来たあけみさんていうねえちゃん、デザイナーを夢見ていたけど、アパート貸してもらわれへんと泣いていた。
◎――沖縄だからですか。
辻元 時々、私、奈良県吉野郡の家に預けられたんですよね。被差別地区があるんです。そこの子たちと一緒に学校に行くんだけど、すごく差別されるんですよ。
ふろやで友達に対して「あ、部落の子が来た」とか言う人がいると、私はね、そういう人の頭から水かけに行ったんだって。五歳のころ。
◎――小学校は大阪で。
辻元 四年のときに、愛日っていう小学校に偶然入るんですよ。「えっ、金持ちの子やな」とか言われる有名校で、みんな塾とかスイミングとか行ってて。親の茶話会は鶴屋八幡を借り切ってやるとか、船場のいとさん、こいさんみたいな人ばっかりが来ているような学校だったの。
◎――えらいところに紛れ込んじゃったのね。
辻元 あなたとこの子供は何もできない、ついてこれませんとか先生に言われて、うちの母親と怒ってさ、勉強しようと。その小学校に来ているうちは弁護士とかお医者さんとか金持ちなんですよ、みんな。勉強して大学行って、金持ちになるんは資本金いらんでと考えた。いや大学に行ってる人なんて見たことなかったんですよ、自分の周りに。
猛勉強始めて、教科書をどーっと全部覚えて、五年の一学期にいきなりオール
になって。
◎――すさまじいなあ。
辻元 生活がかかってたんですよ、とにかく。ところが六年生の夏休みに父親が借金つくって蒸発しちゃって、三年間帰ってこなかった。そやからということで、また奈良の親戚に預けられることになったから、奈良教育大付属中学校に入った。国立は学費が安いからなんだけど、山奥からの通学で片道二時間半かかった。
◎――そんなにかかるのか。
辻元 列車は単線、一時間に一本か二本しかないし。朝は六時前に出てましたね。すごい体力ついたで。
◎――例えば『小公女』読んだとか、『クオレ』で愛情に目覚めたとか、そういうことはなかったの。
辻元 本なんか家に一冊もなかったものね。本読んでる子、あほちゃうか思ってた。一銭の得にもならないと。漫画はね、一応『ベルサイユのばら』とか『エースをねらえ』とか読みましたけど。いや、余裕なかった、生活に追われて。店番とかしてたし。
◎――何の店番。
辻元 紳士服の。小学四年生ぐらいから店番しとったからね。親戚に預けられてからは、ご飯だけ食べさせてもらうという約束だから、必要以上のものは買えない。本なんか読んで泣いたり笑うたり、何がおもしろいんやろという、そういうふうな子供だったんですよ。
ところが、一冊だけものすごく大きな転換になる本があるんです。人生変わった本があるんですよ。
◎――へえ。
辻元 中学のクラスが一緒の吉岡達也君ていう子がいるんです。彼の家は典型的なサラリーマンで、お母さんがラディカルだった。そのお母さんがこの本を読みなさいと彼に渡したのを、おもしろいと学校に持ってきた。それを借りたんです。『何でも見てやろう』だった。
◎――小田実のね。世界中あちこち行く貧乏旅行の。
辻元 一九七五年ごろ、ベトナム戦争が終わるころでしょうか。在日の人たちの差別の問題も自分の中でオリのようにたまってきていたんだけど、それが何なのかというのを系統立てて考えることはなかった。ただ一緒に腹立ったり、笑うたり泣いたりしてた。それがあの本で火がついちゃったんですよ、何か。
◎――「何でも見てやろう」で……。
辻元 あの本にはアメリカの黒人の話とかいっぱい出てくるじゃないですか。自分の中に無自覚にあった世の中に対する矛盾への怒りみたいなものに火がついちゃったんですよ。
◎――なるほど、そうか。
辻元 一挙に、また極端にぶあーっと燃えちゃったんですね。いや、それでね、私、あの本を読んだときに、この人、小田実さんには絶対めぐり合うと思ったんですよ。ぴぴーんて。
高校一年で父親が発見されて、私は父親に引き取られて名古屋に行って、名大付属で高校時代を送るんだけど、私、無気力になっちゃった。あの本読んで、自分がレールに乗りたいと一生懸命やっている行動というのはおかしいんじゃないかと。愛知県は管理教育が厳しくて、反発してたこともあったしね。そしたら小田実さんが講演に来はったんです、名古屋に。楽屋に訪ねたら小田さんが駅の喫茶店で話を聞こうといってくれた。その日から仲よしになっちゃったんですよ。そこから私の人生が変わった。一八歳の時です。
◎――名古屋でお父さんは。
辻元 クリーニング屋で集配してたんです。団地で一軒ずつ訪ねて「おたく、クリーニングありませんか」言うて配送料をもらうという仕事をして。でも全然だめだった。もうあかん、何かしようか、腹減ったなと、夜中に家族で立ち食いうどん屋に行く、えらいはやてんねん。うどん屋やろういうて、次の日から借金して古道具買いに行ったり粗大ごみ集めたりして。ところが最後にどんぶりだけ買えないんですよ、お金がなくて。
◎――どんぶりないと商売できない。
辻元 ようやく買うて、初日は私と母親がうどん売ってね。ちょっと屋根ついた、五人ぐらいしか食べられないとこだったけどね。それが当たったんです。
◎――どんなんでも食っていけるんだという自信ができますね。
辻元 だから私、社民党が与党を離脱したらどうやって生きていけばいいかという話聞くと、あほちゃうか、何もなくたって生きていけるんだよって。
◎――お父さんもさすらいのギャンブラーという感じですね。
辻元 うん。死なんだらええわっていう感じで。会社に就職してて給料もらってる人なんて周りにいなかった。
だから、のちにピースボートやってて、「あなたはレールをどうして外れたんですか」と聞かれたけど、いや、うちは初めから外れとって、何とか乗ろうと勉強したし、皆で普通の家族になりたいと一生懸命やってたけど、できなかったんですね。
◎――これからの社民党の精神的支柱になるよ、これは。何だって食ってけんだって。おたおた格好つけてためらってるんじゃないということですね。
