昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の異母弟義円が弓矢の技と兵法・和歌に通じていたことが強調されていた場面がありました。ここで思い出したのは、西行(『百人一首』86番)です。

 

『吾妻鏡』文治二年(1186年)8月15日条によると、東北への旅の途中鶴岡八幡宮に立ち寄った西行に、頼朝は和歌について教えてほしいと願い、御所に招き入れ、「歌道并弓馬事」について質問したと言います。西行は、弓馬のことは昔のことで(出家前は北面の武士)、兵法の書も燃やしてしまい、和歌についてもお教えできるほどのことはありませんと断りますが、頼朝の熱心さに折れたのか、兵法については詳しく教えたと伝えます。頼朝は藤原俊兼に西行の話を書き留めさせたと言います。夜通し続いたとも。

 

この逸話がどこまで真実を語るかはわかりませんが、弓馬と和歌が武士にとって重要なものであったことことは言うまでもありません。頼朝はどうやって和歌を学んだのか。久保田淳氏は、昨日面会した梶原景時の影響があったのではないかと推測されています。

 

昨日のドラマで、義円が和歌を語っていた相手は、北条政子たち女性でした。平安時代の日記や物語などを見るに、女性の教育の重要な科目が和歌であったこと、なかでも『古今和歌集』がその筆頭であったことがわかります。『枕草子』でも、村上天皇の時代、(書道と琴(きん)の琴と)『古今和歌集』の20巻の和歌を暗記することを「御学問」にしなさいと父に教わった女性の話が登場します。

 

ちなみに昨日義円が紹介していた和歌は、紀貫之の

  歌たてまつれとおほせられし時、詠みてたてまつれる

春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ(『古今和歌集』春上・22)

でした。詞書の「おほせ」の主語は帝、この「人」は女性たちだろうと推測されています。新春の華やかな、そしておめでたい祝賀ムード漂う歌です。

 

若菜摘みは、現在の七草粥につながる早春の行事で、『万葉集』巻頭の雄略天皇の和歌も「菜摘み」する女性が登場し、『古今和歌集』以降にも重要な年中行事として受け継がれていきます。

 

ちなみに、美智子上皇后『瀬音』にも若菜を詠んだ歌が見られます。

若菜つみし香(か)にそむわが手さし伸べぬ空にあぎとひ吾子(わこ)はすこやか

『和歌・短歌のすすめー新撰百人一首―』(花鳥社)p212に解説は譲ります。

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