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自歌合 五十四番左
朝日さす野原のをざさ霜きえて露としもなき光をぞみる
永福門院
永福門院百番御自歌合107
朝日の射す野原に揺れる
小笹の霜は消えて、
そこに残った、霜の名残である
露と言うにもはかない光を見る。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
をざさ:小笹。
「を」は
「小さい」「少し」を意味する
場合もあるが、
この場合は語調を整える働きで
必ずしも
「小さな笹」を意味しない。
露としもなき光:「露ともなき光」に
強意の「し」を加えた表現
内容や詠み方は良いですね。
「て」の前後で主語が変わるので
「ん? 」となりますが、
許容範囲内でしょうか。
「ぞ」の多用が……ね。
このひとつ前の「一はらひ」でも
その前の「さやかなる」でも
触れましたが、
京極派には多いのだよなあ。
必然的な箇所での技法の使用は
もちろん必然的なのですが、
猫も杓子もその技法、となると
読み手は飽きてしまいます。
この「朝日さす」の場合、
「永福門院百番御自歌合」の
107番ということで、前後を見ると
月のすがた猶有明のむら雲に一そゝきする時雨をぞみる
自歌合104
自歌合106
(朝日さす 107)
窓たたく嵐にさやぐ呉竹のよごとに雪をあすやとぞ待つ
自歌合109
宵のまま雪はひとへの色ながら薄雲はれて月ぞさやけき
自歌合113
ちょっと……過剰ですよね。
例えば私など
新古今から入った人間なので、
放っておくと三句切れの歌が
大変多くなります。
一首一首で考える時は
その歌が最も活きる形を
選ぶべし、ということで
三句切れが多くても
よいのですが。
連作を編んでどこかに出す時に
それでは、ちょっと。
ということで、連作では特に
歌の句切れが単調にならないよう
気をつけています。
「永福門院百番御自歌合」
のような自歌合などは
現代の連作と異なるので、
単純に同列に扱うことは
できないのですが……。
にしても、ここまで来ると
食傷してしまいます。
一首としては悪くない
と思いますけれどね。
今年亡くなった岡井隆氏が
『現代短歌入門』でしたか、
書いていらっしゃいました。
初学のころに読んだので
正確な引用はできませんが、
字余りという技法について
「ここぞという時に使うから
技法は技法になるわけで、
ほとんどすべての歌で
字余りしている
現代短歌において
字余りという技法を使っても
技法にならない」
というような事を
書いておられました。
たぶんこれ。
もし違ったらごめんなさい。
朝日さす野原のをざさ霜きえて露としもなき光をぞみる