辻元 高校を卒業して二年間はデパートで働いた。ほら小ちゃいときから店番してたから、紳士服売り場でめちゃめちゃよう売る売り子だったんですよ。でもやっぱりね、大学行きたくなっちゃって。大学なんか行ってもしょうもないやろと思ってたんだけど、どんなしょうもないとこか見に行ってやろ思ったんです。じゃないと、行ったらよかったかなって一生思うかもしれんからと思って。
◎――で、また、勉強して。
辻元 東京に出てきた。
◎――早稲田の教育学部に行ったわけですね。どんなふうに過ごしたんです。
辻元 四月に高田馬場の駅から早稲田のほうに向かってたら、ばったりルポライターの吉岡忍さんに会ったんですよね、久しぶりに。おれの事務所に行こうと連れていかれたのがアジア・アフリカ作家会議でね、手伝えと言われたのね。それから当時、光州事件があって、小田実さんから韓国民主化支援の国際会議をボランティアで手伝ってほしいと言われ、私の誕生日に焼肉食わしたるからとか言われて、それからずるずる手伝う羽目になったんです。
◎――世界の出来事がぼくたちの心にはね返ってくる。そういう時代でしたね、あのころは。
辻元 私も二十歳。国際会議にボランティアで働くと、何て私ってあほなんだと思ったわけですよ。
◎――何でまたそんな。
辻元 世界中からいろんな人が来て、毎日議論していく。知らないことばかり。もっと勉強せなあかんなと思って、そのときは本も読まなあかんというふうに思うんだけど。フィリピンなんかへ行ってスラムで暮らしている人たちに対して本を読めと講釈したりしても、そんなんあんまり関係ないもんてあるやん。何かなじまないんだよね。
◎――しかし、やっぱり本を読むということの価値もあるんですよ。
辻元 あるある。大学三年生のときにピースボートを設立したわけですよ。仲間四人と。中学の同級生の吉岡達也君なんかとね。それは昔の運動に対する反発みたいなところから生まれている。暗いし難しいし広がりがないし、そんな古臭い運動のスタイルはだめだと。それでピースボートというスタイルをつくっていったんだけど、その間にやっぱり本は読まなくちゃと思って、ある時期、毎日一冊本を買うということをやってみた。毎日毎日本屋へ行ったんです。
土日には結婚式場で巫女のバイト、月曜日は銀座のジャズバーで働いて、家庭教師も週二回やってた。そのお金で毎日本を買っても、やっぱり読まない。でも、本ていうのは、本屋に行って選らんだ瞬間、一つの何かがあるでしょう。
◎――積んでおくだけだって、何か刺激されて想念が浮かぶんだから。
辻元 家中、本になっちゃった。壁全部本なの。でも、読む本はどうしてもフィリピンに行くとかベトナム行くとかで、実学的というか、ピースボートで行く国の下調べのためとかいうことになっちゃって。
お金も集めなくちゃ、参加者も集めなくちゃいけないと活動に追われるでしょう。とにかく寝る暇もなくやっていたくらいだったから……。
◎――文学少女になっている暇ははかったね。
辻元 うん。その中で『墨攻』という本を読んだんだ。墨子という集団は中国の歴史の中で絶対に他国を攻めないんですよ。ある一つの村が攻め落とされそうになるときに、墨子集団の一人がここに入っていって・・・…。
◎――一種の思想集団だな。
辻元 村人は一人一人では何もできないんだけども、みんなが戦いに参加して活性化して、村を守るという話。その人はおしっこから血が出るぐらい先頭に立ってやるんだけど、彼がいなくなったらもろくも村は侵略されてしまうんだ。これはピースボートの活動に疲れて落ち込んでいる時、ある人から読んでみたらと勧められた。
◎――そのころの生き方とかかわるところがありますね。
辻元 そうですね。ピースボートを一生懸命やってたんですよね。どういうふうに組織化していけばいいか、それを悩んでたり、考えてたりしてたから。
◎――一人一人は無力でもどう組織化してパワーを出すか。
辻元 それが参加という概念ですよ。政治も一緒だと思うんですけど、自分が参加しているという意識があれば、皆すごく活性化してくるわけです。
ただ、この中心人物が殺されてしまったら、侵略された。ピースボートは、私がいなくなってもだれかが回していける。そういう組織づくりを目指したいということで、最終的な結論は反面教師っぽくなるんだけど。
◎――参加民主主義の継続は、今日の社民党の問題でもあるよね。
辻元 社民党を市民参加の党にしたいと思っているんですよ。参加のシステムをつくらにゃあかんのや。野党になったら、それを実験したいと思っているんですけど。
◎――むだな読書してませんね。
辻元 自分は読まへんけど、この本つくったんですよ。『ザ・漱石』。漱石の小説が一冊になっているんです。このアイディアで百万円もらった、大学生のとき。
◎――これ、漱石の小説が全部載っているの。
辻元 全部入っています。電話帳みたいに。死後五十年たってるから、だれでも出せるので。岩波の全集は高いわけです。岩波、この本に怒っていたらしい。品位落としたとか言って。
◎――しかしあなたがいくつか出している本にしろ、『週刊金曜日』の「永田町航海記」にしろ、自分の文章の調子を持っている。おもしろいけどね。
辻元 心に思うとおり書いている。
ただ限界があるのはね、言葉を知らないんですよ。本読んでへんから。演説してもね、単語が出てこない。ボキャブラリーが少ない。核心の言葉が言えなくて、周辺部をうろうろしてる。自分でわかるの。いらいらするし、なさけない。
◎――そうか、ひょっとしたらそういう苛立ちはあるかもしれないね。ところでこのまま結婚しないのかな……。
辻元 やだ、やだ、それは。結婚するかどうか別としてね、色気ないとね、やっぱりだめだと思う。『源氏物語』って結構好きなんですよ、私。
◎――こりゃまた。
辻元 瀬戸内寂聴さんとか田辺聖子さんとかの『源氏物語』をね、疲れたときにぱらぱら見るっていうか。あれは恋愛のあらゆる面が出てますよね。中国の古典が総合的なのと同じように。
