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恋歌に
つひにさても恨(うらみ)のうちに過ぎにしをおもひいづるぞ思ひ出(いで)もなき
永福門院
風雅和歌集恋五、1377
【口語訳】
このまま終わることはあるまい、
そうはいっても私たちのあいだには
確かな愛があるだろうと
信じてきたものの……
とうとうそのまま最後まで
恨みのうちに過ぎ去ってしまった恋、
修復できなかった恋よ。
思い出してみるものの、
想い出とすべき想い出のひとつも
残っていないのだった。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
つひに:ついに、とうとう
さても:そのまま
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思ひ出もなき
と言い切ってしまうけれど、
そのため息を歌にしてしまうところに
何かが残っているように思われる。
ほとんど自分に影響しなかった
恋や経験、
想い出と呼ぶべきもののない
恋や経験は、
ではそれを歌や芸術作品として
ぜひとも表そう、残そう、
とすることもないのでは。
もちろん、
題詠恋歌がほとんどの時代に
詠まれた場面の指定されていない
恋歌を
本人の実感として受け取ることには、
注意しなければいけませんが。
“そういう恋である、
そういう心持ちで詠んだ歌である
という設定で”恋歌を詠む
という前提を、
鑑賞者もわきまえていなければ。
岩佐美代子氏も
「思ひいでもなき」とつき放して居ながら、やはり残る生をその思い出をいとおしんで生きて行くよりほかない作者の心が、ふかぶかとうたい出されている。
としています。
この「作者の心」という箇所は
「作中主体の心」としたほうが
適切ではないかな、と
私は考えますが。
それでも、
作中主体の心と作者の心は
淡く交差すると捉えて好い
とも思います。
「これが作者の心なのだ」という
短絡的な決めつけがいかがか、
というだけで、
作者の心のありようが
作中主体の心のありように
影響することがないわけではない、
と。
やはり岩佐美代子氏ですが、
この歌の先行歌として女院自身の
うかりきな契むなしくふけし夜よ思ひいづるも思ひ出ぞなき
を挙げています。
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つひにさても恨のうちに過ぎにしをおもひいづるぞ思ひ出もなき
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