若松かねしげです

4月12日~15日
三陸海岸と福島原発の現場へ行ってまいりました。

4月12日、新幹線が復旧していないため、羽田からの早朝便で青森・三沢空港着。
早速レンタカーに乗り替え、別便で送っていた果物80キロを積み込み、日ごろからご支援を頂いている、八戸市の臨海工業地帯にある製紙会社を見舞いました。

工場前の堤防は津波で削られ、今でも波で浸食が続いている状況です。
構内にあった事務棟や工場など、すべてが海水につかり、操業再開まで2ヶ月以上はかかるとのことでした。

公明党の山口代表が、3月30日に八戸に来ており、緊急に取り組むと述べていたことなども伺いました。


その後、海岸沿いの道路沿いに、50キロ先の岩手県久慈市に向かいました。途中、階上町、洋野町の港にも、津波で被災した現場が数多くありました。

午後3時、久慈市に到着。
公明党岩手県幹事長の二戸市議および久慈市議と合流し、市内の被害状況を視察しました。

久慈市には、国内に3か所ある地下基地の一つ、国家石油備蓄基地(3日分)があります。
しかし施設の事務所は全壊していました。

隣接する「北日本造船」
この工場は2年前に誘致され、300人の雇用を生み、久慈市を元気にする企業でしたが、この設備も全壊していました。

久慈市では、前期商工会役員の方々と、今後策定される久慈市の復興計画について意見交換を行いました。

また地元建設会社関係者の方からも、さまざまな話しを伺いました。
岩手県内の中堅ゼネコン会社役員の方は、
「三陸はまだ復興段階ではなく、復旧に全力を尽くしている状況」とのことでした。
しかし、意見交換を通じて、久慈市が、野田町以南の復旧、復興支援の拠点として、重要な役割を担うという認識で一致しました。

実は八戸で、『久慈市と隣の野田村では景色が違う』ということを聞いていました。

どういうことかというと、、、
地震発生当日、大津波は北に向かっていたため、東を向いている久慈湾の直撃は避けられたそうです。
残念ながら、死者・行方不明が5名、住家損壊367棟の被害がありましたが、市内の借り上げ住宅や既存住宅で被災者を受け入れることができたので、避難所はゼロです。
町の中心市街地も通常通りの様相でした。

12日に訪れた中で印象的だったのは、いかで有名な八戸港を視察した時のこと。
1隻数億円する数十メートルのイカ釣り漁船が数隻、港湾に打ち上げられていました。

港湾内にある「漁港ストア」の一角で、うどん、そば等を売っている食堂に立ち寄ってみました。

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港湾岸壁の近くなので、店内の壁や設備は津波で流されましたが、「自分たちが復興の第一歩になれば」との思いで、震災翌日から店内の修繕と復旧を行い、地震発生から8日後の3月19日に営業を再開したそうです。

ベニヤ板の張り紙から、その気持ちが伝わってきました!