◎――途切れがちな色気を補給しているわけだな。
辻元 そうそう、補給しているわけ、『源氏物語』で。ダセー。
《対談後期=1998年7月》
辻元清美さんは、社民党の、いや政界の新しい星である。自民党の古強者たちをおだてたりすかしたり、ひっかけたりして、NPO法案を成立させた働きぶりは、なかなかのものだった。
『何でも見てやろう』の野性味とピースボートを経営して身につけた組織を動かす感覚は政治への応用がきく。ひょっとしたら落ち目の三度笠の社民党を崖っぷちで救う役割を担うことになるかもしれない。
問題は選挙基盤だ。さきの総選挙で近畿比例区で当選した一年生、ぜひ足場を固めて議員を続けてほしい。
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(リード)
『首相官邸で働いて初めてわかったこと』は、下村健一氏が2010年10月からの二年間、菅政権の要請により、内閣府広報審議官として務めた時のことをレポートしている。
首相官邸という場所で「人々はどんな会話をして、どんなことを考え巡らせて、どんな理想を信じたり諦めたりして物事を決めていっているのか」を平明に答えている。東日本大震災発災後の首相官邸の動き中で、辻元清美の仕事記録の一端が紹介されているので、ここで紹介する。
(抜粋)
『首相官邸で働いて初めてわかったこと』
下村健一 著(朝日新書 2013年3月)より抜粋
第三章 すべてを変えた東日本大震災 2011年3月11日~5月
「必要なのは、水と食糧と情報!」――官邸初“壁新聞”誕生
ラジオと並んで、被災地で威力を発揮する情報手段が、貼り紙だ。三月三〇日からは、避難所の掲示板や、被災地の郵便局・農協・スーパー・コンビニ等、数千カ所に張り出すA3判の壁新聞「政府からのお知らせ」を発行開始した。アンケートを添えて、被災地のニーズのキャッチを試みたりもしながら、不定期に全一五号まで出した。
避難所にはすでに膨大な貼り紙があるので、その中で目を引かなければいけない。そこでここでも、特設ホームページと同様に、赤い太枠で紙面全体を囲み、これが政府のお知らせであることがわかるようにした。
第一号はまず冒頭で、「被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。半月を過ぎて皆様が今だご不便の中におられること、広大な被災地のすべての皆様に支援の手が届くのに大変時間がかかっていること、本当に申し訳ございません」と、政府としてお詫びをし、それから政府が今やっている取り組みを紹介。さらに「余震への注意喚起」、「健康への注意喚起」、それから「ラジオ番組もやっているから聞いてください」と伝えた。
そして、赤枠の一番下には、避難所にいる人たちへの呼びかけで、避難所内に目の不自由な人がいたら、周りの皆さん、どうぞこの新聞を読んであげてくださいと書き添えた。政府ができる広報には本当に限界があったので、ここでもまた、震災初日の帰宅困難者情報のように、情報の自主的リレーに期待した。
問題は、この壁新聞をどうやって避難所まで届けるかだった。そこで、自衛隊が食糧や物資を持って行くときに、一緒に運んでもらえないかと、防衛省に打診した。しかし、自衛隊としては当然ながら、「我々は命を助けに行っているのに、何で新聞配達をしなければならないのか」と当惑した。昼夜を問わず必死になって人命救助にあたっていた隊員の皆さんにしてみれば、もっともな感覚ではあった。その頃、官邸での大臣たちが集まる緊急対策本部の会合で、
ボランティア経験豊富な辻元清美総理補佐官が、皆に向かって、
「いま被災地に必要なものは、水と食料と、情報や!」
と力説してくれた。その後、自衛隊にも理解が得られ、まさに、水と食料と同時に壁新聞を運ぶ体制が整っていった。
―――それにしても、ミニFMラジオとか壁新聞とか、今まで僕が市民メディア・アドバイザーとして手伝ってきたような発信形態を、まさかこの首相官邸で仕事にする日が来ようとは、夢にも思わなかった。僕がこの職に就いたのは、実はこれを手伝うためだったのだろうか……と、少々不思議な気持ちだった。
前回のブログで辻元特集をしたわけですが、調べるほどに辻元議員のNPO法制定にかける思いの強さを知りました。成立に至るまでにいろいろな困難を乗り越えているんですね~
私も、種々のNPO団体と関わることがあるので、NPO法ができるまでのストーリーには心惹かれるものがありました。
何冊か辻元氏に触れた著作がありましたので、本日はその部分を一部抜粋したいと思います。(長いよw)
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『旅の途中 ージャーナリストとしての私をつくった39人との出会いー』
筑紫哲也 著 (朝日文庫新刊 2013年1月)より抜粋
辻元清美 本当の“罪状”
辻元清美(つじもと・きよみ)「ピースボート」創設者、政治家。一九六〇年、奈良県生まれの大阪育ち。早大在学中の八三年、「ピースボート」を設立し、第二次大戦やベトナム戦争の戦跡を巡る。九六年、社民党から衆院に当選。NPO法、情報公開法などに取り組み、成立させる。二〇〇二年、議員辞職。全国のNPOのコーディネート、平和・環境・男女共同参画などについての言論活動を展開する。〇五年の衆院選で当選し、政界復帰。
1
この人についてはいずれ書くつもりではいたが、この時期がよいのかは迷いに迷った。
この人について起きたことに、こちらには腹に据えかねる思いがあり、そういう浪立つ心境の下で書くよりは別の機会を選んだ方が余計な神経を使わないで済む。そうも思ったのだが、この時期だからこそ、書いておかないと気が済まない、という思いも募り、そのせめぎ合いに悩まされて今に至った。
この際だからこそ、書くことにしよう。
