九条良経 深草の | わたる風よりにほふマルボロ

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千五百番歌合に

 

深草の露のよすがをちぎりにて里をばかれず秋は来にけり

 

九条良経

新古今和歌集秋上293

 

 

 

【現代語訳】

 

私に飽きて夫の去ってしまった

この里の深草に置く露。

その露をたよりに、

私の涙の露を散らそうと、

約束どおり

この里を離(か)れることなく

秋はやって来たのだなあ。

深く茂る草はまだ枯れない

この里に、

涙の露も涸れないこの里に、

あの人は約束を忘れて

去ってしまったこの里に、秋は

約束どおりやって来たのだなあ。

 

(訳:梶間和歌)

 

 

【本歌、参考歌、本説、語釈】

 

むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。

年を経て住み来し里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ
女、返し、
野とならば鶉となりて鳴きをらむ狩にだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。

伊勢物語百二十三段 「鶉/深草の里」

 

深草、里:

 深草は京都市伏見区の歌枕。

 「深草」「深草の里」で

 和歌に詠まれる。

 文字どおり草深い里。

 

露:涙を掛ける

 

よすが:ゆかり、頼り

 

ちぎり:約束、また男女の恋の約束

 

かれず:離(か)れず。

 「草枯れず」や「露(涙)涸れず」も

 掛けるか。

 

秋:「飽き」を掛ける

 

来にけり:来たのだなあ、

 来たのだと気づいたよ。

 「けり」は気づきの助動詞で、

 気づきが詠嘆の意味も持つ。

 

 

 

建仁元年(1201年)企画の

「後鳥羽院第三度百首」。

 

そのために詠まれた百首歌

30人分を

翌年から翌々年にかけて

歌合の形に番え、判をしたのが

「千五百番歌合」です。

 

 

良経の歌は、

厚みがしっかりあるのに

その背景部分や技巧が

嫌らしく前面に出ることがなく、

 

読んでいて気持ちよいですね。

調べもよいですし。

 

 

 

さて、比較するのも気の毒ですが、

現代短歌の話。

 

現代短歌の歌会や雑誌などで

「ここは「は」より

 「の」のほうがよいだろう」

などと議論されたりしますが、

 

 

「は」と「の(が)」は

入れ替え可能ではありません。

 

入れ替えるとしたら、

ニュアンスがずいぶん変わります。

 

 

単純に主語を表すのが

格助詞「の」。

 

主題や題目を提示したり

他と区別して

特別取り立てたりするための

助詞が、係助詞「は」。

 

もともとの趣が

ずいぶん異なるのです。

 

 

この「深草の露のよすがを」の歌で

 

秋の来にける

(「の(が)」を受けるのは連体形なので

 「来にけり」ではなく「来にける」)

 

と詠むのと

 

秋は来にけり

 

と詠むのとでは、意味合いが

まったく異なるのですよ。

 

 

秋“は”来た、あの人“は”来ない、

そう、私は

「飽き」られたのだから……、

 

というニュアンスを表すのに

「秋の」と詠んではいけない。

 

「秋の来にける」に

上記のニュアンスは出せません。

 

 

それぞれの助詞の持つ

核となるニュアンスを

しっかり把握したうえで、

適切に遣い分ける。

 

そういうリスペクトの姿勢があれば、

そう不自然なことにはならない

と思うのです。

 

 

 

現代短歌の歌会の話をすると、

題詠「食べ物」で

 

たらちねの母の味など言ひたればぶり大根は君に作らず

 

という歌を昔出しました。

 

この歌に対して、

「は」の限定の意味を

理解しているのかしていないのか

よくわからないオジサマが

 

「ぶり大根“は”君に作らず

 ということは、

 “君”以外の男には作る

 ということでしょうか」

 

という的外れな評をしました。

 

 

仮に下の句が

ぶり大根を君には作らず

だったとしたら、

この評はあり得ますね。

 

“君には”であれば、

“作ら”ない相手を

“君”に限定していることになるので、

ほかの人にぶり大根を作る

可能性があるでしょう。

 

 

ですが、出された歌は

ぶり大根は君に作らず

です。

 

この下の句では“作ら”ない対象を

“ぶり大根”に限定する目的で

“ぶり大根は”としています。

 

この下の句を読んで

「君以外には作るのか? 」

という評は、成り立ちません。

 

 

“は”に着目したつもりでいながら

読み間違いも甚だしい。

 

日本語読めないのかな?

 

 

 

話は戻しまして。

 

 

この「深草の露のよすがを」の

本説となった

『伊勢物語』百二十三段では、

 

女の返歌に感動した男が

去ろうとした気持ちを翻し、

里にとどまります。

 

 

ですが、『伊勢物語』百二十三段を

本説とした和歌では、

 

男は去った

女だけが取り残された

 

という前提で詠まれた歌が

多いですね。

 

俊成の「うづら鳴くなり」もそうですし、

この「深草の」もね。

 

 

どう考えても

男に去られなかった女より

男に去られた女のほうが

歌の設定として

望ましいですものね。

 

歌の力で夫婦関係を修復した女

なんてものを見せられても、

「へー。よかったねー」

以外の感想が持ちにくいですもの。

 

 

和歌にしあわせは不要です。

 

悲恋や悲劇こそ

和歌にふさわしい前提なのです。

 

 

勅撰集の「恋三」部を見てみましょう。

 

ようやく結ばれた

ラブラブハッピー期であるはずの

男女の歌さえ

しあわせなどかけらも

詠んでいませんから。笑

 

「朝になったら

 離れなければいけないのがつらい」

「こんなに苦しいなら、

 片想いしているころのほうが

 マシだった」

 

みたいな歌のオンパレードです。

 

 

 

古代ギリシャでしたか、

喜劇より悲劇のほうが

上位に位置付けられていた

という研究があるそうです。

 

悲劇をとおして経験する

カタルシスと比べて、

喜劇のもたらすカタルシスは

底が浅いからではないか、

 

と尊敬する木坂健宣さんは

言っていました。

 

納得できる考え方です。

 

 

深草の露のよすがをちぎりにて里をばかれず秋は来にけり

 

 

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