おはようございます。

 

日が昇るのが早くなった。

野鳥たちの鳴き声が聞こえてくると、

そう思う。

カーテンを少し手で開けて、外の様子を見る。

明るくなっている。

さあ、今日も私を生きるぞ。

 

毎年、この日になると、、、思い出す。

そう、母のことだ。

 

私の母は、46歳で倒れた。

私が高校を卒業して、就職先の研修に入り、

入社して4日めの夕方だ。

父は、私が中学1年生の秋に亡くなった。

39歳だった。

何か月か入院していて、

私たち会いたさに病院を抜け出して、タクシーで

夜、満面の笑顔で、白い半袖のシャツを着て、

玄関を開けて、帰ってきた。

もう、11月に入ってて少し寒いのに、、、半袖って、、、

私たちはびっくりした。

ビックリし過ぎて、、、直ぐに笑顔が返せなかった。

妹が父に抱きついていった。

まだ小学生だからね。

その夜中に、苦しみもせず、優しい寝顔のまま亡くなった。

死んでいるとは、誰もが思わなかった。

翌朝、声を掛けても起きない父に、

「いってきます。」

と、言って、私たちは、いつも通りに、学校へ行った。

1時限目の授業中に、事務のお姉さんが教室に来て、

教科担任の先生に伝え、

私が呼ばれ、告げられた。

本家のおじさんが迎えに来ていて、車中無言のまま、

8キロ自宅まで走行した。

家の庭と中には、親戚と近所の人たちで、人が沢山いた。

父の側には、白衣の医師が居た。

母と妹が泣いている、、、。

姉も泣き出した。

私は、声が出なかった。

どう見ても、父は、寝ているようにしか見えなかった。

優しい寝顔のままだ。

死んだとは思えない、、、なんで、みんな泣いているの、、、

と、、、正座したまま父を見ていた。

周りの音や声が全く聞こえてなかった、、、。

そんな私の様子を心配して、本家のおばさんが

「○○ちゃん、大丈夫?」

と、耳元で言われ、背中に手を当てられていた、、、。

反応が出来なかった。

信じられなかった、、、。

私の声が出るようになったのは、3日目の出棺の前の、

棺に蓋をし、石で釘を打つ時だった。

「嫌だ、、、嫌だ、、、。」

と、言いながら泣き出した。止まらなかった。

こんな突然の分かれって、、、受け入れられなかった。

 

父が亡くなってから、母は農業と酪農を辞めて、就職をした。

ほぼ休まずにだ。

父の居ない家庭となって、母の負担が増えた。

母は、私たちに愚痴も言わず、毎日、家事をやり、

仕事に行きと、手を抜いたことが無かった。

私たちの前で泣くこともなかった。

時々、夕食後、30分ほど出かけて行くことがあった。

どこへ行くのかと、、、こっそり後をつけた。

お寺へだ。寺のおばさんと合っていた。

しばらくすると、、、お墓へ行った。

父の墓に話しかけている、、、。泣いている、、、。

それを見てからは、、、私は、母にわがままなことは言えなくなった。

ほんとうはこうしたい、、、こうなりたいと言えなくなってしまった。

高校3年、、、就職先は決まっている、、、

私の心は未熟なことを思い知る、、、母の顔がまともに見れなくなった。

クラスの仲間が、進学をしたり、やりたいことのできる会社へと決まっていくのが

分かっていくと、、、自分はこれでいいのか、、、

と、、、、、もやもやと、、、悩んだり、、、葛藤して、、、友達の家に泊まることが増えた。

友達は、何も聞かず、泊めていてくれた。家族もだ。

母に心配を掛けていたのは確かだ。

卒業して、ちゃんと気持ちを切り替えることは決めていた。

社会人としてやっていくと。

私が就職して、、、安心してしまったのだろうか、、、

、、、いや、まだ、妹が学生だ、、、まだ安心できない、、、なぜ、、、倒れた。

就職したばかり、、、叔父が、私たちの代わりに話し合ってくれて、

特別に、私は休職扱いとなり、母の看護で病室に一緒に数か月間過ごした。

別のリハビリ病院へ転院して、1年半後に自宅へ母が帰宅して、

半身まひの障害者となったけれど、できる限りの家事をやって、

私たちを勇気づけてくれた。

14年間、障害者としてだけど、家事を休まず、

そして、同じ障害者のために、理不尽な思いをしないように亡くなるまで活動していた。

 

母の生き様は、、、肩書のある人ではなかったが、

尊敬できる。

だから、私は、弱い心に負けることはできない。

最後まで母として、人に優しくだ。

足元にも及ばないが、父と母の家族を思う気持ち、人としての生き方に

恥じないようにしたい。

 

嫁に行った娘から、薄い色のピンクのカーネーションが届いた。

嫁に行ってからは、赤いカーネーションではない。

ピンク系だ。

幸せなんだなと感じられる。

安心する。