私は若いころから政治記者だったから、政治家にそれなりの知己は多い。その世界が好きでなくとも、その後の仕事でも政治とのかかわりは持たざるをえなかった。
その一方で、私が知り合った時には政治家でも何でもなかった人が、その後に政界入りしたという例も少なくない。
この人――辻元清美もそのひとりである。
それどころか、彼女がそうなるについて、少なからぬかかわりがあった。
ある日、彼女から突然の電話があった。
「今日中に至急会いたい」
番組の準備で時間の空きが全くなかった私は、番組終了後の深夜ならば、と答えた。
テレビ局の私の居室に現れた彼女は「どうしよう」を連発した。
社民党の土井たか子委員長から、近くに迫っている衆院選挙への立候補を打診されている。もう日が変ってその日の午前一一時の同党候補の発表までに返事をしなければならないーー「どうしよう」。
後でわかったことだが、この最後の瞬間に彼女が私に期待したのは迷っている自分を制止してくれる役だった。そう期待してよい理由もなくはなかった。
長く政界にかかわってはいても、権力が否応なく帯びてしまう「毒」に警戒心が強い私の性癖を知っていたこともあるが、もっと具体的な出来事がその前にあったからである。
珍しく彼女と、私が長年敬愛している先輩、石川真澄氏の二人が下町の小料理屋に席を設けて私を招いてくれたことがあった。何事かと出かけたら東京都都知事選挙への立候補のすすめだった。その種の話を持ってきたら「友人として絶交する」とかねてから私が言ってきたことを承知の上で、今なら在来型の党派・組織に頼らない新しい型の選挙にも勝機があると二人は熱心だった。それまでにあった「その種の話」とこれはちがう、と言ったが、私は乗らなかった。「この席は割り勘にしよう」と私は主張して、その通りになった。せっかくの“好意”に私が応じられないのだから、久しぶりの歓談の場にしたかったのである。
そういう経緯があったから止めてくれると思った私が結果として彼女の背中を押すことになってしまった。
それまでに彼女が意見を聞いた人たちのなかで、やめたほうがよいという最大の理由は、打診してきたのが“落ち目”の社民党だという点だったという。それに本人はお祭り好きで実行力は抜群だが、社会主義といった政治的イデオロギーの持主ではない。
「だけど、土井さんたちにはこれまでずいぶん助けてもらっただろう」と私はたずねた。
「そうなのよ」
「だったら、落ち目だからこそ、ここは返すのが男、いや女というものじゃないかな」
それより、やる以上は勝たないことには意味はない。どこでやれば勝ち目はあるのか。
社民党側はどの比例代表区でもいい、その名簿の上位に据えるという。そこまで追い込まれている証拠だ。
夜中のことで、探し出すまで一苦労はしたが選挙区事情に精通している人を見付けて社民党が比例区で獲得できる議席の可能性をたずねた。
東京で一またはゼロ。大阪では一、大阪のほうがやや確率は高い、という。のちに多くの人が彼女の関西弁になじむように、出身は大阪である。普段活動している東京より地元に戻ったほうがいいのだが、私には一点だけ気にかかることがあって、それさえクリアできれば……と、話はだんだん立候補に傾いていった。
「でも、選挙運動するような着るもの、一枚も持ってへん」
「いくら社民党が貧乏でも、それくらいの面倒は見てくれるはずだ」
議員になってから何度も、自分をこういう境遇に「突き落とした」のは私だと愚痴を言い続けた。「逮捕」されるはるか以前からのことである。
今はさらに恨まれても仕方がない。
だが、私が見通していた以上に、彼女が有能で献身的な国会議員だったという私の評価は今も変わらない。
「逮捕」に至る具体的罪名、彼女が犯した過ち(政治的なものをふくめて)を超えて、彼女の本当の“罪状”は、次の三つであったという指摘に私は同意する。
女性、しかも飾りのものでなく、自立し、自己主張の強い女性だったこと。
「平和」という、今や葬り去りたい記号の化身として登場したこと。
これまた保守政界が忌み嫌う「市民」の衣装をまとって振舞うことに執着したこと。
「権力」はそれを許せなかった。
2
新聞記者、テレビのキャスター、雑誌編集者という仕事をグルグル回りにやってきたというのが、私のジャーナリスト歴で、なかでは最後の部分がもっとも短かいのだが、にもかかわらずおもしろい体験だったという印象が強い。
自分がメディア、つまり媒体であり、さらに言えば、さまざまな才能にそこで演じてもらう「器」なのだ、という感覚が身についたのも雑誌体験あってのことである。
そこでだれに、いつ、どう演じてもらうかを見極めるのが編集者の腕であり、それが雑誌の死命を制する、という仕事である。
この仕事は、さまざまな“売り込み”の標的となり、それをどう捌くかが問われる仕事でもある。捌き損ねて大魚を逸したエピソードも無数にあるが、雑魚が殺到するなかでの判別がむずかしいからこそ、そういうことが起きる。
早稲田大学の学生を名乗る女性から何やら売り込みがあった時もそうだった。やたらに元気がよいという印象はあったが、売り込んできた内容はすぐ忘れてしまうくらいのことであった。
ところが、しばらくすると、同じ女子学生がもっと具体的な提案を持ち込んできた。
前田瓢鰻亭という人がいた。九州出身だが、成田空港建設に反対する三里塚農民たちのなかに身を置いて文筆活動を続けていた。ユーモアを湛えた「洒脱」な人柄の持主で、同じ酒でもドブロクの製造をやって、それを禁ずる国法と果敢な闘争をしたこともある。
提案というのは、この前田老と女子学生、辻元清美が戦後史を作った場所を歩き回りながら語り合うという連載企画であった。
過去のことにほとんど無知な“小娘”に、孫にものを教えるように歴史を案内するという趣向なのだが、驚いたのは、“じいさん役”の瓢鰻亭が「この娘とならやってみてもいい」と言っていることだった。ただの「案」ではなく、当人を説得済みで話を持ち込んで来たのである。
