昨日、体が硬い理由は、筋肉の硬直を生むような物事の処理の仕方をするせいによる、というような内容で、

「自分に起きた嫌な物事を、芯からスッキリと許せる、ようになれば、体の筋肉も柔らかくなるのではないかと書きました。(そしてストレッチをすれば、ですネ)



さあ、そんなことを書いた私ですが、わたしは奮闘しています。
私は今、84歳になって少しずつ老化してきている母のことで,

心の中にモヤモヤがしょっちゅうやってきて、それと奮闘している最中です。


母の体はまだ元気ですが、「力」と付く漢字のもの、体力、知力、判断力、忍耐力さえも無くなってきて、何でも我慢が出来なくなってきています。 

 

私は昔の通り、まだまだ母に対してわがままな娘をやっているんですね、でも母の方はもう、面倒くさいことは避けて私に頼ってくるようになってきているんです。 

 

私はそれくらいまだ出来るでしょう娘が一緒に居ない人はちゃんと自分でやっているんじゃないのかな、出来ることは自分でやった方がいいよ、でも母は、自分はもう歳を取ったのだからみんなに優しく面倒を見てもらって当然だと思うようになったんです。 

 

 

その二人のちぐはぐから、私の中では母といる時間が重たい気持ちの時間になってしまっているのです。

 


特に私の心が最悪、になってしまうのが飼っている犬のことについてです。

私のペットの飼い方、可愛がり方は異常だと思われがち、人間よりも(これはペットのストレスを取り除くためには当たり前なのかもしれませんが)手をかけます。 

 

母にはそれが性格的に出来ないのか、昔のような飼い方をしようとしたり、ペットというものをちゃんと飼ったことがないからだと思うのですが、、

 

犬のことについてだけではありませんが、何事も一生懸命に説明しても、もう数時間後にはすっかり忘れてまた、同じことを言ってきます。 

   

人の言うことが聞けない、自分のことしか考える余裕がない、ようするにキャパが狭くなってきているんです。それで、とにかく同じことを何回も繰り返す、、

何回も聞いてくる💦

 

母はそんな自分のことを分かっているのでしょうが、老化しているという風には絶対に認めません。誰でも歳をとればこんな風になるのだから、あんたもなるんだからそうすれば分かるわよ!

つまりは共感をしてほしいんですね。💦

でも娘だから、そうはいきません。

 

あんたもそうなるなんて呪いをかけないで~とか、

自分はなっても娘にはなってほしくないと思えないものかね、と心で思いながら、

時には厳しく、時には優しく「そうじゃないお母さん、自分で考えればまだちゃん分かることだよ。面倒くさいこともやったほうがいいよ、お母さんはおかしいよ!自分でそう思わないの?」ってなります。

 

そしてお互いに多分さみしい気持ちになっているんです。


 

 

うわ~~~💦

 

 

私はこれを10年以上もやっていて、最近五十肩になりまして五十肩くらいで良かったのですが、私はとうとう病気になったと思いました。

リウマチになってしまったと。

手足がしびれたりしていたんですね、でもその痺れは背骨の調整をしてもらったら治りました。
 


本当に、重篤な病気になっていなくて良かった(五十肩もかなり苦しいですが💦)と思いましたがあのままもしも感情に振り回されて十何年も怒りの中にいたとしたら、わたしは重篤な病気になるでしょう。

怒りは関節に溜まります。だからやっぱり肩、という関節にきました。💦


こういった母との状態はほんと、かれこれ10年くらい前から始まってきたことなのですが、もしも犬が母のところに居なかったとしたら、こんなにイライラすることもなかったのかもしれませんが、ですが犬がもしも母のところに居なかったらわたしは、今の母の状態くらいでは、実家には何日も行かないでしょう。

 

でも犬がいるので毎日母のところへ行くようになっている。 

 

ですから本当にこれは、母を助ける運命が来ているんだな、って、、、、自分の魂の計画なのだなと。

最初はそんなこと認めたくないって思いましたが、これが十年も環境が変化することなく続いているとなるともう観念して向き合うしかないと思いました。

 

魂の計画!

母のというよりわたしの魂の計画です、

それを感じています。

 

 

ゆっくりと心を落ち着かせて、

今日、自分の周囲で起きている物事は、今の自分にとって最適な状況がやってきているのだ!

