封建制度が支配していた江戸、当然町民と武士では、裁判をする所が違っていた。

例えば武士が辻斬りなどをして捕縛された場合、幕臣なら評定所、藩士ならその藩に引き渡しとなった。

幕臣とは、いわゆる旗本や御家人の事である。しかし身分差の悲しさか、辻斬りの被害者が町民であれば、

犯人が死罪にまでなることは少なかった。


軽犯罪は町奉行所の手限裁判で処罰され、傷害事件などは「内済」という今でいうところの慰謝料の支払いで済ませたという。ちなみに女性の犯罪は、ほとんどの場合刑を軽くされ、女性が操を守るための殺しは無罪であった。


関所破りの場合でも、男性が磔獄門であっても、女性は奴として女郎屋での働きですんだ。

江戸時代、罪を犯した者には、どのような罰がまっていたのだろうか。


まず、奉行所の吟味の後は牢屋に入るのであるが、これは牢屋敷といい、石手帯刀という人物が名前と

役職を受け継いで支配していたという。

牢屋敷も身分によって入れられるところが違い、

お目見え以上の旗本や身分の高い神官、僧侶は揚がり座敷、武士や女性は揚がり屋、農民は百姓牢、

一般庶民は大牢、無宿者は無宿牢に入れられる。


ちなみにドラマなどでよく見る牢家主に金子を渡す、というのは実際にあったらしく、

腕力のある牢家主がいて、弱い囚人は作づくりといって、牢内のスペース確保のため殺されたらしい。


次に、以前十両盗めば死罪、と書いたが、これは夜に盗まれたときで、

昼間に盗まれた場合は死罪にまではならに事が多かった。しかし、昼であっても脅し取った場合は強盗であり、

やはり死罪となった。


盗まれた金が十両をちょっと超える場合には、被害者は犯人が死罪になるのも後味が悪いので、

温情で九両二分盗まれた、と届け出たらしい。


不倫については江戸の性愛でまた書く。

丑三つ時、という言葉があるように三つだとか五つだとかで時間を定めた江戸時代。

今の時間とどう違ったのか。


まず、24時間を12に分け、一刻が二時間に相当する。

まず十二時を暁九つとし、それから四つまで九、八、七……といき、正午に昼九つとまた戻る。


暮れ六つという言葉が有名なように、六つのときに明け、暮れとつける。


ちなみに江戸時代で有名な不定時法は、1844年に天保歴が以降である。


九からどんどん下がっていくと覚えよう。

時代劇でよく見るお代官様、その身分や仕事はどのようなものだったか?


まず身分は旗本で、勘定奉行にあたり、幕府や藩の直轄領を支配する地方官の事である。今でいう地方公務員にあたるかもしれない。

仕事は直轄地の年貢の徴収、司法検察、年貢米の売り払いの責任、などである。


奉行の仕組みなどはまた追って記事にする

江戸時代の博奕はサイコロ博奕と花札博奕の二つで、

賽事、札事と呼んだ。今でも使うヤクザ、とは札の専門用語の一つらしい。


博奕打ちの事は無職渡世と呼び、博徒以外の人には旦那様がた、お素人衆、と呼ぶ。

現在のやくざのはしりのようなものである。勝ち逃げをしないのが博徒の礼儀というか矜持だったらしく、

よく小説で登場するような元博奕打ちの目明しなどは同業者から嫌われていたらしい。


へりくだり、自分たちは人以下の役立たず、という謙遜が必要だったそうである。

博徒を股旅とも呼んだそうな。

相撲は神事であって、古くは七夕の日に行っていたそうである。

こうした中江戸では前後三番の勝ち抜きの賭け相撲が行われ、勧進相撲といわれる

寺社修復を名目に木戸銭をとる興業相撲が行われた。


年寄制度もこのころから始り、相撲の興業は決まった場所はないが、深川八幡他の神社が有名である

正月には、今と同じく、元旦はお店も休みが多い。

門松を立て、注連縄をはった。万歳、鳥追、獅子舞、太神楽などが各家を回り、ご祝儀をもらった。

鳥追いとは女性の門付けのことで、木綿の着物に小倉帯、紅染めの手甲、日和下駄に編み傘をして、三味線を弾きながら回った。七福神周りは享保のころに始まったとされている。


次の、春、桃の節句。

節分、初午、雛まつり、天念仏会、灌仏会など豊作や厄除けを祈る行事が集中する。


天念仏会は、天祭といい、各村で天棚をつくり、行者をよんで祈祷してもらう。


灌仏会は、お釈迦様の誕生会で、各家の軒ごとにうつぎと藤をさし、甘茶をかけ豊作を祝ったらしく、この時に

花見も一緒に行ったという。


端午の節句は現代と同じく、菖蒲や蓬をさし、こいのぼりや武者人形を飾った。


夏の七夕は水浴び、七夕など、水にまつわるまつりが多い。

もとは中国から伝来した女性のまつりであるが、盆行事と結びつき

墓掃除に行ったり、迎え火をたいたりしたという。


夏には山王祭が開かれる。6月15日には、神輿や山車、屋台を繰り出した。文化1804~ころには、

船宿や両国の料理屋の案で、花火も登場した。


八月一日には八朔といい、徳川家康が駿河から全員白帷子で関東に入国した日であるらしい。

この日武家は白帷子で江戸城に登城しなければならない。

吉原でも、白無垢の遊女が登場したらしい。


神田祭は山王祭と交互に隔年交代で祭りを執行していて、9月15日に行わせている。


とにかく豊作を願ったり感謝する祭りがおおく、庶民の数少ない娯楽であったようである

江戸時代は200年もあったのだからいつでも同じ物価とは限らないが、一応の目安に。


大福餅     4文         風呂屋     8文 

菜種油一合 40文         駕籠    200文

天麩羅蕎麦 32文         酒一升   200文

番傘     200文         髪結い    28文

下駄      50文

旅籠屋   200文


長屋住人の一日の稼ぎは、

居職(鍛冶屋等)は約三百文

出職(棒振り等)は約四百文

となっている。文政のころである。ちなみに店賃は月に五百文。

稼ぎにならない日もあるから月五百文は厳しかったと思われる。


六千文が一両、つまり五万円とすると、月四千円程度の店賃。


長屋者の月収が約8400文と考えると、月収一両一分程度。

月収五万円程度だったのである。


江戸時代の貨幣には金、銀、銭がある。

単位は両、分、朱、で、一朱は一両の16分の1。一朱金、というように使う。

銀は量で金へと交換するわけではなく、秤量貨幣と言って重さによる交換だった。


例えば一両は銀を六十匁、つまり何銀でもいいので六十匁の重さがある銀なら

一両に交換できた。


銭も同じく秤量制で、銭四貫目を一両と公定されている。


時代によっても違うが、米一石が一両とされている。

一石は米2.5俵であり、一俵は米50キログラムである。

これで現在の米の価値と換算すると、一キロ三百円……とすると、

一両は5万円程度とされている。 金10両盗んだら死罪、とされていたと考えると、

現在の価値で50万盗んだら死罪、となり、現在の軽犯罪の罰金50万円にも相当する気がするので、

一両5万前後、というのがひとつの基準となると思う。