二人に筑豊に出かけてもらい、パイロット版を作った。戦後の産業エネルギーを担った炭坑地帯であり、六〇年安保後、「総資本」対「総労働」の対決の場(三池争議)となった地、そして瓢鰻亭の出身地でもある。
いろいろな事情から、この企画は結局、陽の目を見なかった。「大魚」だったかはともかく、悪くはない試みだったと今でも私は思っている。
若い世代が知らない過去を、その現場に出かけて辿ってみようという発想は、その後(といってもまだ学生である)彼女が主宰した「ピースボート」で具体化した。
教科書問題に触発されて、前の戦争で本当は何が起きたのか、アジアで日本軍は何をしたのかを探る船の旅をしようと思い立ったのである。
理念先行型・抗議型の従来の学生運動とちがって外国への船旅を組み立てるというのは、おそろしく手数がかかり、兵站部分の能力を要求される。ところが、彼女の周りに集まった若者たちはみるみる、そういうノウハウを身に付け、ツーリズムとしてはほぼ未開拓だった船旅のやり方を観光業者が教授を求めてくるまでになった。一方で、業界や運輸省(当時)との摩擦も生んだ。
新左翼、過激派の退潮ですっかり“ひま”になった「公安」関係者が乗船している形跡もあった。だれでも参加費を払えば乗れる。
「かまへん。参加者がふえればこちらは助かるし、やっていることを見てもらえば、大したことも変なこともやってないのはわかるし」と彼女は気にかけなかった。が、この時以来の「マーク」が、その後の伏線になった気が今ではする。
現地を見て歩く、といっても船旅だから、そこに着くまでの時間がたっぷりある。船中は各種のイベントや講座に充てられる。
そこで講師役をつとめる者を水先案内人と呼ぶ。私も何度か、それをやった。
生まれて初めて、ぎっくり腰をやったのも、ベトナムのサイゴン(ホーチミン市)でシクロ(自転車タクシー)の転倒事故で腰を痛めたのも、そんな役を引き受けたためで、私は彼女のことを「疫病神」と呼んでいたが、彼女は一向にめげなかった。私に対してだけでなく、これと目標を定めたら水先案内人、支援者にしてしまう彼女の能力と努力は、その後もはたで眺めていて感嘆することが多かった。手数を惜しまない、労力をいとわない。
「やっとひとり(清美)を撃退したと思ったら、次に大女が現れる。かなわん」とこぼしたのは、超多忙のなかで船に載せられてしまった劇作家の鴻上尚史である。辻元清美の“盟友”石坂啓(漫画家)を「大女」は失礼だが、たしかに二人揃うと迫力はあった。
3
「お前はええとこの育ちだから、苦労を知らんのや」
そう言われながら、言われた当人はニヤニヤしていた。
辻元清美の知り合いは否応なしに、彼女のやることに巻き込まれる。新しい知り合いだろうと、古い友人だろうと。
「ピースボート」を彼女の下で支えることになった幼友だちのその男は、次から次と新しいことを始める彼女に文句を言っていた。その跡始末をしたり、形を整えさせられるのはオレたちじゃないか……。
「私のこと、本当は何も知らないくせに」と彼女は内心、思っていたという。
彼女の生命力の強さ、たくましさはどこから来るものなのか。私は当初、関西の女性が持っている線の太さだろうと漠然と考えていた。それが全く的外れだとは今も思わない。だが、それだけではありえない。
秘密は、少なくともそのひとつは、その「育ち」にある。
「ええとこ」と「どん底」の間を一度ならず往復する家族のなかで彼女は育った。
幼友だちが「ええとこ」と見た時期があったことは事実だが、その後に何が起きたかを彼は知らなかった。一家で夜逃げする者が委細や行き先を告げはしない。
冒険的な実業家(遊び人でもあったらしい)の父親がうまくいっている時は立派な家に住むこともあるが、その家がいつ差押えにあうかわからない。
税務署がやって来て家財道具などに差押えの貼紙をされると、中に入っている物は一切持ち出せないことを幼いころから知っていた彼女は、自分が大事にしているものをいつでも身の回りにまとめて置いていたという。
家具や部屋など、およそ「財」に類するものに執着する彼女を私は見たことがない。小さいころから転々と住いを変え、「無一文」で暮らす習性が染みついてしまったかのようだった。
議員宿舎は、そういう彼女にとっては珍しい「定住」の場所であったはずだが、ある日紙袋を下げて出てきた彼女にばったり会った佐高信がどこに出かけるのか訊ねたら、コインランドリーに洗濯に出かけるところだったという。見かねて佐高は洗濯機をプレゼントした。
私の周りにいる実に多くの友人、知人たちがブツブツ言いながらも彼女の求めに結局は応じ、手助けをすることになるのは、強引さや、それでいて憎めない人柄もあるが、やっていることに私利私益を図ろうとする「私」がないことがわかるからだと思う。
とはいえ、ここらでもう一度勉強し直したいから自分に投資してくれと「清美債」なる奨学金を募った時には、私は呆れた。
「もう十分投資したから私は知らない」と突っぱねるのを見た家人が、「そんな冷たいことを言うのなら私が応じる」と、戻る見込みのない“投資”に加わった。議員になるずっと以前のことである。
議員を辞職するとまた、紙袋を下げて友人宅や病院を転々とする生活に戻った。
そういう彼女に「詐欺」という罪名はおよそふさわしくない。
議員生活のなかで最大の成果はNPO法を作ったことだが、そのために彼女が費やしたエネルギー、説得のねばり腰はすさまじいものだった。それまでNGO、NPOなどボランティア活動は、事務所を置いても、活動費を預金しようにも、電話を引こうにも、公的な認知がないため、代表個人の“名義借り”の世界だった。
当時は自・社・さ政権で曲りなりにも与党の一角に身を置いていたからこそ実現できたのだが、自民党の議員たちは「市民」が嫌いだった。
彼女たちが作った原案に頻出する「市民」の文字をすべて削除することが参院自民党のドンの承認を得る最後の条件となった。