と考えます。 

 

それを心の中に揺るがない信念の一つとして置いておかなければ、何でわたしだけ、何でこんなことに、何でいつまでたっても、何で、どうして、、、、となります。 

 

 

自分を軸にしてしまうとそうなります。 

でも人生とは奉仕であることを思い出すようにしています。(無償のとは言いません)

その中でしか至福の幸せはやって来ないことを思い出すと、本当にそうだ、と納得できる自分が出てくるんですね。
 

 
でも次の瞬間には腹の中が煮えています。

特に一緒に犬の散歩をしているときは最悪です。

母と一緒に歩いているからです。

 

母の悪口がすぐに心の中で始まるのですね。

それが自分でも嫌で、自分の健康も大事だから、、朝の散歩は出来るだけ母が来ないようにはからいます。

 


そのように気持ちがゆらゆらと不安定になりながら10年が過ぎ、フィットネスのインストラクターだというのに片手が挙がらないという重症の五十肩になるという、本当に関節に怒りが溜まってしまったところで、こういうことを経験するような運命になっていたんだねわたしは、と諦める、許す、手放す、それが出来るときもあれば、出来ない時もある、、

 

でも運命は変えられますからね、そこで私はもうこのままが続くのは嫌なので、もっと心の中綺麗にしたいと思うのです。

 

もしも心がモヤモヤしてきたら、

すぐに世界が自分軸で周っているなっということに気づいて、わたしは母と一緒に犬の散歩をしながあることを考えるんですね、それは生まれて小さなころの私です。私は商家の次女として生まれれて、男の子じゃなかったために、お爺ちゃんにはちょっと嫌われていました。

そのためかわかりませんが、母にべったりでした。母しか信用していませんでした。母以外は恐怖でした。

 

朝起きたら母以外の人がいるから不安、

幼稚園でもずっと不安、家に帰ってもしも母が居なかったら、わたしはどんな子供になっていたか想像がつかない、多分性格ゆがんでいたと思うほどとにかく毎日いつでも母しか見ていませんでした。

 

そんな私でも突き放すことなく可愛がってよく面倒を見てくれました。だからそこの部分について本当に多大なる感謝をしているんですね。

 

それを思い出すと心がぶわっと高まってきて涙が出てくるんです。そんな母のことを、このまま冷たくしていていいのか、と反省をしてもう1度考え直してみることにするんです。
 


そして、沢山母には守ってもらったことを思い出し、私は本当は母のことが大好きだったんだと心の深いところに戻ります。 

母は少し年老いたので、今は正常な判断力がなくなって弱い存在なのだ、弱い人に攻撃してはいけないと考え直します。

  

こんな複雑な思いが犬の散歩で歩きながら出てくるんですね、なぜなら犬の散歩のときの最初はいつでも母に対して怒っているからです。

怒りをしばらく感じた後、そうだこれではいけない、という思いが出てきて、変わっていくんですね。

 

一緒に散歩している母は何も気づいていませんが、私は最初カリカリして全然しゃべらない状態から、反省の気持ちが押し寄せ、勝手に涙をながし(今はマスクがありますから見られていません)泣いたらスッキリして、心が入れ替ってやさしいる人になっている、、とそんなことの繰り返しです。


 

これを何回も何回もやっているのですが、懺悔してしばらくするとまた忘れてイライラしている自分に戻ってしまうという、、、でもこれを繰り返してやるしかないと。

嫌なわたしに戻っては思い出し、戻っては思い出し、、、

 

いま自分で書いた「戻っては思い出し」というのは、ピラティスのレッスンでいつも私が参加者に言う「肛門(骨盤低筋)を締めることは忘れては思い出し忘れては思い出しの連続です」と言っていることと同じだと気づきました。

 

心のコントロールもカラダのコントロールも、おんなじなんですね。苦笑

 

親だって自分と同じ完璧な存在じゃないと考えます。親は反面教師でもあり、同じようにならないように自分が気を付けるように教えてくれている、と考えます。そうして親の素晴らしいところを探し、改めて見直します。

  


自分の親だからこそ、こうやってわたしの魂の成長にかかわってきてくれているのでしょうかね、

有難いと思います。
 


若さと健康は心の状態とダイレクトにつながっていると考えます。

精神と意志を使うことは大変ですが、遠回りのように見えますが、そこにはちゃんと、もっと上の、魂や自分の霊的な部分がかかわっていると考えます。  

  

 

変容のきっかけは、いつでも自分の身近なところにあるのだと思います。

神はあなたが今持っているものを使いなさいと言いました。

遠くの山で修行をしなくても、今の私が今の環境で変容をすることが出来る、そう信じて。

 

ウプ~💓カワ(・∀・)イイ!!

 

 

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