この苦しい気持ちは時間が解決するのかな。

前向きな時と、絶望的に落ち込む時と、その繰り返し。絶望に落ちるきっかけは色々ある。

子供の野球に前年までコーチだった間男は練習や試合にケロッと出てきては、私から微妙に距離を取り、子供に野球を教えたり、父母とヘラヘラしながら談笑してる。

今週日曜日は野球の試合だった。間男は観戦席にいた私の横約5メートルの所でお母さん達とこの日も談笑。私がムカついていた所に、妻がやってきて間男が立っているその前の席に座った。後から問い質すと、視力が弱い妻は着席し、間男の声が聞こえるまで、間男がそこにいる事が気付かなかったという。
間男の声が私にも聞こえてくる。まるで私にこの状況を見せつけるかのように声が大きい。お前の嫁から俺に近寄ってきたんだよとでも言いたいのか。その場で間男の声を背中で聞いている妻は動かない。

間男には妻へ不可避接触を除き接触を禁じている。しかしこの状況は妻から近づき、話の展開によっては不可避的な接触が起きかねない。それをガン見する訳にいかない私は、妻を強引にその場から離したい衝動を理性で何とか抑えながら、我慢していた。私の目の前で不貞行為をされているような錯覚に襲われた。頭がクラクラし足が震える。

この時、間男との和解書のやり取りを思い出した。私は間男が妻への一切の接触を禁じた。それに対し間男は、野球活動に伴う不可避接触まで禁じられるものでは無いと拒否。私は已む無く不可避接触を和解書から削除した。

だからといって不可避接触を許した訳では無い。もっと言えば、不可避接触が無ければ良いと言う訳でもない。

妻は発覚後夫の私に反省の姿勢を見せている。恐らく間男とは不貞行為を繰り返さないと、何となくではあるが私は認識し始めている。妻は、不可避接触が無いよう行動していると言う。

ならば、この時私が妻へ求める行動は、真後ろに間男がいると判った時、直ぐその場から離れる事。この行動は自然に出るのでは無いか?私の存在有無に関わらず、反省と誠意と再構築に向けて懸命になるなら、行動ルールとして身につくものでは無いのか?これは間違いだろうか?

間男が離れる迄、妻はその場にいた。「そこで立ったら皆が変に思う」と言うのが理由。私は妻がこの時気に掛けていたのは間男では無いのかと感じる。自分がその場を立ち間男へ拒否の姿勢を示す事が恐かった。間男にそう捉えられるのが恐かった?

この後、私は妻への気持ちが一気にマイナスへ動いた。妻は只ならない私の表情と雰囲気に怯え、子供がいない所で泣いている。今日まで私はこの「接触回避への妻の不作為」からまだ立ち直れていない。女々しいだろうか?厳しい意見でも良いので、皆さん教えて下さい。