今、この法律の条文を読むと「市民」の文字は一か所だけある。十数カ所あった「市民」を削って最終案をドンのところに持参した彼女は目立たないところに一カ所だけ“削り残して”おいた。目を通す相手が気づきはしないかとハラハラしたが、迂闊にも相手は見逃してしまったのである。
市民運動のノリで議員活動をやったことで結局は墓穴を掘ってしまったのだが、国会の外のこと国を見回すと、“ミニ清美”“清美予備軍”はうようよいる。その元気を活かせなければ、この国は停滞の一途だろう。
***************************************
「政治家の本棚」 早野透/2002年5月/朝日新聞社
辻元清美氏
『何でも見てやろう』が人生を変えた
◎――土井たか子さんの引きでピースボート(民間国際交流団体)の活動家からいきなり国会議員になってしまった清美さん。亡くなった新井将敬氏と同じ幼稚園だったんですって。
辻元 新井さん、先輩なんです。大阪の梅田、曾根崎幼稚園。
◎――子供のころなんども引越ししたとか。
辻元 十二歳までに十九回。父親は洋服屋とか繊維業界にいて、ギャンブルが好きだったんですよ。売り上げを全部持っていくとか、店の商品を全部賭けるとか。そのとき紳士服屋の金さん、日本名は佐川さんていう在日韓国人のおっちゃんの一家が私たちにものすごくよくしてくれて、お金がなくても食べさせてくれたんです。
◎――在日の人たちの暮らしをそばで見ていたのですね。
辻元 娘が就職でけへんておばちゃんが泣いてたりとか、キムチ食べたら臭いと言われて子供が追い返されたとか。でも私らにはすごくいい人、命の恩人。沖縄から来たあけみさんていうねえちゃん、デザイナーを夢見ていたけど、アパート貸してもらわれへんと泣いていた。
◎――沖縄だからですか。
辻元 時々、私、奈良県吉野郡の家に預けられたんですよね。被差別地区があるんです。そこの子たちと一緒に学校に行くんだけど、すごく差別されるんですよ。
ふろやで友達に対して「あ、部落の子が来た」とか言う人がいると、私はね、そういう人の頭から水かけに行ったんだって。五歳のころ。
◎――小学校は大阪で。
辻元 四年のときに、愛日っていう小学校に偶然入るんですよ。「えっ、金持ちの子やな」とか言われる有名校で、みんな塾とかスイミングとか行ってて。親の茶話会は鶴屋八幡を借り切ってやるとか、船場のいとさん、こいさんみたいな人ばっかりが来ているような学校だったの。
◎――えらいところに紛れ込んじゃったのね。
辻元 あなたとこの子供は何もできない、ついてこれませんとか先生に言われて、うちの母親と怒ってさ、勉強しようと。その小学校に来ているうちは弁護士とかお医者さんとか金持ちなんですよ、みんな。勉強して大学行って、金持ちになるんは資本金いらんでと考えた。いや大学に行ってる人なんて見たことなかったんですよ、自分の周りに。
猛勉強始めて、教科書をどーっと全部覚えて、五年の一学期にいきなりオール
になって。
◎――すさまじいなあ。
辻元 生活がかかってたんですよ、とにかく。ところが六年生の夏休みに父親が借金つくって蒸発しちゃって、三年間帰ってこなかった。そやからということで、また奈良の親戚に預けられることになったから、奈良教育大付属中学校に入った。国立は学費が安いからなんだけど、山奥からの通学で片道二時間半かかった。
◎――そんなにかかるのか。
辻元 列車は単線、一時間に一本か二本しかないし。朝は六時前に出てましたね。すごい体力ついたで。
◎――例えば『小公女』読んだとか、『クオレ』で愛情に目覚めたとか、そういうことはなかったの。
辻元 本なんか家に一冊もなかったものね。本読んでる子、あほちゃうか思ってた。一銭の得にもならないと。漫画はね、一応『ベルサイユのばら』とか『エースをねらえ』とか読みましたけど。いや、余裕なかった、生活に追われて。店番とかしてたし。
◎――何の店番。
辻元 紳士服の。小学四年生ぐらいから店番しとったからね。親戚に預けられてからは、ご飯だけ食べさせてもらうという約束だから、必要以上のものは買えない。本なんか読んで泣いたり笑うたり、何がおもしろいんやろという、そういうふうな子供だったんですよ。
ところが、一冊だけものすごく大きな転換になる本があるんです。人生変わった本があるんですよ。
◎――へえ。
辻元 中学のクラスが一緒の吉岡達也君ていう子がいるんです。彼の家は典型的なサラリーマンで、お母さんがラディカルだった。そのお母さんがこの本を読みなさいと彼に渡したのを、おもしろいと学校に持ってきた。それを借りたんです。『何でも見てやろう』だった。
◎――小田実のね。世界中あちこち行く貧乏旅行の。
辻元 一九七五年ごろ、ベトナム戦争が終わるころでしょうか。在日の人たちの差別の問題も自分の中でオリのようにたまってきていたんだけど、それが何なのかというのを系統立てて考えることはなかった。ただ一緒に腹立ったり、笑うたり泣いたりしてた。それがあの本で火がついちゃったんですよ、何か。
◎――「何でも見てやろう」で……。
辻元 あの本にはアメリカの黒人の話とかいっぱい出てくるじゃないですか。自分の中に無自覚にあった世の中に対する矛盾への怒りみたいなものに火がついちゃったんですよ。
◎――なるほど、そうか。
辻元 一挙に、また極端にぶあーっと燃えちゃったんですね。いや、それでね、私、あの本を読んだときに、この人、小田実さんには絶対めぐり合うと思ったんですよ。ぴぴーんて。
高校一年で父親が発見されて、私は父親に引き取られて名古屋に行って、名大付属で高校時代を送るんだけど、私、無気力になっちゃった。あの本読んで、自分がレールに乗りたいと一生懸命やっている行動というのはおかしいんじゃないかと。愛知県は管理教育が厳しくて、反発してたこともあったしね。そしたら小田実さんが講演に来はったんです、名古屋に。楽屋に訪ねたら小田さんが駅の喫茶店で話を聞こうといってくれた。その日から仲よしになっちゃったんですよ。そこから私の人生が変わった。一八歳の時です。
