西行 降りつみし | わたる風よりにほふマルボロ

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new第7回「現代短歌社賞」

選考結果の載った

『現代短歌』2020年1月号に、

梶間の8首抄が掲載されました。 

「梶間和歌の歌の載っている1月号を」

と言い添えてご購入いただけますと

とても有難いです。

ご購入はこちらからnew

 

new2月23日(日)、プチ講義しますnew

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春歌とて

 

降りつみし高嶺のみ雪解けにけり清滝川の水のしらなみ

 

西行
新古今和歌集春上27

 




【口語訳】


冬のあいだに深く降り積もった

高嶺の雪が解けたのだなあ。

「清らかな急流」という名のとおり、

清滝川の水かさが増し

水が踊るように白波を立てて

流れるさまを見て、気づいたよ。

(訳:梶間和歌)

 

 

【本歌、参考歌、本説、語釈】

 

消えはてぬ雪かとぞみる谷川の岩間をわくる水の白波

赤染衛門 玉葉和歌集雑二、2065

 

降りつみし……み雪:

 降り積もった雪、

 または深く降り積もった雪。

 「降り積みたる」の場合は

 降り積もった事実が現在に至るまで

 影響しているニュアンスが強い。

 「降り積みし」の場合は

 現在への影響より

 その時降った事実のほうに

 フォーカスしている。

 

高嶺:高い山

 

み雪:語調を整えるために

 「雪」に「み(美)」を添えたか、または

 「深雪」の意味の可能性もある。

 

解けにけり:解けたのだなあ、

 解けたのだと気づいたよ。

 「に(ぬ)」は完了、確述の助動詞。

 「けり」は気づきの助動詞、

 転じて詠嘆のニュアンスを

 持つようになった。

 

清滝川:愛宕山のふもとを流れ、

 保津川に注ぐ川。

 桜や紅葉、月の名所、また

 清流を通す渓谷美によって

 京の人々に親しまれた。

 「清らかな急流」という意味の名を

 春の雪解けで水かさを増した

 清流の歌に効果的に用いている。

 

 

 

赤染衛門「消えはてぬ」では

落花をとけ残った雪とする見立ては

従来のものだが、

川の白波をとけ残った雪と見るのは

斬新なこと

と触れましたが。

 

 

西行の「降りつみし」は

 

目の前の景を従来の見立てと

異なった形で発見した歌……ではなく、

 

目の前の景(水かさを増した清滝川の白波)

から

「雪がとけたのだなあ」と

目の前ではない場所で

起こっている(起こった)だろう事を

推測、発見し、詠嘆している歌。

 

 

ですので、「解けにけり」ではなく

「解けぬらし」でもよいわけですね。

 

「らし」とは、

目の前の景などから得られる

情報から

目の前ではない場所で起こっている

(起こった)と推測される事を

「こうであるということは、

 こういうことなのだろう」

と述べる助動詞です。

 

現代短歌で

「らしい」という意味のつもりで

「らし」と文語活用しているものは

ナンチャッテ文語です。

ああいうものは真似しないでください。

 

「こうであるということは、

 こういうことなのだろう」

という構造に当てはまらない「らし」は

ナンチャッテと考えて構いません。

 

春すぎて夏来にけらし(来たるらし)

(その根拠は)

白妙の衣干すてふ(衣干したり)天の香具山

(が見えるから)

 

(=白妙の衣干すという天の香具山が成り立っている、ということは、春がすぎて夏が来たということだろう)

ということです。

 

 

仮に三句「解けぬらし」と

詠んだとすると、

目の前の景と

いまは見えないが推測される状況の

因果関係を強く認識するニュアンス、

 

実際に採用された

三句「解けにけり」の場合は

発見や詠嘆を前面に出すニュアンス、

 

と捉えるとよいかな。

 

 

 

古典和歌というと、もうそれが絶対で

そのまま鑑賞します、

という姿勢についなりがちですが。

 

「もしこの助動詞がこれだったら

 ニュアンスはどう変わるかな」

「私ならこの動詞は採用しない」

「なぜこの作者は

 この助詞を選んだのだろう。

 ほかの選択肢はなかったのか? 」

「時代背景はどうだろう?

 そういう詠み方をした背景には

 きっと時代の要請もあったはずだ」

と問うてみるのも有意義ですよ。

 

それを問うプロセスを経たうえで

「ああ、だから

 この歌のこの箇所はこうなのだな」

と納得するのは、

 

「古典和歌なのだからこれが絶対」

という脳みそフリーズ鑑賞と

味わい方の深みが異なりますからね。

 

 

私は古典和歌でも

添削脳で読むことが多いですし。笑

 

和泉式部の歌も

建礼門院右京大夫の歌も

あれもこれも添削したくなります笑

 

 

それに、古典の世界だと当然

著作権という考え方はありませんから、

本人はこう詠んだのに

それが愛誦される過程で

異なって伝わる例、

 

勅撰集などに入集する際に

撰者の意向で変えられて入集する例、

 

勅撰集や家集などが

書き写されて伝わる過程で

誤写される例、

 

様々あります。

 

そして、それも含めて古典であり

古典和歌なのですし。

 

 

古典だから、昔の人だから、と

何事も絶対視しないこと……です。

 

自分の頭で考え心で感じ、そして

自分自身を超えたものと対話する。

 

 

そのプロセスを怠ってしまうと、

同じように現代短歌でも他の分野でも

 

たいしたことのない作品や

権威にあぐらをかいて

適当に発した発言を

 

「この人の作品だから良いのだろう」

「評価されている人がこう言うのだから

 そうなのだろう」

と受け止めることになってしまうでしょう。

 

それは、あなたの人生を

豊かにしない鑑賞であり選択ですから。

 

 

降りつみし高嶺のみ雪解けにけり清滝川の水のしらなみ

 

 

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「現代短歌社賞」応募作8首詠の

掲載された

『現代短歌』1月号はこちら

「梶間和歌の歌の載っている……」

の一言もぜひお願いします^^

 

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