健全な批判精神【歌の詠み方】 | わたる風よりにほふマルボロ

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及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。

 

 

もうこのシリーズは

やめたほうがよいのではないか

 

というぐらい長期間サボっている、

Twitterツイートを引用した

コラム記事です。

 

 

まだやるんかい。

 

 

しかもまた辛口いくよー!

 

 

 

 

 

 

4月14日のツイートの引用を

8月半ばにするなんて、

サボりすぎです。笑

 

ブログ自体は

一日も休まず続けてきたので、

 

ブログのやる気の問題ではなく

シリーズのやる気の問題でしょう……。

 

 

 

ほかにも

こんな事をつぶやいていますが、

 

 

 

 

揺るぎない基礎があって、

それに飽き足らぬ精神ゆえに

「本当にそれでよいのだろうか」

と問う姿勢と、

 

基礎も何もない、

ただ「先生がこう言ったから」

「茂吉がこうしたから」

「そうして習ったものと違うから

 これは間違いだ」

という根拠にもならない根拠で

無手勝流を展開し

他者を批判する姿勢と、

 

が同じはずがないでしょう。

 

 

歌を見ればわかりますよ。

 

 

「歌というものに対して

 リスペクトのある人の歌だな」

「リスペクトがあって、

 しかも技術もある人の歌だな」

「リスペクトはあるものの

 技術はまだ足りない人の歌だな。

 とはいえリスペクトがあるのだから

 この先の飛躍も時間の問題だ」

 

または

 

「この人は

 歌を利用しているだけだな。

 リスペクトのかけらもない。

 ただ“自己表現”のために

 歌という型が都合がよいから

 と使っているだけだ」

 

どちらなのかが。

 

 

 

歌の気配という部分については

引用しきれないくらい(笑)

記事にしてきましたが、

 

 

歴史や基礎を踏まえたうえでの

健全な批判と

 

 

ただ自己顕示したいだけの

批判のための批判

 

批判精神すら持たず

“自己表現”したい欲を

満たすためだけの無手勝流

 

 

は、一目で見分けられます。

 

 

「ではどれだけ基礎をやったら

 健全な批判ができる

 というのか? 」

 

自分で考えろ笑

 

そんな質問をする暇があったら

基礎を身に着ける努力をしましょう。

 

やればそのうちわかる。

やらぬうちから理屈をこね

正解を求めようとする人間には

一生わかりません。

 

 

 

少なくとも、

「紫立ちたる雲の、細く棚引きたる」

がなぜ「棚引きたり」でないのか

 

が、

単なる文法的な知識としてではなく

体感覚として

 

「そりゃ、「たり」じゃダメでしょ」

と言えない人。

 

基礎が足りていません。

 

 

あんまり言うとまた敵を増やすけど笑

現代短歌のほとんどの人が

該当してしまう笑

 

 

まあ、

本当の事を言うと敵が増えるのは

いまさらですね。

 

それに

短歌に限ったことでもないし。

 

 

それでは、またね^^

 

 

 

こちらはご参考までに。



 

 

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