◎――名古屋でお父さんは。
辻元 クリーニング屋で集配してたんです。団地で一軒ずつ訪ねて「おたく、クリーニングありませんか」言うて配送料をもらうという仕事をして。でも全然だめだった。もうあかん、何かしようか、腹減ったなと、夜中に家族で立ち食いうどん屋に行く、えらいはやてんねん。うどん屋やろういうて、次の日から借金して古道具買いに行ったり粗大ごみ集めたりして。ところが最後にどんぶりだけ買えないんですよ、お金がなくて。
◎――どんぶりないと商売できない。
辻元 ようやく買うて、初日は私と母親がうどん売ってね。ちょっと屋根ついた、五人ぐらいしか食べられないとこだったけどね。それが当たったんです。
◎――どんなんでも食っていけるんだという自信ができますね。
辻元 だから私、社民党が与党を離脱したらどうやって生きていけばいいかという話聞くと、あほちゃうか、何もなくたって生きていけるんだよって。
◎――お父さんもさすらいのギャンブラーという感じですね。
辻元 うん。死なんだらええわっていう感じで。会社に就職してて給料もらってる人なんて周りにいなかった。
だから、のちにピースボートやってて、「あなたはレールをどうして外れたんですか」と聞かれたけど、いや、うちは初めから外れとって、何とか乗ろうと勉強したし、皆で普通の家族になりたいと一生懸命やってたけど、できなかったんですね。
◎――これからの社民党の精神的支柱になるよ、これは。何だって食ってけんだって。おたおた格好つけてためらってるんじゃないということですね。
辻元 高校を卒業して二年間はデパートで働いた。ほら小ちゃいときから店番してたから、紳士服売り場でめちゃめちゃよう売る売り子だったんですよ。でもやっぱりね、大学行きたくなっちゃって。大学なんか行ってもしょうもないやろと思ってたんだけど、どんなしょうもないとこか見に行ってやろ思ったんです。じゃないと、行ったらよかったかなって一生思うかもしれんからと思って。
◎――で、また、勉強して。
辻元 東京に出てきた。
◎――早稲田の教育学部に行ったわけですね。どんなふうに過ごしたんです。
辻元 四月に高田馬場の駅から早稲田のほうに向かってたら、ばったりルポライターの吉岡忍さんに会ったんですよね、久しぶりに。おれの事務所に行こうと連れていかれたのがアジア・アフリカ作家会議でね、手伝えと言われたのね。それから当時、光州事件があって、小田実さんから韓国民主化支援の国際会議をボランティアで手伝ってほしいと言われ、私の誕生日に焼肉食わしたるからとか言われて、それからずるずる手伝う羽目になったんです。
◎――世界の出来事がぼくたちの心にはね返ってくる。そういう時代でしたね、あのころは。
辻元 私も二十歳。国際会議にボランティアで働くと、何て私ってあほなんだと思ったわけですよ。
◎――何でまたそんな。
辻元 世界中からいろんな人が来て、毎日議論していく。知らないことばかり。もっと勉強せなあかんなと思って、そのときは本も読まなあかんというふうに思うんだけど。フィリピンなんかへ行ってスラムで暮らしている人たちに対して本を読めと講釈したりしても、そんなんあんまり関係ないもんてあるやん。何かなじまないんだよね。
◎――しかし、やっぱり本を読むということの価値もあるんですよ。
辻元 あるある。大学三年生のときにピースボートを設立したわけですよ。仲間四人と。中学の同級生の吉岡達也君なんかとね。それは昔の運動に対する反発みたいなところから生まれている。暗いし難しいし広がりがないし、そんな古臭い運動のスタイルはだめだと。それでピースボートというスタイルをつくっていったんだけど、その間にやっぱり本は読まなくちゃと思って、ある時期、毎日一冊本を買うということをやってみた。毎日毎日本屋へ行ったんです。
土日には結婚式場で巫女のバイト、月曜日は銀座のジャズバーで働いて、家庭教師も週二回やってた。そのお金で毎日本を買っても、やっぱり読まない。でも、本ていうのは、本屋に行って選らんだ瞬間、一つの何かがあるでしょう。
◎――積んでおくだけだって、何か刺激されて想念が浮かぶんだから。
辻元 家中、本になっちゃった。壁全部本なの。でも、読む本はどうしてもフィリピンに行くとかベトナム行くとかで、実学的というか、ピースボートで行く国の下調べのためとかいうことになっちゃって。
お金も集めなくちゃ、参加者も集めなくちゃいけないと活動に追われるでしょう。とにかく寝る暇もなくやっていたくらいだったから……。
◎――文学少女になっている暇ははかったね。
辻元 うん。その中で『墨攻』という本を読んだんだ。墨子という集団は中国の歴史の中で絶対に他国を攻めないんですよ。ある一つの村が攻め落とされそうになるときに、墨子集団の一人がここに入っていって・・・…。
◎――一種の思想集団だな。
辻元 村人は一人一人では何もできないんだけども、みんなが戦いに参加して活性化して、村を守るという話。その人はおしっこから血が出るぐらい先頭に立ってやるんだけど、彼がいなくなったらもろくも村は侵略されてしまうんだ。これはピースボートの活動に疲れて落ち込んでいる時、ある人から読んでみたらと勧められた。
◎――そのころの生き方とかかわるところがありますね。
辻元 そうですね。ピースボートを一生懸命やってたんですよね。どういうふうに組織化していけばいいか、それを悩んでたり、考えてたりしてたから。
◎――一人一人は無力でもどう組織化してパワーを出すか。
辻元 それが参加という概念ですよ。政治も一緒だと思うんですけど、自分が参加しているという意識があれば、皆すごく活性化してくるわけです。
ただ、この中心人物が殺されてしまったら、侵略された。ピースボートは、私がいなくなってもだれかが回していける。そういう組織づくりを目指したいということで、最終的な結論は反面教師っぽくなるんだけど。
◎――参加民主主義の継続は、今日の社民党の問題でもあるよね。
辻元 社民党を市民参加の党にしたいと思っているんですよ。参加のシステムをつくらにゃあかんのや。野党になったら、それを実験したいと思っているんですけど。
◎――むだな読書してませんね。
辻元 自分は読まへんけど、この本つくったんですよ。『ザ・漱石』。漱石の小説が一冊になっているんです。このアイディアで百万円もらった、大学生のとき。
◎――これ、漱石の小説が全部載っているの。
辻元 全部入っています。電話帳みたいに。死後五十年たってるから、だれでも出せるので。岩波の全集は高いわけです。岩波、この本に怒っていたらしい。品位落としたとか言って。
◎――しかしあなたがいくつか出している本にしろ、『週刊金曜日』の「永田町航海記」にしろ、自分の文章の調子を持っている。おもしろいけどね。
辻元 心に思うとおり書いている。
ただ限界があるのはね、言葉を知らないんですよ。本読んでへんから。演説してもね、単語が出てこない。ボキャブラリーが少ない。核心の言葉が言えなくて、周辺部をうろうろしてる。自分でわかるの。いらいらするし、なさけない。
◎――そうか、ひょっとしたらそういう苛立ちはあるかもしれないね。ところでこのまま結婚しないのかな……。
辻元 やだ、やだ、それは。結婚するかどうか別としてね、色気ないとね、やっぱりだめだと思う。『源氏物語』って結構好きなんですよ、私。
◎――こりゃまた。
辻元 瀬戸内寂聴さんとか田辺聖子さんとかの『源氏物語』をね、疲れたときにぱらぱら見るっていうか。あれは恋愛のあらゆる面が出てますよね。中国の古典が総合的なのと同じように。
◎――途切れがちな色気を補給しているわけだな。
辻元 そうそう、補給しているわけ、『源氏物語』で。ダセー。
《対談後期=1998年7月》
辻元清美さんは、社民党の、いや政界の新しい星である。自民党の古強者たちをおだてたりすかしたり、ひっかけたりして、NPO法案を成立させた働きぶりは、なかなかのものだった。
『何でも見てやろう』の野性味とピースボートを経営して身につけた組織を動かす感覚は政治への応用がきく。ひょっとしたら落ち目の三度笠の社民党を崖っぷちで救う役割を担うことになるかもしれない。
問題は選挙基盤だ。さきの総選挙で近畿比例区で当選した一年生、ぜひ足場を固めて議員を続けてほしい。
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(リード)
『首相官邸で働いて初めてわかったこと』は、下村健一氏が2010年10月からの二年間、菅政権の要請により、内閣府広報審議官として務めた時のことをレポートしている。
首相官邸という場所で「人々はどんな会話をして、どんなことを考え巡らせて、どんな理想を信じたり諦めたりして物事を決めていっているのか」を平明に答えている。東日本大震災発災後の首相官邸の動き中で、辻元清美の仕事記録の一端が紹介されているので、ここで紹介する。
(抜粋)
『首相官邸で働いて初めてわかったこと』
下村健一 著(朝日新書 2013年3月)より抜粋
第三章 すべてを変えた東日本大震災 2011年3月11日~5月
「必要なのは、水と食糧と情報!」――官邸初“壁新聞”誕生
ラジオと並んで、被災地で威力を発揮する情報手段が、貼り紙だ。三月三〇日からは、避難所の掲示板や、被災地の郵便局・農協・スーパー・コンビニ等、数千カ所に張り出すA3判の壁新聞「政府からのお知らせ」を発行開始した。アンケートを添えて、被災地のニーズのキャッチを試みたりもしながら、不定期に全一五号まで出した。
避難所にはすでに膨大な貼り紙があるので、その中で目を引かなければいけない。そこでここでも、特設ホームページと同様に、赤い太枠で紙面全体を囲み、これが政府のお知らせであることがわかるようにした。
第一号はまず冒頭で、「被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。半月を過ぎて皆様が今だご不便の中におられること、広大な被災地のすべての皆様に支援の手が届くのに大変時間がかかっていること、本当に申し訳ございません」と、政府としてお詫びをし、それから政府が今やっている取り組みを紹介。さらに「余震への注意喚起」、「健康への注意喚起」、それから「ラジオ番組もやっているから聞いてください」と伝えた。
そして、赤枠の一番下には、避難所にいる人たちへの呼びかけで、避難所内に目の不自由な人がいたら、周りの皆さん、どうぞこの新聞を読んであげてくださいと書き添えた。政府ができる広報には本当に限界があったので、ここでもまた、震災初日の帰宅困難者情報のように、情報の自主的リレーに期待した。
問題は、この壁新聞をどうやって避難所まで届けるかだった。そこで、自衛隊が食糧や物資を持って行くときに、一緒に運んでもらえないかと、防衛省に打診した。しかし、自衛隊としては当然ながら、「我々は命を助けに行っているのに、何で新聞配達をしなければならないのか」と当惑した。昼夜を問わず必死になって人命救助にあたっていた隊員の皆さんにしてみれば、もっともな感覚ではあった。その頃、官邸での大臣たちが集まる緊急対策本部の会合で、
ボランティア経験豊富な辻元清美総理補佐官が、皆に向かって、
「いま被災地に必要なものは、水と食料と、情報や!」
と力説してくれた。その後、自衛隊にも理解が得られ、まさに、水と食料と同時に壁新聞を運ぶ体制が整っていった。
―――それにしても、ミニFMラジオとか壁新聞とか、今まで僕が市民メディア・アドバイザーとして手伝ってきたような発信形態を、まさかこの首相官邸で仕事にする日が来ようとは、夢にも思わなかった。僕がこの職に就いたのは、実はこれを手伝うためだったのだろうか……と、少々不思議な気持ちだった。